91 さようなら
「なっ……」
エルゼが、「先詠み」の一族の娘……?
リヒャルトに近づいたのは、国を守るため……?
その事実に、リヒャルトは絶句してしまった。
男の嘘ではないか、と疑う思いもあったが項垂れるエルゼを見ればわかった。
……男の言葉は、真実なのだと。
衝撃でリヒャルトは固まってしまう。
男はその隙を見逃さなかった。
「今度こそ消えろ!」
隠し持っていたクロスボウで、彼はリヒャルトを射抜こうとしたのだ。
「くっ……!」
間一髪、我に返ったリヒャルトは避けることに成功した。
ヒュッと耳元で風を切るような音がし、リヒャルトは後一秒でも反応が遅れれば自身の命はなかったと思い知る。
「ちっ、何度も何度も小賢しい……。あの日、貴様が死んでいれば私はすべてを手に入れていた! 皇后の寵臣として、この国を思うがままに動かすことができたのだ! それなのに……虫のように隠れなければならなかった私の苦痛がわかるか!? 貴様さえ死んでいれば、何もかもがうまくいったのだ!!」
あまりに自分勝手な主張に、リヒャルトの復讐心は燃え上る。
だが、安い挑発のおかげである程度は冷静さを取り戻すことができた。
リヒャルトの復讐相手は、目の前の男に他ならない。
何としてでも、復讐を遂げてみせる。
理不尽に命を奪われた母と妹のために。
そして……今度こそ、大切な存在を失わないために。
「それならばもう一度殺してみせろ。無能な貴様にできるのならな」
わざと相手を挑発するような言葉を選んでそう口にすると、男はあからさまに表情を歪めた。
「私は無能ではない! 未来を視るだけで何もしない者どもとは違い、私はすべてを手に入れるのだ! 『先詠み』の力などなくとも私が優れているのだと証明してみせる!!」
男の血走った目や繰り出される言葉からは、彼の原動力が「先詠みの能力を持たない」というコンプレックスから来ているのだと推測で来た。
だが、リヒャルトは一片たりとも同情してやるつもりはなかった。
そんなくだらないことのために、リヒャルトの家族は奪われたのだ。
罪には罰を。ただそれだけだ。
「エルゼ」
リヒャルトは俯いたままのエルゼに声をかける。
エルゼはぴくりと反応し、驚いたように顔を上げた。
「必ず助ける」
リヒャルトは短く、そう口にした。
これは誓約だ。
自身と、エルゼに対しての。
絶望に染まっていたエルゼの目に光が戻る。
その様子を確認し、リヒャルトは再び男へと向き直った。
「はっ、できるものならやってみるといい!!」
男が再びクロスボウを放つ。
だが今度は後れを取ることはなかった。
軽く射出されたボルトをかわし、男を亡き者にせんと斬りかかる。
「くっ……」
男は寸でのところで身をかわしたが、その表情は焦りに満ちていた。
「貴様っ……この女がどうなってもいいのか?」
エルゼを盾にするようにして、男はリヒャルトを脅そうとした。
だが、リヒャルトはもう怯まなかった。
「必ず助ける。二言はない」
長期戦にはなるが、男だけを斬りエルゼを救い出せるという自信はある。
時間が経てばたつほど、リヒャルトにとっては有利な状況になるのだ。
「リヒャルト……」
人質になっていたエルゼが、じっとリヒャルトを見つめて口を開く。
「……助けに来てくれてありがとう。『エルゼ』って名前を呼んでくれてありがとう。……すごく嬉しかったわ」
彼女はそう言って微笑む。
リヒャルトは不覚にも、その笑顔に視線を、意識を吸い寄せられてしまった。
「今のあなたなら大丈夫って思えたの。だから……さようなら」
不意に、エルゼが動いた。
自身を拘束する男に体当たりをし、二人はもつれるように転がった。
……塔の屋上から、虚空へと放り出されるように。
リヒャルトがとっさに動けたのは奇跡に近かった。
瞬時に地面を蹴り、自身も中空へ飛び出す勢いで手を伸ばす。
果たして伸ばしたその手は……リヒャルトが助けると誓った少女の細い手首を掴むことに成功した。
リヒャルトの積年の復讐相手は、怨嗟の声をあげながら地上へと落ちていく。
だがリヒャルトが彼の存在を気に掛けることはなかった。
ただ、目の前の少女を救い上げることで精一杯だったのだ。




