第2話 もう一度、朝ごはん 【挿絵あり】
「ハルト! もう三回目は呼ばないからね!」
「はいはい、起きてるって。うるさいなあ」
……待て。
今の、俺の声だ。甲高くて、少しかすれた、十六歳のバカの声。しかも、いつもとまったく同じ調子で言っていた。「はい」を気だるく引き延ばすところまで、そのままだ。俺の口は、俺が死んだことを知らされていないらしい。
おい、体。仕事はひとつだけだっただろ。
よし。落ち着け。まずは最優先事項だ。
俺は不細工になってないか? それが最優先だ。仕事も、アパートも、人生も失ったんだ。せめて顔だけは、失っていませんように。
ベッドから体を引きずり出した。足は生まれたての子鹿みたいにがくがくして、ふらつきながらドアの裏の鏡へ向かった。
ガキが、こっちを見返していた。
痩せっぽち。カラスが巣を作ろうとして諦めたみたいな寝ぐせ頭。目の下のクマもなければ、まばらな無精ヒゲもなく、死んだ魚みたいな目つきもない。……いや、死んだ魚の目は健在だったが、少なくとも鮮度は上がっていた。
額にニキビがひとつ、家賃でも払ってるような顔で居座っていた。
「おかえり、相棒」俺はつぶやいた。「会いたくはなかったけどな」
でも、眉毛は二本とも、ちゃんと揃っている。悪いな、のっぺらぼう。
「悪くないな」俺は小さく言った。「正直、全然悪くない」
下を見る。パジャマだ。本物のパジャマに、本物のズボン。
「服だ」俺はささやいた。「俺は服を着てる。ざまあみろ、虚無め」
よし。次は大事なところだ。
ドアのほうを見た。誰もいない。罪の告白でもする男みたいに、声を落とした。
「……ステータス」
何も起きない。
「ステータスウィンドウ、オープン」
何も起きない。
「スキルは? インベントリは? メニューは? 女神の加護は? 何でもいい! せめてチュートリアルの妖精くらいは出てこいよ」
天井のファンがきしんだ。それだけが、返事だった。
沈黙。
よし。今のは誰にも聞かれてない。誰にも知られることはない。墓場まで持っていこう。
……いや待て、ひどいジョークだ。もう墓場には行ってきたんだった。あの白い場所だ。ナニもついてないハゲのいる、あそこ。
しかもあいつは、面と向かって言ったんだ。剣もなし、システムもなし、と。ちゃんと言われたのに、なんで俺は確認してたんだ?
ウェブ小説を読みすぎたからだ。死ぬ苦労をしたんだから、宇宙がチートスキルのひとつくらい寄越すべきだと、脳みその一部がまだ信じてたからだ。
手が首に伸びた。
何もない。痛みも、痕もない。一度さすった。もう一度さすった。それから、ただ手を当てたままにした。
考えてしまう前に、手を下ろした。
「よし」誰にともなく言った。「周りを見てみよう」
部屋は、記憶よりずっと狭かった。安物の木の机。脚が一本ぐらつく椅子。マンガがぎっしり詰まった棚。その奥には、母さんには絶対に見られちゃいけない、第二列のマンガ。ベッドの上の壁には、ピンクのツインテールの少女が、自分の体より大きな剣を持っているポスターが貼ってあった。
彼女は、絵の具で描かれた小さな笑みを浮かべて、俺を見下ろしていた。
そんな目で見るなよ。俺が頼んだのは神様で、お前じゃない。
恥ずかしくなって目を逸らした。嫁にまで責められている。
「日付だ」これ以上空気が変になる前に、俺は言った。「日付が知りたい」
俺がここにいるなら、ここはいつなんだ?
カレンダーは、机の上の壁にかかっていた。近所の店でもらう、無料のやつだ。マス目は手書きの文字でびっしり埋まっている。小さくて、斜めで、ちょっと急いだ字。「三者面談 十五時」。「ハルト テスト!!」の横には小さな星印。そしてその下には、別のペンで、シフトみたいな時間の羅列があった。やたらと多い。
テスト。何のテストだ? 覚えてない。たぶん落ちたんだろう。そして、それが最後でもない。
今日の日付には、赤で丸がしてあった。
計算してみた。間違えたんだろうと思って、もう一度やった。
十八年。
あのアパートの十八年前。ラーメンも、郵便物も、鍵をかけなかったドアも、全部の十八年前だ。つまり俺は、ここに座って、すべてがもう一度起きるのを、順番に、一日ずつ眺めていられるわけだ。最高だな。待ちきれないよ。
ドアのそばのフックには、制服がかかっていた。アイロンをかけたばかりだ。折り目はぴしっとして、しわひとつない。
誰がアイロンをかけたんだ。
誰が……
いや。誰かは知ってる。
昨日までの俺は、たぶん知らなかった。いや、そもそも一度も気にしたことがなかったはずだ。
* * *
台所に着く前から、匂いが鼻を直撃した。味噌、焼き魚、それから部屋にまとわりつく、あの温かい湯気の匂い。
テーブルには椅子が三脚。皿は二枚。三つ目の椅子には、何年も誰も座っていなさそうなクッションが置いてあった。
席についた。茶碗を見つめる。
よし。簡単な作戦だ。食べる、うなずく、出ていく。顔は上げない。顔を上げなければ会話は生まれない。会話がなければ問題もない。天才だ。頭脳明晰。
母さんは何か話していた。天気のこと。傘のこと。宿題のこと。
「ん」
ほらな? 完璧だ。
卵焼きをひと切れ取って、口に入れた。
……
なんだ。
なんだこれ。なんでこんなにうまいんだ?
