第1話 二番目の扉 【挿絵あり】
(ここはどこだ? 俺は死んだのか?)
世界は、白いカーテンのように果てしなく広がっていた。地平線もなければ、影もない。あるのは、すべてを呑み込む空白の静寂だけ。かろうじて見えるのは、冷たい地面に間抜けな格好で座り込んでいる、素っ裸の自分くらいのものだった。あの世ってやつは、服を用意する気もないらしい。
風もない。音もない。耳の奥で鳴る自分の鼓動という、ささやかな慰めすらなかった。
(……まあ、そりゃ死んでるよな)
反射的に、手が首へ伸びた。刺すような痛みは、まだ残っていた。思わず身がすくむほど鋭くて、意識が途切れる直前の、あの崩れ落ちる一瞬を嫌でも思い出させる。
つまり、俺は死んだ。ただし、痛みを免除してもらえるほどには死に切れていないらしい。
……これが、死ぬってことなのか。
死ぬことを考えたことなら、前にもあった。ただ、実行に移す勇気だけはどうしても出なかった。それなのに、俺は今ここにいる。なんで今なんだろう。自分でもよくわからない。
まあいい。恨みも、思い出も、痛みも……全部あの体に置いてきたと思えばいいんだ。
人生は、誰にでも祝福をくれるわけじゃない。きっと、前からわかっていたんだと思う。世の中には、重さに耐えきれなくなって手放すその日まで、ただ静かに苦しむために生まれてくる奴だっている。
だったら、自分の命を絶つ理由としては十分なんじゃないか。……なあ、そうだろ?
仮に違ったとしても、もう死んじまったんだ。悩みがひとつ減った、くらいに思っておけばいい。
(話を戻そう。ここはどこだ? ネットでさんざん脅された地獄っぽくはないし、俺が思い描いていた天国ともまるで違う)
だって、地獄といえば溶岩の池と絶叫する亡者だろ? で、天国といえば、翼の生えた天使に、神話の妄想から抜け出してきたようなスレンダーな体……。もしそっちだったら、勢いで、あとから後悔するようなアレなことをやらかしてたかもしれない。
(ハハ……)
気づけば、笑いが漏れていた。小さくて、間抜けで、死んだ人間のくせに煩悩がだだ漏れの笑いだった。
でもまあ、ここが天国なら、門のところに誰かいて「よくやった、ようこそ」くらい言ってくれてもいいはずだろ?
なのに現実は、静寂だけが——
どこまでも続く、空っぽの白があるだけだった。罰でもなければ、安らぎでもない。ただの空虚。
静寂のような白。
それが慰めなのか恐怖なのか、自分でもよくわからなかった。引きこもりだった頃の俺の暮らしに、どこか似ている。
……待てよ。俺が死んだとき、まさに引きこもりだったじゃないか。
つまり、生きてた頃の俺がそのまま、ここに映し出されてるってことか? だったら、一緒に夜を過ごすことを夢見た女の子たちが、ここにたくさんいてもいいはずだ。
ハハ……
またしても笑いが漏れたが、今度のそれは、邪な妄想だけで満たされていた。
……いや、待てよ。
そもそも俺は、生きてた頃から女の子にはまるで縁がなかった。
まあいい。俺の夢は、どのみち叶わない運命だったんだ。
「神様! この哀れな魂の最期の願いくらい、叶えてくれよ! 多くは望まない、嫁を百人くれ、俺だけのハーレムを作るから!」
この果てしない白い虚無で目を覚ましてから、声に出して喋ったのは、これが初めてだった。
コン、コン。
内なる独白と格闘していた、そのとき。背後からノックの音がした——鋭くて唐突な、死ぬ直前に聞いたあの音と同じだった。
なんなんだよ。こんな真っ白な空間に、何があるっていうんだ?
さっき周りは一通り確認した。静寂と、真っ白な空白しか見つからなかったはずだ。振り返ってみる。何もないだろうと半分予想していて……その通りだった。
やっぱり白い。やっぱり静かだ。
でも、ノックの音は確かに聞こえた。そもそも、ここには扉すらないんだぞ!
