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第3話 破いたノート 【挿絵あり】

天井のファンは、一晩中きしんでいた。


なんで知ってるのかって? 一回転残らず、見届けたからだ。ゆっくりと、辛抱強く、一周ごとにうめき声をひとつ。いつまで経っても始まらないスピーチの前で、爺さんが咳払いを繰り返しているみたいだった。


回転数を数えようとして、数え間違えた。もう一度やって、また間違えた。六回目のやり直しのあたりで窓が灰色になり、夜が俺の許可もなしに終わっていたことに気づいた。


おめでとう、ハルト。二度目の人生、最初の一晩だ。睡眠ゼロ、実存的危機がひとつ、まだ口をきいてくれない胃袋。十点満点。もう一回回帰したいくらいだ。


……ハハハ。


ハ。


よし。次へ行こう。


下りていくと、母さんはもう台所にいた。同じエプロン。同じ背中。子供の頃からずっと見てきたのに、一度も覚えようとしなかった、あの背中。味噌が煮えていた。炊飯器がカチッと鳴った。


三つ目の椅子には、まだクッションが置いてあった。


俺は、普通の人間が戸口に立つよりも数秒長く、そこに立っていた。母さんが振り向いて、俺に気づいた。すっぴんを見られたときにいつもするみたいに、手がぱっと髪に飛んだ。


「行くの? もう一日、休んでもいいのよ」


「大丈夫」


「嘘つき」


母さんはそっと言って、弁当を俺の手に押しつけた。底がまだ温かい。蓋を開けてしまった。どうやら俺には、自制心というものがもうないらしい。


おにぎりが二個。小さなタコの形に切ったウインナー。六歳児に出すやつだ。それから卵焼き。片側が焦げている。昔から、母さんが作るといつもそうなる。


コンビニのおにぎりとインスタント麺で過ごした何年もを乗り越えた男を、朝の七時にほとんど仕留めかけたのが、焦げた卵焼きだなんて。情けない。男の威厳はどこへ行った。


「いってきます」


母さんの手が、カウンターの上で止まった。


「……いってらっしゃい」


たった一言ずつのやりとりだ。母さんは、何年も待ち続けていたはずなのに、その言葉がどんな響きだったか忘れてしまったみたいに口にした。


家を出るとき、胃の調子は確かめなかった。確かめるのを拒否した。プライドの問題だ。


* * *


制服は、俺を笑いものにするオチみたいに、ぴったり体に合っていた。


校門は変わっていない。下駄箱の匂いも変わっていない。こんな文を懐かしさ込みで口にする日が来るとは思わなかった。異世界の主人公には、ギルドホールと酒場と、忠実な仲間たちのパーティが用意される。俺に用意されたのは、ホームルームだった。


一番きついのは、顔だった。半分は、知り合いだったことすら忘れていた顔。残りの半分は、昔の俺が失礼な態度を取ったことを忘れていた顔だ。子供だらけの教室に、中身が大人の男がひとり。窓際の席の少年がすでに一度死んでいて、かなり変な一週間を送っていることを、誰も知らない。


そのとき教室の扉が引かれて、少年がひとり入ってきた。ノートの束を、誰かに盗まれるとでも思っているみたいに、胸に押し当てている。


どんなタイプかは、言わなくてもわかるだろ。アニメには必ず一人いる。眼鏡の奴だ。ブレザーのボタンは一番上まで留めてある。そのボタンが自分と世界を隔てる最後の防衛線だ、とでも思っているみたいに。寝ぐせは、明らかに戦いに敗れていた。耳の後ろにシャーペンを挟んだまま、挟んでいること自体を忘れている。


アニメなら、敵の能力体系を解説する直前に、そいつのレンズがきらりと光るところだ。


最前列。あいつはいつも最前列に座っていた。


シオン。


声には出さなかった。代わりに、胸が、不器用な胸なりのやり方でものを言った。しかも、楽しい感覚じゃない。借りがあったことを忘れていた借金取りに、道端でばったり出くわしたときの感覚だった。