コンビニのおにぎりとインスタント麺で十八年を過ごした俺の舌は、完全に壊れていた。それが今、この柔らかくて甘い小さな卵に泣かされている。アニメの食事シーンは大げさすぎると、ずっと思ってた。うっとりを通り越して昇天したみたいな顔になって、キラキラが飛び散るやつ。
アニメは控えめな表現だったんだな。
母さん、実はミシュランのシェフなのか? なんで今までありがたみがわからなかったんだ?
ああ、そうか。部屋で一人で飯を食うのが個性だと思ってた、バカな十六歳だったからだ。
「……あと、お弁当忘れないでね。カウンターの上にあるから」
「ん」
おい、俺には十八年分の未来の知識があるんだぞ。宝くじの番号。株価。何かあるだろ、何でもいい……
必死に考えた。
何も知らなかった。数字ひとつ出てこない。先週の火曜に何を食ったかさえ思い出せないのに、当たりの宝くじ番号なんて覚えてるわけがない。未来について俺が知っているのは、自分がそれをどれだけひどく扱ったか、その一点だけだった。
最高だな。史上最強に準備万端な回帰者だ。誰かこの男に勲章をやってくれ。小さいやつを。段ボール製で。
よし。別の角度だ。ビジネス。十八年分の後知恵と、まっさらな状態と、ずるいアドバンテージを持った男。会社を立ち上げられる。何かに投資できる。俺なら——
どんな金で? 俺は十六歳だ。全財産は、ガラケー一台とポスター一枚。
よし。それも却下だ。
で、偉大なる回帰者は、これから何をするんだ? 勉強か? 筋トレか? もっといい人間になるのか?
うえっ。どの選択肢も、努力の匂いしかしない。
「聞いてる、ハルト?」
「ん」
三連続。自己新記録だ。
三回目の「ん」から半秒遅れて、胸の奥で何かが引っ張られた。小さくて、素早くて、暗がりで階段を一段踏み外したときみたいな感覚。無視した。咀嚼で忙しかったからだ。
そのとき、小さなカチャリという音が聞こえた。カップがテーブルに置かれる音。
なぜその音が決め手になったのかはわからない。何年もあの声を無視してきたのに。ただ、その声はあまりに疲れていて、あまりに気を遣っていて、「やめろ」と自分に言い聞かせるより先に、俺の目は上を向いていた。
母さんは、笑っていた。
そりゃそうだ。この食卓では、いつも笑っていたじゃないか。
でも今は、何かが違って見えた。口角が、揃いすぎている。目が、一緒に笑っていない。その下には、どれだけ化粧をしても隠せない、柔らかな影がふたつ。目尻には、まだあるはずのない細い線。髪は急いで結んだらしく、結び損ねた白髪が見えた。
そして、その目。老けていた。年齢のせいじゃない。何晩も続けて点けっぱなしにされた、電灯みたいな老い方だった。
いや、異世界ものの母親って、たいてい隣の部屋の温かい光みたいなもんだろ? 料理の音とか、あと——
……
もう一度やってみた。
えーと、話を戻そう。どこまでだっけ。そうだ、ハーレムとか、あと——
何も出てこない。
消えていったわけでも、遠のいたわけでもない。壁にぶつかったんだ。俺がこれまで住んだ中で一番うるさい場所だった頭の中が、完全に静まり返っていた。
視線が、三つ目の椅子に滑った。クッション。空っぽの席。
親は一人。俺には、母さんしかいなかった。たった一人。なのに俺は、たまたま料理もしてくれる家具みたいに扱っていた。
思い出した。午前二時に一階に降りたら、ラップをかけた皿があって、縁がまだ温かかったことがあった。母さんはその隣で、腕に頭をのせ、仕事着のまま眠っていた。俺は暗闇の中で食べた。メモは、一度も残さなかった。
アパートのことも思い出した。数週間おきに、ドアノブにビニール袋がかさりと触れる音。俺は、母さんの足音が廊下の向こうに遠ざかるのを待ってから、ドアを開けて、袋を中に引き入れた。
毎回だ。母さんがまだそこにいるうちにドアを開けたことは、一度もなかった。
泣いてはいない。これは記録に残しておきたい。目は乾いていたし、手も震えていなかったし、箸にはまだ卵の欠片を挟んだままだった。外から見れば、俺は完全に平気そうだった。
変なのは、中だけだった。名前のつけられない感情が、大きくて、ゆっくりで、まだ砕けてない波みたいに、喉の奥をせり上がってきた。
