93 ありがとう
『ダメっ!』
どこか聞き覚えのある声がしたかと思うと、何か温かなものに包まれたような気がした。
いつまでたっても地面に叩きつけられる衝撃はやって来ない。
それどころか、リヒャルトとエルゼの体はふわりと宙に浮いていたのだ。
「どうなってるの……?」
二人の体はふわふわと宙に浮かんだまま、塔の上へと戻ってきた。
果たしてそこにいたのは――。
『エルゼ! リヒャルト!』
「シフォン!」
エルゼがいつも連れている、喋るウサギがそこにいた。
屋上に出る前に「隠れていろ」と追いやったのだが、いてもたってもいられずに出てきてしまったようだ。
ウサギの体はきらきらと光っていた。
その反応でわかった。
塔から落ちそうになったエルゼとリヒャルトを救ったのは、この小さなウサギなのだろう。
「ただの小精霊、ではないのか……?」
リヒャルトはこのウサギのことを「人間の言葉を喋るだけの小精霊」だと思っていた。
だが、ただの小精霊に人間二人を窮地から救うような力があるわけがない。
「シフォン、あなたが助けてくれたの……?」
エルゼがウサギの方へそっと手を伸ばす。
ウサギはぶるぶる震えていたかと思うと、勢いよくエルゼの腕の中へと飛び込んだ。
『心配した! すっごく心配した! エルゼのバカ!!』
「ごめんね、ごめんねシフォン……」
『エルゼのバカバカ! ずっと一緒にいなきゃ許さない!!』
ウサギを包む光が強さを増していく。
エルゼとリヒャルトの危機に、これまで眠っていた力が目覚めたのかもしれない。
『うぅ~、なんか頭がごちゃごちゃする……』
「シフォン、大丈夫!?」
『誰かに会わなきゃ、止めなきゃ、いけないの……』
「シフォン!」
エルゼが心配そうにウサギの体を撫でさする。
宝玉のように澄んだ真ん丸の目が、不意にリヒャルトを捕らえた。
『リヒャルト……』
何故だか、その瞬間リヒャルトの体を電撃が走ったような衝撃が貫いた。
……ずっと忘れていた感覚が蘇ってくる。
そう、これは――。
『リヒャルト……ううん、違う。そうじゃなくて――』
ウサギはまっすぐにこちらを見つめたまま、小さく呟いた。
『お兄様』
その瞬間、急激に懐かしさと愛おしさが胸の奥からこみ上げてきた。
そう、リヒャルトは知っている。覚えている。
リヒャルトのことを「お兄様」と呼ぶ、大切な存在。
理不尽に命を奪われた日から、片時も忘れることはなかった……大事な妹。
「お前は……」
リヒャルトはウサギの方へ手を伸ばす。
ウサギは抗うことなくリヒャルトの腕の中へとおさまった。
姿も、感触も、何もかもが違う。
だが、わかるのだ。
この、腕の中の小さな存在は――。
「リーゼル、お前なのか」
それは、もう長いこと呼んでいない、かつて命を落としたリヒャルトの妹の名だった。
ウサギは真ん丸の目でリヒャルトを見つめ、鼻を鳴らす。
『そう、なのかな……。名前は思い出せないの。でも、あなたのことをお兄様って呼んでたような気がする』
「……あぁ、そうだな。それでいい」
リヒャルトは潰さないように気を付けながら、そっとウサギを抱きしめた。
そうだ。彼女にはエルゼが付けた「シフォン」という立派な名前があるのだ。
一度失われた命が、新たな形で再びリヒャルトの前に戻ってきてくれた。
それだけで十分だ。
「そんな……まさか、シフォンは火事で亡くなったリヒャルトの妹姫だったの……!?」
「精霊についてはその存在自体が謎に包まれている。
だから、リヒャルトの妹であるリーゼルが精霊に転生し、再び戻ってきた……そんな奇跡があってもいいのかもしれない。
『お兄様! お兄様! 聞いて! シフォン、ずっとお兄様に会いたくて探してたんだよ!!』
シフォンは甘えるようにすりすりとすり寄りながら、興奮したように話し始める。
『気づいたらお城の外にいて、お兄様を探してたら罠にかかっちゃった、でもエルゼが助けてくれたの!! その後お兄様にも会えたんだけど、怖くて近寄れなかったんだよ!!』
「そうか……それは済まなかったな」
リヒャルトはたどたどしい手つきでウサギの頭を撫でた。
かつて、妹にそうしてやったことを思い出しながら。
「リヒャルト、シフォン……そんな……ううん、とにかくよかった……」
エルゼは感極まったように目を潤ませている。
……思えば、彼女がすべての始まりだった。
彼女が罠にかかっていたシフォンを助けなかったら、きっとどこかでウサギのミートパイにでもされていたことだろう。
もし助かったとしても、シフォンは復讐に囚われ変わってしまったリヒャルトを恐れ、自分だけでは近づけなかったはずだ。
そんないくつものすれ違いを、繋げてくれたのがエルゼだ。
場違いにも花嫁選考会に乗り込んできた、名も知られていないような小国の王女。
そんな彼女が、シフォンを、そしてリヒャルトの心を救ってくれた。
「お前のおかげだな」
そう声をかけると、エルゼははっとしたような顔をする。
「そんな、私は何も……」
エルゼはいつになく殊勝な態度で、リヒャルトから身を引こうとする。
そんなエルゼの腕を掴み、リヒャルトは彼女の身体を引き寄せ……強く抱きしめる。
今は、とにかくそうしたかったのだ。
「ありがとう……エルゼ」
そう囁くと、エルゼの体が震えた。
彼女はぎゅっとリヒャルトの背中に腕を回し……涙声で呟く。
「……リヒャルトの役に立てたのなら、私はそれでいいの」
しばらくの間、二人は何も言わずに抱き合っていた。
ただただ、心を溶け合わせるように。