夢でも見てるのか? いや、違う。俺は確かに自分で死んだ。首はまだ痛いんだ。
じゃあ、誰かいるのか? 男か女かは知らないが、俺にいたずらでも仕掛けてるのか? っていうか、こんな果てしない白い虚無でいたずらを仕掛ける度胸のあるクソ野郎って、いったい誰だよ。
いや、こっちは真剣なんだぞ。
俺は死んだんだ……まあ、深刻に思えるのは、単に自分の身に起きたことだからかもしれないけど。
まあいいや。
誰だか知らないが、女ならこのチャンスは逃さない。そいつを俺のお姫様にして、俺がマリオになってやる。
でも、もし男だったら……
いやいやいや。素っ裸の野郎が二人で、虚無空間に? 考えただけで気分が悪い。その文化は尊重するけど、俺はまだそっち側に入る覚悟ができてない。
「ああ、もう、イライラするな! 誰かいるのか!?」
自分の勘違いが勘違いじゃないと確かめるために、俺は叫んだ。……いや待て、そもそも勘違いなんてしていない。ノックは確かに聞こえたんだ。
沈黙。
「返事なしか?いいぜ、かくれんぼがしたいなら付き合ってやる。ただ、せめて名乗るくらいしろよ。闇に隠れてないで……って、白か」
でも本当に、この真っ白な空間で、誰がどうやって隠れられるっていうんだ?
礼儀を知らない奴なら、こっちも無視してやるまでだ。
振り返り……そして、固まった。
一瞬、脳が目の前のものを処理することを拒否した。
なんとなく胡散臭いクソ野郎が、目の前に立っていた。顔には、こう叫んでいるようなにやけ笑いがべったり貼りついている。
『俺がここで一番のクソ野郎だぞ』
ってな。
「やあ、松本ハルト……で合ってるかい?」
素っ裸の俺の体に、やけに気軽に視線を這わせながら、そいつは言った。
「おいおい、ちょっとはプライバシーを考えてくれよ。死人にだって、一人になりたいときくらいあるんだ」
俺は股間を隠しながら、小声でそう言った。
だが、大事なのはそこじゃない。こいつが、俺の名前を知ってるってことだ。
ここは素直に「そうだ」って答えるべきか? いや、なんで俺が? こいつはあの世の警察か何かなのか?
「あー……私、心が読めるんだよね」
とそいつは言った。
……は? 待て、ってことは、こいつ、心まで読めるのか!?
なんだそりゃ。ハゲでテレパシー使いの変態野郎かよ。しかも、俺と同じで負け犬のまま死んだクチか?
っていうか、こいつ、本当に何者なんだ? 眉毛もなければ髪もない。何もない——ガラスみたいにつるつるだ。
……待てよ。あそこも毛がないのか?
いや、俺だって人間だ。変だってことはわかってる。でも、好奇心ってのは残酷なもんだ。気づけば俺の目は、そいつの下半身へ向かっていた。
ちょっと驚いた……いや、ド肝を抜かれた。今、何を見たんだ俺は!?
聖水よ、どうかこの目を清めたまえ! 見てはならないものを見てしまったんだ!
見てしまった……いや、正確には、見えなかったんだ。そこにあるはずのものが、なかった。棒もなければ、ブラックホールもない。ただの空白だった。
こいつは男で、いや女——
いやいやいや。
女で、いや男——
違う! どっちでもない!
こいつは、男でも女でもなかった。
「ああ神様、お慈悲を!」俺は小声でつぶやいた。「女は与えてくれなかった、それはいい。でも、宇宙人をよこすのは勘弁してくれ! 頼む、神様!」
どんなあり方だって尊重する。両性愛だってな——でも、こいつは? こいつはそのカテゴリにすら当てはまらない! 要するに、どの枠にも収まらないってことだ。
「うーん、それは失礼だなあ……」
どこか傷ついたような声で、そいつが言った。
「それとね、正確に言うとハルト、君の頭のおかしい内なる独り言も、全部聞こえてるから」
だからこそ心の中で言ってるんだろうが、このクソ野郎!
