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92 お願いだから

 なんとかエルゼの手を掴むことができたといっても、今の体勢はまさにギリギリの状態だった。

 ほんの少しでも気を抜けば、エルゼどころかリヒャルトすら一緒に落ちかねない。

 リヒャルトの額に汗がにじむ。

 エルゼの今の状態が綱渡り状態なことには気づいているのだろう。


「リヒャルト、手を放して」


 いつもの騒がしさが嘘のように、彼女は努めて冷静にそう言った。

 だが、リヒャルトは彼女の言葉を聞き入れるつもりは毛頭なかった。


「黙れ、静かにしていろ」

「このままだとあなたまで落ちるわ」

「黙れと言っている。俺は落ちるつもりはないし、お前も落とさない」


 リヒャルトの言葉に、エルゼは唇を噛んだ。

 彼女の瞳がリヒャルトを見つめる。

 その瞳の中で、希望と絶望、リヒャルトへの想いと罪悪感がせめぎあっているのがありありと見て取れる。


「……私は、あなたを騙していたのよ」


 消え入りそうな声で、エルゼはぽつりとそう呟いた。


「私はあなたの嫌いな先詠みで、それを黙って妃になろうとしていたの」

「……そのようだな」

「ずっとあなたに嘘をついていたのよ!? 私と私の国を守るために! 保身のためにあなたを騙していた!! ずるい人間なのよ!!」


 リヒャルトの視線の先で、エルゼが喚いている。

 おそらくはリヒャルトの憎しみを煽り、自ら手を離させようとしているのだろう。

 ずっとリヒャルトを騙し続けていた割には演技が下手だ。

 今なら、彼女の内心が手に取るようにわかる。

 それは、リヒャルトに安堵と「絶対にこの手を離してはならない」という決意をもたらしただけだった。


「私が憎いでしょう? 私はあなたの復讐相手の先詠みなのよ! だから――」


 エルゼはまだ喚いている。

 彼女の手を強く握り、リヒャルトは言葉を遮るように告げた。


「それで俺が手を離すとでも思っているのか」

「だって……」

「これでも、お前のことはよくわかっているつもりだ。そんな薄っぺらい言葉よりはな」

「っ……!」


 エルゼの顔が悲痛に歪む。

 リヒャルトはなんとかエルゼを引っ張り上げようとしたが、その途端腕に痛みが走る。


「ぐっ……」

「リヒャルト!」


 リヒャルトの異変はエルゼにも伝わったのだろう。

 彼女は再び騒ぎ出した。


「お願いだから離して!」


 もう態度路取り繕う余裕もないのだろう。

 彼女は必死にそう叫んでいる。

 だが、リヒャルトにはエルゼの手を離すという選択肢はなかった。

 そんなことをするくらいなら……共に落ちた方がましだ。


「俺は……これ以上、大切な人を失いたくない」


 リヒャルトの口から零れ落ちた言葉に、エルゼははっとした顔をした。


「リヒャルト……」


 エルゼの目に涙が滲む。

 もし、このまま二人して落ちていくのなら。

 ……それも、悪くない終わりだと思えた。

 汗で手が滑り、エルゼの体ががくんと落ちる。

 リヒャルトはとっさに彼女の手を掴みなおし……その拍子に全身が虚空へと投げ出される。

 瞬時に、リヒャルトはエルゼの体を引き寄せ抱きしめた。

 そのまま二人は無惨にも地面に叩きつけられるかと思ったが――。


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― 新着の感想 ―
思ったが…!って、何かが起きて、絶対大丈夫だって分かっているけど、気になります。
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