「ハルト?」母さんの笑顔が揺らいだ。「どうしたの? 顔色が悪いよ」
「何でもない」俺は言った。「トイレ」
椅子が床を擦った。その音は聞こえなかった。ただ、自分が動いているとだけ、わかった。
* * *
ぎりぎり間に合った。
さっき食べたものがすべて出てきて、それ以上のものまで出てきた。全部が熱くて、醜くて、震えていた。腕に額を押しつけ、冷たい陶器に手をついてひざまずいたまま、俺は待った。あの声を。
絶対に黙らない、あの声を。俺の人生を丸ごと、出来の悪いアニメみたいに実況してきた、あの声を。いつも何かしら言ってきたのに。
何もない。
まあ、朝飯をお返しするには手っ取り早い方法だけどな——
あの白い虚無以来、初めて、頭の中に俺一人きりになった。静かすぎて、自分の息づかいが聞こえる。
ほら、何か言えよ。ジョークでいい。どんなジョークでもいい。お前には、ネタのライブラリがまるごとあるだろ。
沈黙。
そのとき、どこからともなく、あの白い場所で言われた一言が浮かんできた。
「君は金もなく、一人きりで、誰にも悼まれずに死んだんだよ、ハルト」
俺はじっと動かなかった。
いや。違う。あいつは、俺の家賃も、年齢も、ラーメンのことも知っていた。死んだ時刻だって分単位で言い当てた。ただ、その一点だけは間違えている。
だって、さっき母さんの顔を見たんだ。あの顔が、廊下の突き当たりの俺のドアの前に立って、ノックして、返事がなくて、それでも家に帰って鼻歌を歌えるような顔のはずがない。
これか。あの半秒ってのは。痛みでもない。罰でもない。すべてが済んだあとになって、重みだけが遅れてやってくる。
忠告ありがとよ、のっぺらぼう。実に助かったぜ。
コン、コン。
思いきりびくりとして、肩を壁にぶつけた。この前聞いたノックは、二回とも何かを終わらせた。
「ハルト? お母さんよ。入っていい?」
母さんは返事を待たなかった。いつもそうだ。ドアが開いたかと思うと、いつの間にか母さんが俺の後ろに膝をついていて、片手が俺の背中で、ゆっくりと一定の円を描いていた。
「何か悪いものでも食べた? 魚のせいかな?」
「違う」声は荒れていた。「おいしかった。本当に、すごくおいしかったよ、母さん」
母さんの手が、一瞬止まった。
「……今、『母さん』って呼んでくれたね」
言われて、気づいた。俺は何年も、母さんを何とも呼んでいなかった。「母さん」とすら。あるのは「おい」か、無言だけ。
「大丈夫」俺はそう言って、今の言葉には気づかなかったふりをした。
母さんは濡れタオルと水の入ったコップを取ってきて、まるで俺が五歳の子供であるかのように、それを手に持たせた。それから、手のひらを俺の額に当てた。その手は荒れていて、洗剤と冷たい水と、俺が数えもしなかった年月のせいで、指の関節がひび割れていた。でもそれは、ここしばらくの間で、俺に触れた中で一番優しいものだった。
「熱はないね」母さんがつぶやいた。「でも、ほとんど手をつけてないじゃない。卵焼きを残すなんて、今までなかったのに」
「わかってる。ごめん」
「謝らなくていいの。今日は家で休みなさい」
「行けるよ——」
「口答えしないの。学校には私から電話しておくから」
「母さんの仕事は?」
口から出てしまってから、自分の言葉を聞いた。
「シフト、あるんだろ?」
母さんは、俺が外国語でも話したかのような目で見た。
「いつから、私の予定なんて知ってるの?」
答えられなかった。母さんは小さく息を吐いて、それから微笑んだ。小さくて、少し歪んでいて、でも目の奥まで届いている笑みだった。
何年かぶりに見た、本物の笑顔だった。
「仕事のことなら心配しないで。一時間くらい私がいなくても回るから。横になってなさい。お腹が空いたら、鍋にお粥があるから。何かあったら、電話して」
「うん」それから、思ったよりあっさりと言葉が出た。「ありがとう、母さん」
母さんは立ち上がり、俺の髪を一度だけ、素早く撫でた。照れているみたいに。そしてドアのほうへ向かった。
「母さん?」
「ん?」
言え。たった二言だ。虚無を生き延びたんだから、二言くらい生き延びられる。
「気をつけて」
