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第4話 大切にすべきもの(前編)―小さな星と焦げた卵― 【挿絵あり】

笑いは、家に着くまで続いた。


不思議なもんだ。教室では腹がよじれるほど笑えたのに、玄関のドアを開けた途端、家は静まり返って、俺が説明するのを待っているような気がしてくる。


誰もいなかった。母さんは仕事だ。台所はぴかぴか。三つ目の椅子のクッションは、この家の本当の主みたいな顔で、そこに座っていた。


二階に上がって、カバンを放り出し、ベッドに腰を下ろした。それから、一日中避けていたことをやった。


シオンのノートを開いたのだ。


青い表紙。『ハルトへ 昨日の分』。中は、印刷かと思うほど整っていた。赤字の公式。小さな矢印。「ここ、ややこしいよ!」と書かれた小さな枠と、その横のスマイルマーク。まるで、数学が怖がってしまうといけないから、とでもいうように。


一日分の授業が、手書きで写してあった。頼みもしなかった男のために。前の人生では、ろくに挨拶すらしなかった男のために。


最後のページには、もっと小さな字で。


『わからなかったら、聞いてね。僕は最前列にいるから。 ——シオン』


二回読んだ。それから閉じて、机の上のカレンダーを見上げた。


「ハルト テスト!!」


その横の、小さな星印。母さんの字だ。母さんが、星を描いたんだ。俺のために。俺の記憶にある限り、星を描いてやるような点数なんて一度も取ったことのないガキのために。


……そうか。


二人。二人の人間が、ノート一冊と星ひとつで、俺が着地するための柔らかい場所を静かに作ってくれていたのに、俺は目を閉じ、ヘッドホンをして、「ん」と言いながら歩き回っていた。


言っておくが、俺は大家と、三回の就職面接と、全部赤字で書かれた銀行の手紙を生き延びた男だ。それなのに、とどめを刺したのは、スマイルマークつきの青いノートだった。情けない。まったくもって情けない。


考えろ、ハルト。考えろ。


後悔ってのは、世界で一番手軽な趣味だ。無料で、どこでもできて、すぐに成果が出る。ひどい気分になれる。俺は二日間ぶっ通しでそれをやった。トイレで。天井のファンの下で。昼飯の席で。もはやプロだ。誰かトロフィーをくれてもよかったのに。小さいやつを。段ボール製で。


で、それは何を変えた?


何ひとつ。母さんは相変わらず仕事を二つ掛け持ちしているし、シオンは相変わらず俺の後頭部におはようを言っている。変わったのは、目が痛くなったことくらいだ。


あのハゲは、半秒遅れて感じることになる、と言った。扉がもう閉まった瞬間に、と。


でも、扉は閉まっていなかった。それがオチだ。俺がバタンと閉めてきた扉は、みんなまだ開いている。十八年分、大きく。外に座って隙間風に文句を言う代わりに、そこをくぐればよかっただけだ。


あいつはこうも言った。あの白い場所に立ったのは、俺が最初じゃない、と。つまり、前にも誰かが扉をもらったってことだ。そいつがそれをどう使ったのか、俺には見当もつかない。次の見本になって、答えを知るなんて真っ平だ。


さて。計画だ。


大げさな演説をぶつこともできる。「俺は運命を変える。今度こそ強くなる」。練習までした。大演説は楽しい。そして役に立たない。俺が読んだどの小説でも、主人公は演説をして、そのあとドラゴンが現れて、誰も演説のことなんか覚えていない。


俺にはドラゴンはいなかった。青いノートと、焦げた卵と、カレンダーの星がひとつあった。


なら、小さなことからだ。


自己改善の物語は、どれも同じ始まり方をする。ノートを買うのだ。


公式は知ってる。窓の外を見つめる主人公なら、ざっと九百時間は見てきた。柔らかいピアノが「ここですべてが変わる」と言っている。ノート、決意、モンタージュ。簡単だ。


ノートを買う金はなかった。


あったのは、机の一番下の引き出しと、その中の、使いかけで表紙に猫のイラストがついたスパイラルノートだった。ページの隅にも小さな猫がいて、たぶん精神的な支援のためだろう。表紙の猫は、俺に失望した顔をしていた。当然だ。みんなそうだ。