あいつは俺を見つけると、まるで俺が賞でもくれたみたいに、顔じゅうをぱっと輝かせた。


「ハルト! 戻ってきたんだね!」あいつは駆け寄ってきて、途中で誰かのカバンにつまずきかけた。「昨日いなかったから、だから僕、えっと……はい、これ、どうぞ」


ノートが、俺の机の上に着地した。青い表紙。小さくて丁寧な字で書かれた、小さなラベル。『ハルトへ 昨日の分』。


「全部書いておいたよ。数学のところはちょっと長くなっちゃった、ごめん。先生がすごく速かったんだ。でも大事な公式は赤で書いておいたから、全部読むのが面倒なら、そこだけ――」


早口になっている。あいつは、俺の前ではいつも早口だった。


理由なんて、考えたこともなかった。でも今、ノートのそばで浮いたままのあいつの指を見て、わかった。いつでも引っ込められるようにしている指だ。身構えていたんだ。


俺が、そうさせたんだ。


「……ありがとう」


沈黙。


シオンが瞬きをした。「え?」


「ありがとうって言ったんだよ」


「…………」


「変な空気にするな」


「具合悪いの? 先生は病気だって言ってたけど、重いの? 学校に来て大丈夫? 熱は? 僕、何か――」


「シオン」


「はい?」


「座れ」


あいつは座った。そして、鼻歌を歌い出した。ありがとうを一言もらっただけで鼻歌が出る少年だ。前の人生で、俺があいつに言った「ありがとう」は、二年間で多くても三回。それも甘めに見積もっての話で、三回というのも怪しい。


* * *


昼になる頃には、あいつは椅子を引きずってきて弁当を広げ、来週の単元テストの話と、「実はすごく面白いんだ」と言って見つけた問題集の話を始めていた。俺は、訓練された男みたいに、ちょうどいいタイミングでうなずいた。


そのうち、あいつの声が遠のき始めた。隣の部屋でつけっぱなしになっているラジオみたいに。


そして俺は、トイレ事件から何も学んでいなかったらしく、昼食の席で人間がやりうる最も愚かなことをやってしまった。


思い出し始めたのだ。


豆知識。大人の男の脳は、十代の少年が割り箸を割るあいだに、夏をまるごと再生できる。


俺が今までに持った中で、最悪の友達の話をしよう。


ネタバレ――それは俺だ。


* * *


始まりは図書館だった。当然だ。偉大な悲劇は、たいてい静かな場所から始まる。


梅雨だった。勉強しに来たわけじゃない。図書館なら濡れずに済むし、窓際には、男が平和に眠れる机があったからだ。日本史の教科書に顔を伏せて、数分で落ちた。


「あの」


……


「あの。鎌倉時代によだれが垂れてますよ」


それが、アカリだった。


挿絵(By みてみん)


ちゃんと説明したいのに、うまくいかない。説明しようとするたびに、彼女という人間じゃなく、彼女に感じていた気持ちのほうを説明してしまうからだ。黒い無地のゴムで束ねた髪。まくり上げた袖。重要度順に並べた三色のペン。蛍光ペンのキャップを歯でくわえて、教科書と一戦交える気満々の顔。見知らぬ男を起こして、よだれを指摘する奴がどこにいる? 人の人生を、ほんの少しだけ狂わせるタイプの女の子だ。


彼女は物理で溺れていた。一方の俺は、宇宙規模の事務ミスのおかげで、物理だけはそこそこ得意だった。だから生まれて初めて、俺は他人に何かを説明した。謙虚にやったと言いたいところだが、実際は、手札が一枚しかなくて、毎回そのカードを切る気満々の少年の、ドヤ顔だった。


お返しに、彼女は俺の古文を見てくれた。意地だけで落とし続けていた科目だ。そして、あまりに分かりやすく教えられて、泣きたくなった。泣く! 文法で! この体はどうなってるんだ?