「あっそう。じゃあ、そこにいる間にマナーでも学んどけよ」
俺はそう呟いて、腕を組んでみせた。威厳なんてもんは、とっくに残っちゃいなかったが。
そいつは、つるんとしたのっぺらぼうの頭を傾けた。眉もなく、読み取れる表情の欠片すらないのに、どういうわけか面白がっているように見えた。
顔がないことより、そっちのほうがよほど不気味だった。
「人間って、ほんとに予想どおりだよね」とそいつは言った。「死んだ瞬間、どいつもこいつも泣いて、喚いて、取引を持ちかけてくる。マナーに文句をつけてきたのは、君が初めてだよ」
「まあ、誰かが基準を示さないとな」俺は言った。「見たところ、地獄には人事部もないみたいだし」
「ここは地獄じゃない」
「へえ、そうかい。こっちは素っ裸で寒いうえに、ナニもついてない奴に品定めまでされてるんだが」
そいつは、ため息ともノイズ混じりの雑音ともつかない音を漏らした。電波が途切れかけたラジオみたいに。
「松本ハルト、三十四歳。無職歴八か月、家賃は三か月滞納。午後十一時四十七分、死亡。自死。場所は、君自身の記憶をそのまま引用すると——『後悔と賞味期限切れのインスタントラーメンの匂いがする』アパート」
「うわ、ひでえな。いちいち箇条書きで読み上げなくてもいいだろ」
「四分前に神様へ『嫁を百人くれ』って頼んだ人間が、何を言うかな。尊厳がどうとか言える段階は、もう過ぎたと思うけど」
……ぐうの音も出ない。痛いほどに。
「あのさ」俺は両手を挙げた。そんな降参のポーズで交渉が成立するわけでもないのに。「ハーレム付きのチート剣士に転生して、代償ゼロで無双できる——って流れまで、飛ばしてくれないか? このジャンルのお約束は、嫌ってほど読んで知ってるんでね」
そいつは初めて、本当に笑った。親切な笑みじゃない。食べるかどうかまだ決めていないネズミに、猫が向ける笑みだ。
「へえ、そんなジャンルがあるんだ? 可愛いね。でも、だめだよ、ハルト。ただで済ませてはあげない。君には、選択肢が与えられる」
周囲の白が震えた。動いた、というより、動くことを検討したような震え方だった。そして、この虚無で目を覚ましてから初めて、空っぽ以外の何かが、縁のほうからじわじわと押し寄せてきた。
「選択、ね」俺は平坦な声で繰り返した。「当ててやろうか。一番の扉は永遠の罰。二番の扉も永遠の罰」
「一番の扉」そいつは俺を完全に無視して続けた。「君は消える。何も残らない。痛みも、記憶も、君という存在そのものも。宇宙は君がいたことを忘れる。忘れさせるのに、大した手間も要らないだろうね」
「きっついな。まあ、続けてくれ」
「二番の扉」
そこで間があった。絶対に演出のための間だ。それがまた腹が立つ。口も見えないくせに。
「君は戻る。同じ人生、同じ体、君自身の下手な選択の臭いが染みついた、同じ惨めなアパートに。ただし今度は、夢遊病者みたいに人生を歩かせてはやらない。君をここへ導いた選択の数々を、ひとつ残らず突きつける。そのうえで、それがどんな代償を払わせるのかを知ったまま、もう一度生きるんだ」
続いた沈黙は、今度は空っぽじゃなかった。ずっしりと重い。虚無というより、誰かが息を止めているような静けさだった。
「それだけか?」
怯えている代わりに、退屈しているふうを装って言った。ちなみに、これは昔から下手くそだ。
「剣は? 魔法は? システムメニューから選ぶチートスキルは?」
「君は金もなく、一人きりで、誰にも悼まれずに死んだんだよ、ハルト。システムだの剣だのは、それを欲しがる資格を手に入れてからでいいと思うよ」
それは、生きていようが死んでいようが、ここ何年ものあいだ誰かに言われた言葉の中で、初めてまともに胸に刺さった言葉だった。
* * *
俺は何か言おうと口を開いた。何も出てこなかった。
最高だ。死んで一時間も経ってないのに、もうネタ切れかよ。新記録だな。
そいつは気づいた。当然だ、心が読めるんだから。あるはずの思考が出てこない、その沈黙までお見通しらしい。
「言い返さないの?」そいつは今度は逆側に首をかしげた。「へえ、新鮮だね」
「ちょっと待ってくれ。死んだばかりなんだ」
「ゆっくりでいいよ。あんまり時間はないけど」
へえ、そりゃいい。あの世にまで締め切りがあるのかよ。
「わかった」俺は言った。「二番の扉だ。説明してくれ、簡単な言葉でな。無職で金もなく死んだ人間の脳みそは、今あんまりフル回転してないんでね」
「戻るんだよ」とそいつは言った。「終わりまで、じゃない。終わりが始まる前まで、だ。体はそのまま——その頃の年齢のままね。傷がまだ小さくて、直せるうちの頃だ。最初のときに、君がちゃんと注意を払ってさえいればの話だけど」
「どのくらい戻るんだ?」
「君を『期待外れ』以外の名前で呼ぶ母親が、まだいた頃まで。残りは自分で考えな」