最初の六ページは、剣だった。同じ剣が、十一回。十六歳の俺は、柄を一度も描き終えなかった。大きな夢、ゼロの継続力。


最初の白紙のページをめくって、ペンをカチッと鳴らし、一番上にタイトルを書いた。


【大切にすべきもの】


それから五分間、それを見つめた。


ノートに後悔の名前をつけるのは、驚くほど簡単だ。それを埋めるほうが、ずっと難しい。


よし。リストだ。俺はリストの男だ。好きなオープニングのリスト、好きなヒロインのリスト、学校をサボる理由トップテンまで作った。リストならできる。


一、おはようを、返す。


二、母さんが話すとき、顔を上げる。


三、メモを残す。


四、ちゃんと勉強する。鉛筆で。「インスピレーションのため」にマンガで、じゃなく。


五、何も破かない。


読み返した。


五行。それだけだった。それが演説のすべてだった。あの声、あの顔、「俺は運命を変える」。結局、俺の運命は、ただおはようを言ってほしかっただけらしい。


続けた。


六、ラーメンの匂いのする部屋で死なない。


見つめた。「ラーメンの匂いのする」を消した。「部屋で」を消した。「死なない」を残した。


堅実だ。やる気が出る。ポスターにしろ。


七、シオン。


「謝る」と書いて、それを消した。まだあいつは何もしていないからだ。そして俺も、まだ何もしていなかった。それが問題のすべてだった。代わりに「友達になる」と書いた。


しばらく、それを見つめた。携帯のメモ帳に「普通の人間になる」と打ち込むみたいな感じだった。公平に言えば、それもリストに入っていた。


八、アカリ。


ペンが宙に浮いた。


名前の横に、何を書くんだ? 優しくする? そばにいる? ……そばには、いた。間違ったテーブルで、アイスコーヒーを前に、ドアを見ていただけだ。


俺は書いた。臆病になるな。


それから、もっと小さく。会いに行け。


なんでそう書いたのかは、わからない。ペンから勝手に出てきた。


ノートを閉じた。猫が俺を見つめていた。


「そんな目で見るなよ」


顔を上げると、ピンクのツインテールの少女が壁から見下ろしていた。自分の体より大きな剣を持って、小さな絵の具の笑みを浮かべたまま。


「……ごめん」俺は彼女に言った。「お前のせいじゃない。俺が悪いんだ」


ポスターを、絵の面を壁に向けて貼り替えた。


実際、俺が悪いのだった。そして俺は、少し座り込まなければならなかった。たった今ポスターと別れ話をしたばかりで、そういうのは、男の中に残るものだ。


次は、マンガの棚だった。ベッドのシーツを、犯行現場の遺体みたいに被せた。二列。シーツ一枚。事件ひとつ。


「安らかに眠れ」と俺は言った。


天井のファンが、きしんだ。


俺はそれを「金曜に会おうぜ」という意味だと決めた。


見てろよ。


* * *


翌朝、シオンは八時十分に入ってきた。いつもどおり。


ノートの束を、誰かに盗まれるとでもいうように胸に抱いて。寝ぐせは、相変わらず戦いに負けている。耳の後ろのシャーペンも、相変わらず忘れられている。


あいつは、俺の机の前を通った。そして、歩みを緩めた。


そこで気づいた。あいつがやっていたことなんだ、と。毎朝、俺の机の前で歩みを緩めていた。もう消えているとわかっているコンロを、確かめるみたいに。


「……おはよう、ハルト」


あの声。慎重な声。前に噛まれたことのある野良犬に近づく男の声。


毎朝。前の人生で、一年間、毎朝。そして俺は、後頭部で答えていた。


口を開いた。


何も出てこない。


おい、頼むよ。二言だろ。虚無を生き延びただろ。味噌汁一杯を生き延びただろ。二言くらい生き延びられる。


カスタマーサービスの電話には、もっとひどいことを言ったことがある。コンビニのレジの人に、おにぎりの割引をねだったこともある。これは難しくないはずだ。


「おはよう」


シオンは、ノートが本人を置いて先に行ってしまいそうなほど、急に立ち止まった。


俺を見た。それから、俺の向こうの窓を見た。まるで、その挨拶が鳥に向けられたものだったかのように。


「……言った」


「お前が先に言っただろ」


「わかってる、僕はいつも言うけど、君が——」あいつは眼鏡を押し上げた。「君が、返してくれた」


「返しちゃいけなかったのか?」


「ううん! いや、いいよ。大丈夫、それは——」


また、早口になった。それからあいつは最前列の席に座って、机をものすごく真剣に見つめて、耳の先が赤くなって、耳の後ろのシャーペンが震えていたのは、たぶん見間違いじゃない。