そうやって始まった。図書館、火曜と木曜。それから土曜。半分に割ったメロンパンは、彼女の分がいつもほんの少し大きくて、二人とも気づかないふりをした。行き詰まったときのペンの音。解けたときの鼻歌。「ハルトくん、見て見て、わかった!」と言う声。物理の問題がひとつ解けただけで、宝くじでも当たったみたいに。


彼女は、口に手を当てて笑った。その笑い声が秘密であるかのように。消しゴムを貸してくれて、そのあと、予備があるからと嘘をついた。一度、言った本人が後悔するほどひどいジョークに、彼女は優しさだけで丸十秒も笑ってくれた。そのとき俺は思った。この子は危険だ、と。


書き留めておくべきだった。ノートを一冊買って、表紙にこう書くべきだった。『大切にすべきもの』と。


でも、いい日々については、誰も警告してくれない。いい日は、自分が来たとは告げない。ごく普通の服を着てやって来て、隣に座り、消しゴムを貸してくれと言うだけだ。


* * *


ある日の午後、彼女は本を閉じて、さりげなく言った。「放課後、駅前のカフェで勉強してる人たちがいるの。小さなグループなんだけどね。ハルトくんも来ない? 楽しいよ」


「いや」


「……いや?」


「グループってのは、勉強が死ぬ場所だ」


彼女は笑った。「そっか」と言った。そして、二度と誘ってこなかった。


それが、一番きつかった。


勉強会。大勢の人間が、自ら進んでカフェに座り、みんな仲良く生産的になる。俺の頭の中では、それはカルトだった。アイスティーつきの、照明の明るいカルトだ。


本当の理由は? そこにいる連中のほうが、彼女との付き合いが長かったからだ。連中は、俺にはわからない冗談で笑うだろう。図書館のテーブルでは、彼女の隣にいるのは俺だけだった。あのカフェでは、俺はただのお客さんになる。だから、それを信条と呼んだ。実体は、髪型だけちょっとましな臆病だった。


グループのほうは、俺が行く必要すらなかった。向こうからやって来たのだ。ある日の午後、眼鏡の少年が教科書を抱えて、俺たちの席に現れた。


「アカリさん、そろそろ始まるけど、来……あ。ごめん。お邪魔だったかな?」


あいつは、軽くお辞儀をした。俺に。そして言った。「シオンです。同じクラスだよね? アカリさんから、よく君の話を聞いてるんだ」


俺は、ウェイターに頷くみたいに、あいつに頷いた。


頭の中に、巨大な自信満々の文字で、ひとつの単語が浮かんだ。


ガリ勉。


両腕に教科書。耳の後ろにシャーペン。全部わかっているくせに、「たぶんこうだと思う」と言うタイプの男。見ろよ、あのシャーペン。使いすぎて硬度表示が剥げたシャーペンなんて、誰が使うんだよ。しかも坊主が数珠を繰るみたいに、〇・五ミリの芯をカチカチ出してやがる。


四秒くらいで、あいつを嫌うことに決めた。俺の人生で一番速い決断だ。そして、未来の俺がメールを送れるなら、拒否権を発動しただろう、ただひとつの決断でもある。


それ以来、あちこちで二人を見かけるようになった。駅へ向かう道。カフェの窓際で、ひとつのノートに身を寄せ合っているところ。あいつがささやかなことを言って、彼女が笑う。手を添えた、あの本物の笑いで。


そして、今でも納得できないのがここだ。


毎回、彼女は俺に気づいた。毎回、手を振ってくれた。「ハルトくん!」と、同じ声で。同じ笑顔で。図書館では、隣の席が空けてあった。メロンパンの俺の分は、相変わらず彼女の分よりほんの少し小さかった。何も変わらなかった。ペンの音ひとつ。


ほっとするべきだった。なのに俺は、毎日、確認している自分に気づいた。ささやかな変化を待ちながら。テストの結果を待つ男みたいに。そして、それが一度も来ず、彼女がずっと変わらないアカリのままだったとき、ようやくわかった。なぜ確認していたのかが。