母さんは瞬きをした。それから、顔全体に一度に温かいものが広がった。壁を日の光が滑っていくみたいに。
目が少し潤んで見えた。縁がきらりと光っただけで、見間違いじゃないと確信する前に消えていた。
「気をつけるわ」母さんは言った。「あなたもね」
玄関のドアが開いて、閉まった。鍵がちゃりんと鳴った。足音が道の向こうに遠ざかっていった。
それから、家は静かになった。
* * *
俺の部屋も、静かだった。
ベッドに横たわって、お腹の上で手を組み、天井のファンを見つめた。ゆっくりと回って、一周ごとにきしんで、ぐるぐる回って、どこにも行かない。
「しっかりしろよ、ガキ」俺は言った。ファンに。自分に。「転生したんだ。いや、回帰か。過去への逆行か。ああもう、時間を巻き戻すマンガのジャンル名なんて、そもそも知らねえや。まあいい」
笑った。乾いた笑いだった。
「ずいぶん感情的になったな。あれだけウェブ小説を読んできたのに、まさか味噌汁一杯の前で崩れ落ちるなんて、一度も思わなかった。ふざけた人生すら、まともに乗り切れないのかよ。ハハハ」
きしむ音。
「今年の主人公賞だぞ、みんな。二度目の人生の初日の朝に、便器にひざまずいてる。誰かこの男に剣をくれてやれ」
きしむ音。
「他の英雄は、トラックにひかれそうなガキを助けて死ぬのに。俺は、ラーメンの匂いがするアパートで死んだ。まさに低予算版だ」
きしむ音。
「それに、ステータスのやつ。『ステータスウィンドウ、オープン』。誰がやるんだ、そんなの。死んで一時間の男が、まだカスタマーサービスを受ける権利があると思ってる」
きしむ音。
「ルーデウスは魔術師の体と魔法の才能をもらった。俺はガラケーとポスターだ。かっこいい傷痕のある悲劇的な過去はどこだ? 俺の傷は一個だけで、自転車から落ちたときのだ」
鼻で笑った。
「お前と俺は一緒だな、ファン。古くて、うるさくて、ぐるぐる回って、どこにも行けない」
もう一度笑った。さっきより細い笑いだった。
「なあ、俺は準備万端だったんだ。スピーチまで用意してた。『俺は運命を変える。今度こそ強くなる』って。顔の練習までした。それなのに母さんがカップを置いた瞬間、俺の計画は全部、ただ……」
口で、ボンと小さな爆発音を立てた。それから、やめた。
「ああ」
階下で、水が流れた。流しで皿がカチャンと鳴った。いや、違う。母さんはもう出かけたんだ。ただのパイプの音だ。あるいは冷蔵庫か。あるいは、家が家として存在してるだけの音。
それから、かすかに、どこからともなく、まだ聞こえていた。母さんがいつも口ずさんでいた、あの調子外れのメロディが。何千回もの朝に耳にしてきたのに、一度もちゃんと聞いたことがなかった。
「面白いもんだな」俺はさらに小さな声で言った。「あの手の本の英雄には、みんなどこかに母親がいる。いつも、隣の部屋の光みたいなもんだ」
きしむ音。
「朝の七時の母親の顔がどんなだか、誰も書かない」
ジョークを待った。
来なかった。
「あいつは、半秒遅れて感じることになるって言った。俺は、ジョークがうまくいかないって意味だと思ってた。タイミングが悪くて、気まずい沈黙になるとか」俺は唾を飲み込んだ。「違った。こういうことだったんだ。唯一、一度も離れなかった人の向かいに座って、自分のほうが先に離れてたんだと気づくこと」
ファンが回っていた。外を車が通り過ぎた。遠くのどこかで、誰かが何でもないことに笑った。羽根の形がぼやけるまで見つめていた。街の向こうのどこかに、自動販売機があって、コーラを持った馬鹿がいて、これから何が起きるのかを、俺は知らない。計画はなかった。今回だけは、それは後回しでいいと決めた。
「俺は神様に、嫁を百人くれって頼んだんだ」俺は、囁くように言った。
ファンが回った。
「……馬鹿だな」
目を閉じた。ジョークの最後の欠片が、風船から空気が抜けるみたいに胸から出ていって、その下に残ったのは、静かで、素っ気なくて、とても重いものだった。痛くはなかった。ただ、そこにあった。
何年もの間、俺は誰も来てくれなかったと信じていた。
母さんは、毎回来ていた。ただ、袋をドアノブにかけて帰っただけだ。俺が、母さんの顔を見なくて済むように。