まず一つ。


計算した。一年分の登校日、前後あわせて。俺はあの子に、約四百回分のおはようを借りている。


分割払いにしようと思った。あいつが望むなら、利子をつけて。俺ならちゃんと返せる。たぶん。俺には猫のノートと夢がある。


二つ目は、十分後に起きた。


「よう、シオン。宿題は?」


後ろの列の男子だった。どっちの人生でも、名前を覚えなかった。そいつはもう机越しに手を伸ばしていて、あいつの顔すら見ていなかった。ナプキンを取るみたいに。


「いいよ!」とシオンは言った。ノートを取り出して、手渡した。そして、微笑んだ。


あの笑顔を、俺は知っていた。


俺も一度、もらったことがある。俺があいつをくだらないあだ名で呼んだとき、「それ、うまいね」と言った、あの笑顔だ。褒め言葉みたいに。あれは、同じ笑顔を使い続けすぎて、自分がそれを着けていることにも気づかなくなった奴の笑顔だ。


後ろの列の男子は、空気に向かって「サンキュ」と言って、歩き去ろうとした。


喉の奥に、何かがこみ上げてきた。古くて、馴染みのあるもの。あの笑い。ハッ、チョロいな、っていうやつ。よく響くやつだ。


飲み込んだ。


「おい」


そいつは立ち止まった。


「今お前が借りていったのは、人間からだぞ」俺は言った。「自販機じゃない。礼を言え。あいつに。顔を見て」


間があった。長い間。教室の前のほうが、ぜんぶ静まり返った。


「……ありがとな、シオン」そいつは戸惑いながら言って、今度はシオンを見た。ちゃんと見た。それから、そそくさと去っていった。おとなしい奴が突然おかしなことを言ったときに、人が去っていくあの去り方で。


シオンが、口を少し開けて、俺を見つめていた。


「あんなこと、しなくてよかったのに」


「わかってる」


「でも……どうして——」


「ちょっと試してるんだ」俺は言った。「変な空気にするなよ」


「してないよ」


してた。あいつの目は潤んでいた。眼鏡を押し上げて、それを隠した。


その間、俺は、銀行強盗でもしたみたいに心臓をバクバクさせて座っていた。誰かをかばうのって、めちゃくちゃ怖いんだな。英雄たちは、これを毎日どうやってやってるんだ? 励ましの言葉は? 柔らかいピアノは?


天井を見て探した。何もなかった。


* * *


学校の坂の下に、自動販売機がある。


前の人生では、毎日その前を通った。そして、その横に誰が立っていたか気づかなかった、と言いたいところだが、今の俺には嘘をつかないっていう決まりがあるから、正直に言う。


気づいてた。ただ、気づかないことにしていた。


なぜなら、そこにはいつも、コーラを持った馬鹿がいたからだ。


何をするでもなく。ただ立っている。コーラを手に、寝ぐせをはねさせて、明らかに暗記しているはずの缶の成分表示を読むふりをして。俺が通り過ぎるたびに、あいつの手が少し上がった。何か言おうとするみたいに。


そして毎回、俺はヘッドホンをつけた。


俺の頭の中で、あの自販機は、コーラを持った馬鹿が俺を待っていた場所だった。


現実では、その馬鹿には名前があった。


「あっ! ハルト!」シオンは、丸一秒遅れて、丸一オクターブ高い声で言った。「すごい偶然だね! 僕はただ、ここにいるだけで。自販機に。ちょうどその時間に」


「毎日、ここで待ってるのか?」


「ううん! たまに。何日か」間。「ほとんど毎日」


あいつは、自分のコーラに目を落とした。


「練習してるんだ」


「何の?」


「ひとつの文」


「どんな文?」


言うまでに、しばらくかかった。寝ぐせが、努力でしおれて見えた。「『一緒に帰らない?』」あいつは、ほとんど囁くように言った。「七文字だよ。たいてい、『一緒に』のところで怖気づいちゃうんだ」