どうでもいい試合の点数を数える奴は、いない。


俺は彼女が好きだった。バスに轢かれたみたいに、それは来た。ずいぶんゆっくりしたバスで、しかも事前に、丁寧にクラクションまで鳴らしてくれた。世界中の誰もが、何か月も前から知っていた。自販機のそばの野良猫まで含めて。気づいたのは、俺が最後だ。今でも、記録保持者だろう。


* * *


その途中のどこかに、話したくない場面がある。


……わかった、話す。もう深入りしすぎた。


俺は、数学の授業をサボった。ただの授業じゃない。先生が、試験の半分を実質的に読み上げた授業だ。その間、俺は屋上で寝ていた。伝説ぶって。何の伝説だ? 落第のだ。ごく限られた種類の伝説で、唯一無二ではある。


翌朝、シオンが青いノートを持って、俺の机に来た。色分けされたインデックス。大事なところは赤。ページの隅には、小さな矢印つきで「ここテストに出る!」。あいつは、表彰状でも渡すみたいに、両手でそれを差し出した。


「昨日、休んでたでしょ。もしよかったら、写してもいいんだよ」


ノートを見た。あいつの顔を見た。


「俺、頼んだか?」


「ううん、でも……」


「ガリ勉のメモは、自分で持っとけ」


そして、破いた。


一度じゃない。二度。ゆっくりと、あいつによく見えるように、赤い公式のあるページのちょうど真ん中を。破片が床にひらひらと落ちるのに任せた。調味料でも振りかけるみたいに。


誰かが笑った。俺も笑った。臆病というのは、そういうものだ。やたらと音がよく響く。


シオンは怒鳴らなかった。泣きもしなかった。


あいつは言った。「ごめん。勝手に決めつけちゃったね」


謝ったのだ。


それからしゃがんで、床の破片を一枚残らず拾い集め、カバンに入れて、席に戻った。あいつのことだから、たぶん家でテープで貼り直しただろう。確かめることは、永遠にない。


俺が、訊かなかったからだ。


俺は、あいつを面と向かって「模範解答」と呼んだ。人前で。あいつは笑って、「それ、うまいね」と言った。褒め言葉みたいに。そのテストの範囲は、当然、俺が落とした。そしてあいつは、そのことについて一言も言わなかった。あのときも。その後も、一度も。


面白いと思わないか? 大人の目であの場面を見れば、そこにいるのは、紙を破く子供だ。だがその子供は、そのときは、勝利を見ていた。


あのガキの俺と今の俺とを分けているのは、人生まるごとひとつと、焦げた卵焼きだ。


* * *


それから夏が来た。いつものように。トラックみたいに。


一学期の最終日。成績表が返された。俺は遠回りして家に帰っていた。カフェの前を通る道だ。わざとじゃない。(わざとだ。)


彼女はそこにいた。窓際の席に、一人きりで。グループの椅子は空っぽ。目の前にはくしゃくしゃの紙が一枚。腕に頭を伏せて。


彼女は、俺の知る誰よりも一生懸命勉強していた。閉店までカフェで。鍵をかけられるまで図書館で。印刷したのかと思うほど整ったノート。それなのに、成績は、まるで何も勉強しなかったかのように返ってきていた。


あの場にいたのが中身大人の俺だったなら、何か賢いことを言っただろう。代わりにいたのは十代の俺で、そいつは店に入っていって、こう切り出した。


「たった一回のテストだろ」


彼女が顔を上げた。あの目つきは、人のキャリアを終わらせる。


「……そうだな。ごめん。バカなこと言った」


彼女の向かいに座った。もう一度、やり直した。


「三か月、お前が勉強するのを見てきた。机をぶち壊す気かってくらいの勢いだったろ。努力にランキングがあったら、お前は全国一位で、俺は不正で逮捕されてる」頭をかいた。「点数ってのは、遅れて届くんだ。努力は遅れない。もうお前の中にある。点数が、まだお前の家の住所を見つけられてないだけだ」