「で、これは全部覚えてるのか? この虚無とか、あと——」俺は、そいつの顔、というか顔があるべき場所に向かって手を振った。「——これ、とか」
「死んだことは覚えてるよ。私のことも、そのうち思い出す。好むと好まざるとにかかわらずね。ただし、ダイジェスト映像はなし。君の最悪の選択の数々が、しんみりした音楽つきで流れる回想シーンもなしだ」
「残念だな。ストリングスが流れるのを想像してたのに」
「代わりに、前へ向かって生きてもらう。君をここに連れてきた選択を、もう一度ぜんぶ選ぶことになる。ただし今度は、半秒だけ遅れてそれを感じる。扉がもう閉まった瞬間にね。わかっていても、もう何の役にも立たなくなったときに」
これには、返せるジョークが思いつかなかった。
「それはやり直しじゃない」俺は言った。「ただ、自分自身に取り憑かれてるだけだ」
「それこそ、四分前に君が神様に頼んだことだよ。ハーレムは別としてね」
……これまたぐうの音も出ない。腹が立つほどに。
「もうひとつ」
そいつが言った。周囲の白が静まり返った。ただしそれは、安らぎの静けさじゃない。誰かに平手打ちされる直前の静けさに近かった。
「ここに立つのは、君が初めてじゃない」
その一言が気に入らなかった。何かをわざと伏せたような言い方が、なおさら気に入らなかった。
「どういう意味だよ。行列でもできてるのか? 整理券でも取れってのか?」
「二番の扉が、いつも用意されているとは限らない、って意味だよ。しかも、用意されたとしても、いつも同じ二番の扉とは限らない」
そいつは、目の代わりに使っている何かで俺を見つめた。
「いつか、また訊いてごらん。どうして君に、肉体のあるほうが与えられたのか。答えは、気に入らないかもしれないけどね」
俺には、今日も明日もこの先も絶対に訊くつもりはない、と言い返す暇もなかった。白が、割れたからだ。
見た目に割れたわけじゃない。割れるものなんて、何も見えなかった。叫び声が静寂を引き裂くように、割れたのだ。あらゆる場所で同時に、はっきりした始まりもなく。そして、それが俺を引っ張り始めた。
優しくはなかった。かつてロープがあったその場所で、首に手がかかって締め上げられ、そのまま引きずられていくような感覚だった。
「待て——せめて、シオンが——」
「さよなら、ハルト」
それで終わりだった。警告もカウントダウンもない。
ただ、虚無が自分自身の中に折りたたまれていくのか、俺がその中に折りたたまれていくのか、上も下も、白も黒も、死も死んだあとの何かも区別のつかない、長い長い無が続いた。
そして——光。
カーテンの隙間から差し込む、黄色くて、ありふれた、飾り気のない光。
それから、声。廊下から。まったく同じ声が、まったく同じ言葉を、まったく同じ順番で。何千回もの朝に聞いていながら、一度もまともに聞いていなかった、あの声が。
「ハルト、起きなさい」
俺は動かなかった。
匂いが違った。目を閉じたまま、身構えて横になっていた俺が最初に気づいたのは、それだった。古くなったラーメンの匂いがない。鍵をかけたこともない玄関の脇に積み上がった、開封もされない郵便物の壁もない。盗む価値のあるものなんて、あのアパートには何も残っていなかったから。
ここにあるのは、洗剤の匂いと、たぶん朝ごはんの匂いだけだった。
勢いよく起き上がりすぎた。部屋がぐらりと傾いて、それから、小さくて、きちんとしていて、そして完全に間違っている何かに落ち着いた。
間違っている——あまりによく知っていて、見ることすらやめてしまった場所だけが、そんなふうに「間違って」見えるんだ。
俺のアパートじゃない。こんな部屋で寝たのは、何年ぶりだろう。
戻ってきたんだ。生まれ変わったんじゃない。ステータス画面とシステムメニューを持った最強の主人公になったわけでもない。
ただ、戻っただけ。
どうやら若返って、ある家の中にいる。もう長いこと、ちゃんと意識して足を踏み入れたことのない家。顔を出す価値のある息子じゃなくなってから、ずっと。
しばらく、そのまま座り込んでいた。心臓が、動く筋合いのないことをやっている。だって俺は、生物学的にはもう死んでいるはずなんだから。
手が、命じてもいないのに首へ伸びていた。
何もない。痕もなければ、痛みもない。何かがあった証拠すらない。ここ数年の俺の人生が、それを生きた体ごと、静かに消去されたみたいだった。
なぜか、それは痛みよりも怖かった。
外の世界のどこかに、数時間後には、自動販売機がある。そしてその前で、コーラを持った馬鹿が俺を待っている。最初のときには、まともに見てやらなかったあの顔で、もう一度。
まさにこれを、俺は願ったんだ。
ただ、こんな感じだとは思ってもみなかった。