俺は、あいつを見つめた。


前の人生ずっと、この子は毎日午後に自販機の前に立って、たった七文字を言う勇気を絞り出そうとしていた。そして俺は、耳に音楽を流して、その横を通り過ぎていた。


それは半秒じゃない。一年まるごとだ。


「そんなに難しくない」俺は言った。声が、変な感じで出た。「七文字だろ」


「思ったより難しいんだよ」


「……ああ。気づいてる」


小銭を掘り出した。ボタンを押した。缶は、小さなドアが閉まるみたいな音を立てて落ちた。


それを拾い上げて、あいつの缶にコツンと当てた。


カチン。


「それ、何のため?」


「利子」


挿絵(By みてみん)


「……何の?」


「ローンの。すごく長いやつ」


あいつは瞬きをした。それから、訊かないことにした。賢明だ。シオンは、罠の匂いを嗅ぎ分けられる奴で、同時に、誰かが贈り物を渡そうとしているときにそれがわかる奴でもある。


俺たちはしばらく、そこに立っていた。缶が、手の中で汗をかいていた。


「一緒に帰らない?」とシオンが言った。七文字を一気に、絆創膏を剥がすみたいに。


「いいよ」


「……シオン?」


「うん」あいつは言った。「よかった。僕、歩くね。下まで。君と」


「そういう計画だ」


「いい計画だね」


あいつがあまりにぎこちなく歩くので、ロボットとすり替わったのかと思った。街灯にぶつかりかけた。俺は何も言わなかった。ただ肘を持って誘導して、偶然を装った。あいつが自販機でやっていたみたいに。


坂の途中で、夕方のオレンジ色の空が、ノルマでもあるかのように染まるなか、俺は言った。


「なあ。数学、教えてくれ」


あいつは、歩くのをやめた。


二つの人生で、いろんな顔を見てきた。上司。大家。ナニもついてないハゲ。でも、あいつの顔がしたことは、見たことがない。俺が結婚を申し込んだみたいな顔だった。「遅くなってごめん」というメモをつけて、宝くじの当選を手渡されたような顔だった。


「本当に?」あいつは、とても静かに言った。それから慎重に。「どの章?」


「全部」


「それは……すごい数の章だよ」


「なら、始めたほうがいいな」


* * *


勉強について、誰も教えてくれない事実がある。効くのだ。


それだけ。それが秘密のすべてだ。やれば、やったことになる。本を開けば、四十分ほどで、予想に反して、本が開き返してくれる。


十八年間、何もかもに失敗し続けたのに、答えはずっと同じ部屋にあった。青いノートの中、大事なところを赤にして。


教科書を、税務署からの手紙みたいに開いた。


二次方程式。十八年ぶりに見た。元カノみたいに、存在すら忘れていた。そして元カノと同じように、変わっていなくて、相変わらず俺を馬鹿な気分にさせた。


最初の一時間は、悲惨だった。数字がページから滑り落ちた。文章は途中でリセットされた。同じ行を四回読んでから、卵焼きのことを考えていたと気づいた。俺の脳みそは、二〇〇九年のノートパソコンにゲームを動かせと言っているみたいだった。


「大丈夫だよ」シオンは、自分の本から顔を上げずに言った。「みんな、二章でつまずくから」


「お前も?」


「今でもね」


嘘だ。あいつは学年トップだった。でも、ありがたかった。


それから、二時間目あたりで、変なことが起きた。わかった。一問。それからもう一問。難しくはなかった。ただ、そこにあったのだ。引くと書いてあるのに、ずっと押していた扉みたいに。


これが俺のチートスキルかもしれない。ステータスウィンドウも、ファンファーレもなし。ただ、十六歳の脳みそ、新品のメモリに、大人の男の頑固さをインストールしたもの。


それと、膝が痛くなかった。誰も教えてくれないが、十代の体は、それ自体がチートだ。二時間あぐらをかいても、普通の人間みたいに立てる。ポキポキ鳴らない。効果音もなし。それが可能だってことを忘れていた。青春の加護。スポンサーなし。