彼女は、俺を見つめた。


それから、ぐしゃぐしゃの、しゃっくりみたいな笑い方で笑って、袖で目を拭いた。「今まで聞いた中で、一番くさいセリフ」


「わかってる。ごめん」


「謝らないで」彼女は、まだ涙の残る顔で微笑んだ。「くさいの、欲しかったから」


そのとき、彼女のお腹が鳴った。あのカフェの歴史に残るレベルの大音量だった。「行こう。奢る」と俺は言った。手持ちの金は、ちゃんとした食事一回分きっかり。格好つける余裕は、ゼロだった。


小さな店だった。暖簾がかかっていて、店主が誰にでも古い友達みたいに大声で挨拶するような店。彼女はカツカレーを頼んだ。俺は「同じで」と言った。先を見通す男だから。彼女の皿から盗む気だった。先に盗られたのは、俺のカツのほうだった。断りもなく、俺の目をまっすぐ見ながら。


好きにさせた。


皿が空になる頃には、空気はすっかり変わっていた。彼女は、「物理」の発音がおかしい先生の話をして、俺はそのモノマネをして、彼女はテーブルにつかまらないといけないほど笑っていた。空がオレンジとピンクに染まるなか、遠回りして歩いて帰った。誰かが世界に最後の仕上げの磨きをかけているみたいに。


別れる角で、彼女は言った。「今日はありがとう、ハルトくん」


「大したことじゃない」


それは、文字どおり、俺の人生で最高の瞬間だった。確かめる時間は、たっぷりあった。あれを超えるものは、何ひとつなかった。


* * *


夏休みの残りは、毎日あのカフェに通った。払えもしないアイスコーヒー。開いた教科書は上下逆さま(二回)。目はドアに。ベルが鳴るたびに、驚いた猫みたいに心臓が跳ね、入ってくるのは決まって誰かの叔父さんだった。たぶん俺は、一人であのカフェを延命していた。俺の名前入りの椅子まであったかもしれない。


ウェイターは、五日目には俺の注文を覚えた。十二日目には、誰かを待っているのかと訊くのをやめた。二十日目には、何も言わずに俺の肩を叩くようになった。葬式の参列者みたいに。俺に彼女がいたことなんて一度もないのに、彼は、その彼女の喪に服していた。


彼女は、来なかった。


旅行に行ってるんだ、と自分に言い聞かせた。家族旅行。塾。おばあちゃんの家。まだ覚悟のできていない選択肢以外なら、何でもよかった。世界は、アイスコーヒーと甘い夢を抱えた少年を中心に回ってはいない、という選択肢以外なら。


そして、休みの最終日、彼女を見つけた。


友達と一緒にカフェから出てくるところで、輝いていた。それ以外に言いようがない。笑って、友達に小突かれて、一人は大事な試合前のチームメイトみたいに彼女の腕を握っていた。通りの向こうの俺に気づくと、彼女の顔が「あっ!」となって、駆け寄ってきた。


「ハルトくん! 来てたんだ!」


そして俺の脳みそは、十代の脳みそがやることをやった。証拠を集めて、間違った城を建てた。


彼女は、俺を見たから嬉しいんだ。当然だ。他に何がある? 初歩的なことだよ、ワトソン君。


「何でそんなにニヤニヤしてるんだ?」俺は、膝が震えている男の、さりげない声で訊いた。


彼女は、指を唇に当てた。「秘密」


それから、目を閉じても見えるくらいまぶしい笑顔で言った。「明日、教えるね。学校で。約束」


その夜、俺は眠れなかった。(聞き覚えがあるだろう? ここ数日、俺の睡眠スケジュールはひどい有様だ。)


横になって、返事を考えた。「うん」――がっつきすぎだ。「そうか」――気取りすぎ。「本当に?」――わざとらしい。結局、「俺も」に決めて、鏡の前で十七回練習した。驚きと喜びが混ざった顔も、三種類試した。制服にアイロンをかけた。アイロンに触るのは、生まれて初めてだった。秘密を打ち明けてくれる女の子のために。