五時には、図書館はほとんど空っぽになった。シオンは、ゆっくりとカバンを詰めていた。声に出すのが怖い考えを抱えているときみたいに。


「訊いてもいい?」


「……いいよ」


「どうして、こんなことしてるの? 勉強、ってこと。僕と」あいつは、カバンの紐を直した。「嫌じゃないよ! すごく嬉しい。ただ、その。前は、全然、やりたがらなかったから」


ジョークを十ばかり思いついた。どれも、ひどかった。


「お前こそ、なんでお前がやるんだ?」俺は代わりにそう言った。「ノートとか。おはようとか。俺はお前に嫌な奴だった。大声は出さなかったけど。ただ……ずっと」


「嫌な奴じゃなかったよ」


「一年間、お前を無視したんだぞ」


「それは同じじゃないよ」あいつは少し考えた。「一年のとき、みんなの前で答えを間違えて、全員に笑われたことがあったでしょ。君は、笑わなかった」


「寝てたんだ」


「寝てたね」あいつは認めた。「でも、そのあとも、笑わなかった。一度も。それは……今まで誰かがしてくれた中で、一番優しいことなんだ」


口を開いた。閉じた。


「……シオン」俺は言った。「それは優しさじゃない。ただの床だ」


「いい床だよ」


あいつは本気で言っていた。ハードルは、長いこと地面に置かれていたせいで、俺はそれにつまずいていた。そしてあいつは、その上に友情を丸ごと建てたのだ。誰も、あいつに椅子を差し出さなかったから。


鉛筆を置いた。しばらく、何も言えなかった。


「わかった」俺は、ようやく言った。「床でいい。椅子は、俺が用意する」


「え?」


「何でもない。今、取り組んでることだ」


あいつは、青いノートを差し出した。


「はい。持って帰って。最初の章から全部入ってるよ。赤い書き込みは、無視していいから」


俺は、両手で受け取った。そうするものだから。


「無傷で返す」


シオンは笑った。俺が冗談を言っていると思ったからだ。


冗談じゃなかった。リストの五番だったからだ。


* * *


水曜日。午後三時。三者面談。カレンダーに、母さんの字で丸がしてあった。星はなし。


前の人生では、その日のことは、歯医者の記憶みたいに覚えている。主に天井だ。タイルを数えた。四十二枚。今回も、念のためにもう一度数えた。やはり四十二枚。いいタイルだ。信頼できる。


母さんは、仕事先から直接来た。上着の下に、まだ制服のベストを着ていたからわかる。息を切らして、それを隠そうとしていた。教室に入ると、座る前から、先生にお辞儀をした。


それから座った。生徒用の椅子に。子供用に作られた椅子に腰かけた、大人の女の人。膝をそろえて、カバンを膝の上に、背筋を伸ばして、これから採点されるみたいに。


放課後の教室は、チョークと静かな失望の匂いがする。俺は、手を膝に置いて、母さんの隣に座っていた。「できた息子」の顔で。この顔を最後に使ったのは、大家との交渉のときだ。


先生はファイルを開いた。俺の成績を、裁判官が判決を読み上げるみたいに読んだ。その裁判官が風邪をひいていたら、の話だが。


「出席は問題ありません。数学、三十一点。古文、二十八点。物理は意外と健闘していて六十四点、率直に言って、点数らしく見えるのはこれだけです」先生はため息をついた。「授業中は寝ています。宿題は出しません。悪い子ではないんです。ただ……ここにいないんです」