朝になって、母さんは、出しっぱなしのアイロン台と、片方の袖にできた小さな焦げ跡を見た。何も言わなかった。ただ、何かに勝ったみたいに、天井に向かって微笑んだ。


あの頃は、あの笑顔の意味がわからなかった。今はわかる。わからなければよかったと、心の底から思う。


アカリは校門で待っていた。昨日よりもさらに輝いて。


「ハルトくん。私の秘密、覚えてる?」


来るぞ、と俺は思った。来るぞ。俺も。言え、ハルト。俺も、だ。


「私ね、シオンくんに気持ちを伝えたの」耳の先まで赤くなって。「そしたら、いいよって言ってくれたの」


……


「ハルトくんには、一番に知ってほしかったんだ。親友だから」


親友。


あの声を待った。いつも何かしら言ってくる、あの声を。ほら、ジョークを言えよ。どんなジョークでもいい。お前には、ネタのライブラリがまるごとあるだろ。


何もない。


親友。たった二文字で、人間がここまで完全に解体されるなんて、おかしなものだ。


「おめでとう」と俺は言った。笑った。説得力があったらしい。俳優になるべきだった。代わりに、俺はプロのラーメン評論家になった。


それから、一直線に男子トイレまで歩いていき、個室に鍵をかけて、そこに突っ立っていた。


これで二度目のトイレシーンだ。俺はもう、水回りがテーマの主人公だ。


泣いてない。念のため言っておく。(この「泣いてない」も、記録が長くなってきたな。)


代わりにやったことは、もっとたちが悪かった。標的を見つけたのだ。


だって、シオンは何も盗んでいない。最初から自分のものじゃなかったものは、盗めない。彼女は一度も俺のものじゃなかったし、俺は好きだとは一言も口にしなかった。彼女はあいつを選んで、あいつは、まともな人間なら誰でもそうするように、いいよと答えた。その間、俺はひとりで勝手に戦争を始めていて、敵は、シャーペンを持った子供だった。


一番ひどいのは、俺が負けたことじゃない。あいつが、まったく変わらなかったことだ。


それ以来、毎朝、あいつは「おはよう、ハルト」と言い続けた。野良犬に近づくときみたいな、慎重な声で。ノートも、貸そうとし続けた。(その頃には、もう破いてはいなかった。ただ無視していた。)そして俺は、一度も「おはよう」を返さなかった。ただの一度も。その一年間ずっと。卒業式でも。最後まで。


ちなみに、これが例の半秒だ。あのハゲに苦情を入れたい。遅れて届くのは、ジョークのオチじゃない。理解のほうだった。俺があの少年を理解できたのは、それが間に合ったかもしれない時から、人生ひとつ分あとだった。


あいつは、俺が持った中で最高の友達だったと思う。


そして俺は、そう呼ぶことを、一度も自分に許さなかった。


* * *


「ハルト……?」


……


「ハルト……」


……


「ハルト、もう十回呼んだよ。十回。数えたんだから。どこに迷子になってたの?」


シオンが、机越しに身を乗り出して、箸を宙で止め、眼鏡を鼻までずらして、心配そうな顔をしていた。俺のための顔だったなんて、一度も気づいたことのない顔だった。


脳が異議を申し立てるより先に、手が動いた。ばしんと、あいつの背中を叩いていた。


「この野郎」声はひび割れていたが、ちゃんと出た。「お前の大好きな数学と、どう初夜を迎えようか考えてたんだよ」


あいつは、きっかり一秒、俺を見つめた。


「……ああ。さっきの顔、それだったんだ。泣きそうなのかと思った」


「俺が? 泣く? あり得ない」


「目、赤いよ」


「ホコリだ」


「教室の中だよ」


「ホコリまみれの教室だ」


そして、あいつが笑い出した。最初はしゃっくりみたいに、それから大きく、最前列の女子たちが振り返るほどの声で。俺も笑った。本物の笑いだった。腹の底から出た。この二度目の人生で初めての本物の笑いで、痛かった。いい意味で。



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