ここにいない。すごいな。先生、美しい表現です。墓に刻んでください。ラーメンの匂いのする部屋で死んだ男の、すぐ隣にでも。


笑うべきか決めかねているうちに、母さんがお辞儀をした。


椅子に座ったまま。額が、膝につきそうなほど。


「申し訳ありません。私のせいです。夜遅くまで働いていて、この子の面倒を、きちんと見てやれなくて。本当に、申し訳ありません」


また、謝った。


「どうか、お許しください。私が、ちゃんと——」


また。


数えてしまった。どうしようもなかった。四回。


四回の謝罪。俺のために。


ジョークに手を伸ばした。どんなジョークでもいい。俺にはライブラリがまるごとある。


ライブラリは、閉館していた。


なぜなら、俺は前にも、この部屋にいたからだ。同じ椅子で。あの日、頭の中にあった考えは、ああもう、早く終われよ。新しいエピソードを見たいんだ、だった。


母さんは、ここで俺のために謝っていて、俺はアニメのことを考えていた。


「母さんのせいじゃありません」


みんなが俺を見た。俺自身も含めて。


「松本くん?」と先生が言った。


「母は仕事を二つ掛け持ちしています。それでも毎朝、俺の弁当を作ってくれます。点数は、俺のものです」声は、割れなかった。それを誇りに思う。「俺が直します」


立ち上がって、母さんのほうを向いて、お辞儀をした。母さんよりも深く。額が机にぶつかりそうなほど深く。


母さんの顔は見えなかった。息を吸い込む音が聞こえた。それだけだ。小さくて鋭い、まるで存在しない階段を踏んだ誰かのような息。


母さんは、教室では何も言わなかった。先生にお礼を言って、もう一度お辞儀をして、俺たちは出た。


母さんが口を開いたのは、道に出て、家に向かって歩いているときだった。俺の一歩後ろにいた。母さんはいつも、一歩後ろを歩いていた。


「先生の前で、あんなこと言わなくてよかったのに」


「いや、言う必要はあったんだ」


「最近、いろんなことを言うようになったね」


「新型モデルなんだ」俺は言った。「機能が改善されてる」


「ふうん」


コンビニ、自転車屋、塀の上で寝ている猫の前を通り過ぎた。母さんは、猫を見ていた。


「私が学校に来たら、あなたは嫌がると思ってた——」


「嫌だった」


母さんは、何も言わなかった。


「俺は馬鹿だった」


「ん」と母さんは言った。


それは、俺の口癖だった。母さんは、それが俺の口癖だと知っていた。こちらを見なかったが、口の端が、ほんの少し上がって、そのまま猫に微笑み続けた。


「晩ご飯は、何がいい?」母さんは言った。


「卵焼き」


「あなたはいつも卵焼きね」


「あと、ご飯」


「すごいわね。フルコースね」


自転車屋の近くのどこかで、母さんは、俺の後ろを歩くのをやめていた。いつからかは、気づかなかった。俺たちはそのまま、並んで家まで歩いた。母さんは、それ以上何も言わなかった。俺もだ。人生で一番静かな十分間だった。できることなら、もう一度歩きたい。


* * *


四日目の夜、俺は間違いを犯した。料理をすることにしたのだ。


俺の資格を説明しよう。お湯は沸かせる。粉末スープの素は入れられる。一度、卵を電子レンジに入れて、物理を学んだことがある。以上がリストのすべてだ。


でも、俺はもう母さんの予定を知っていた。ようやく座って、カレンダーをちゃんと、全部読んだのだ。小さくて、斜めの字。重なり合ったシフト。母さんは七時前に出て、一時過ぎに帰ってくる。その間、立ちっぱなしで生計を立てている。


そして俺は、母さんが帰ってくる時間に起きていたことが、一度もなかった。


そこで。ステップ一、ご飯。ご飯ならできる。濡らした手でおにぎりを握った。最初のは三角になった。二つ目は、目を細めれば三角だった。三つ目は、覚悟を決めた岩だった。


ステップ二、家を燃やさない。火災報知器、無音。火事、小さい。威厳、交渉可能。


ステップ三、やめどきを知らないので、卵焼き。


喧嘩に負けたスクランブルエッグみたいな見た目だった。ひっくり返して、慌てて、もう一度ひっくり返したら、片側が焦げた。


じっと見つめた。


片側が焦げている。母さんが作るのと、まったく同じに。


オマージュだ、ということにした。


皿にラップをかけた。縁を、二回押さえた。俺が覚えている皿は、縁がまだ温かかったからだ。それから、猫のノートからページを一枚破いた。そう、わかってる。これは唯一の例外だ。そして書いた。


おかえり。食べて。(卵焼きは失敗。ごめん。) ——ハルト


メモを残す、とリストには書いた。三番だ。


皿をテーブルに置いた。それから、その向かいに、鉛筆と教科書を持って座った。三つ目の椅子はクッションごと隣にあって、俺はそっとしておいた。一晩では片づけられないことも、あるのだ。


時計は一時二十分を指した。それから一時四十分。家がきしんだ。冷蔵庫が低くうなった。同じ段落を九回読んで、自分が怯えているということ以外、何も学ばなかった。


なぜ怯えている? 母親だぞ。自分の家の台所に座っているんだぞ。ナニもついてないハゲと対峙したのに、卵ひとつで汗をかいている。


一時五十二分、鍵の音。


玄関のドアが、ゆっくり開いた。眠っている家を起こさないようにするときの、ドアの開け方だった。それから明かりがついて、台所は空っぽではなく、母さんは、カバンを肩にかけたまま、戸口で立ち止まった。


「……ハルト?」


「よう」


「どうして起きてるの?」


「勉強」


「あなたが?」


「俺が」


母さんは、俺を見た。それから、皿を見た。


カバンを、ゆっくり置いた。その瞬間が壊れてしまうのを恐れるときの置き方だった。


メモを読んだ。


短いメモだ。三回も読む必要はない。母さんは、三回読んだ。


それから椅子を引いて座り、ラップをめくり、崩れそうなものを扱うように、箸で卵焼きをつまんだ。


ひと口、食べた。


「焦げてる」


「ごめん」


「私の好きな側が、焦げてる」


「知ってる」


母さんは、箸を置いた。皿越しに俺を見た。その眼差しは、あまりに疲れていて、あまりに柔らかくて、俺は鉛筆の持ち方を忘れた。


「いつから、私の作り方を知ってるの?」


あの最初の朝、洗面所の戸口で訊かれたのと、同じ問いだった。いつから、私の予定なんて知ってるの? 同じ言葉。同じ、首のかしげ方。


ただ、今度は、母さんは笑いながら言った。


「今は、ちゃんと見てるんだ」俺は言った。


「ふうん」母さんは、手首の裏で目を拭った。「ごめんね。疲れてると、何でも泣けるの。コマーシャルとか。ガソリンスタンドとか」


「ガソリンスタンド?」


「あそこ、照明がすごく悲しいのよ」


俺は笑った。母さんも笑った。小さく、口の前に手を当てて。何年も引き出しにしまってあったものが、まだ動くかどうか試されているような音だった。


母さんは、おにぎりを三つとも食べた。岩まで。岩は「面白い味」だと言った。


「母さん」


「ん?」


「仕事、どうだった?」


母さんは顔を上げて、ぎょっとした。


あの顔のことは、何度も考えた。あまりに長いこと訊かれなかったせいで、答えてもいいということを忘れてしまった人の顔だ。


「長かった」母さんは、ようやく言った。「割引のことで、男の人に怒鳴られてね。おばさんがメロンをくれた。足が濡れた」母さんは止まった。そっと笑った。「普通の日だった」


「……いろいろあったんだな」


「ただの仕事よ」


「いろいろだよ」と俺は言った。


母さんは、しばらく何も言わなかった。両手でお茶を持って、湯気を見つめていた。


何か賢いことを言いたかった。本物の息子が言いそうなこと。映画の予告編に使えるような台詞。


「そのメロン、とっといた?」と俺は言った。


「……冷蔵庫にあるわ」


「明日、食べよう」


「了解です、隊長」母さんは言って、もう一度笑った。今度は、もっと楽に。


次に本から顔を上げたときには、母さんはテーブルで眠っていた。腕に頬をのせて。手には箸を握ったまま。何かのために起きていようとした子供みたいに。


俺は、そこに立っていた。


こんな夜を、思い出した。ラップをかけた皿、縁はまだ温かい。その隣で、仕事着のまま眠る女の人。暗闇で食べて、メモを一度も残さなかった少年。


二階に上がって、ベッドから毛布を取ってきて、母さんの肩にかけた。皿を移した。大きな明かりを消して、小さなランプをつけたままにした。


それから、母さんの向かいに座り直して、四時まで勉強した。とても静かに、母さんが一人きりで目を覚まさないように。


泣いてない。目が、ちょっと雨模様だっただけだ。


前のときは、暗闇で食べた。


今度は、ランプをつけた。


翌日、学校から帰ると、台所の椅子の上の、母さんのエプロンのポケットから、黄色い紙の端がのぞいていた。隅に、小さな猫の印刷。


見なかったふりをした。


それ以来、毎日それを見た。母さんは、一度もそれを動かさなかった。



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