(20)悲しい告白
佐伯家に挨拶を済ませ、その足で入籍した。
まさか自分が二度目の結婚をすることになろうとは……。奈那子を亡くしたときは、天地がひっくり返ってもあり得ないと思っていた。太一郎はなんとも言いがたく、感慨深いものがある。
記念に外食でも、と考えたが、三ヶ月の乳児が一緒ではファミリーレストランがせいぜいだろう。
結局、茜が作ることになり、その間、太一郎と美月が小太郎をベビージムで遊ばせている。
ピンク色のベビージムは美月の物だ。
メロディトイがぶら下がっていて、それを引っ張ると音楽が鳴り始める。足元にも音の鳴る細工が施されていて、美月も赤ん坊のころはひたすら遊んでいた。
小太郎はまだ小さいので自分で引っ張って音を鳴らす力はない。
美月が代わりに引っ張り、赤青黄色のライトが点くと、小太郎はジーッと凝視しつつ……ときどき、嬉しそうに頬を動かし、手足をバタバタさせている。
「楽しいのかしら?」
「たぶん……おまえも赤ん坊のころはご機嫌で遊んでたし」
「赤ん坊って、そんなに笑わないのね」
「まだやっと三ヶ月だからな。おまえと同じで早産だったって言うし……あと二、三ヶ月もすりゃ、笑うようになるさ」
太一郎の言葉に美月の表情が曇った。
「パパは……ママと茜さんのどっちが好き?」
「……美月」
世界最強と言うほど、太一郎にとって答えにくい質問だ。
だが、美月は容赦なく、さらなる難問を出してきた。
「私と小太郎のどっちが大事?」
真摯な瞳が太一郎をみつめる。
こんなときほど、美月の中に奈那子を姿を重ねることはない。槍のように真っ直ぐ向かってくる思いから、逃れることのできる人間はいないだろう。
「十一年前――パパはママと出会った。茜と会ったのはその少しあとだ。色々あって……茜はパパのことが好きだと言ってくれた。でも、パパはママを……奈那子を選んだ」
「私がいたから? だから……」
美月の声は今にも泣きそうで、太一郎は慌てて遮る。
「いや、それは違う。あのときパパは、命と引き換えにしても奈那子を守りたいと思ったんだ。世界中でたったひとり、パパのことをヒーローだと信じてくれたのはママだった」
太一郎のあやまちに気づかせてくれたのは、卓巳の妻、万里子だった。
だが、犯した罪を自覚するということは、恐ろしいことだ。奈那子は贖罪の日々を過ごす太一郎にも“愛される価値がある”と教えてくれた。
「でも今度は……茜さんを選んだんだ。仕方ないわよね、ママは死んじゃったんだもの」
太一郎はひと呼吸入れて、少し考えてから尋ねる。
「藤原の家で何かあったのか? ひょっとして、おばあちゃんから何か言われたか? 佐伯の家を出るときも、少しおかしかっただろう? 美月が大事だって思いは、小太郎がいてもいなくても同じなんだ」
すると、美月は意を決したように口を開いた。
「茜さんを選んだのは……ママが生きてたとき? 本当は茜さんと結婚したかったんじゃないの?」
「誰がそんなことを言ったんだ!?」
太一郎が思わず声を荒げた瞬間、小太郎がビクッと身体を震わせた。
大泣きするのではないか、と太一郎はアタフタする。そんな父親を尻目に、美月はすかさずメロディトイを引っ張った。軽快な音を鳴らして小太郎の気を逸らす。
「ダメよ、パパ。小太郎が泣いちゃうじゃない」
「す、すまん……いや、そんなことより、おばあちゃんが言ったのか? だったら……」
「フリンして子供を産んだって、茜さんの弟さん夫婦が話してたの。フリンって結婚してる男の人と付き合うことなんでしょう?」
太一郎は息を呑んだ。
なんてことを話して聞かせるんだ。と怒りたくなる反面――子供にはわからないだろう、と思った弟夫婦の気持ちもわからないではない。
美月は持って生まれたものか、あるいは成長過程で学んだのか……とにかく、大人の機微に通じている。
生半可な言い訳では納得させることは難しいだろう。
「それは、パパと再会する前のことだと聞いてる。茜が付き合ってた男は結婚してることを黙ってたそうだ。そのときに授かった子供は、残念ながら生まれてくることができなかったらしい」
「じゃあ……小太郎は? 本当にパパの子供だって言えるの?」
「美月?」
「それに、私は? 私だって、違うかもしれない。私はパパの子供じゃないのかも……」
美月は知っている。
確証はない。だが、太一郎には美月の言わんとすることがわかった。
太一郎は手を伸ばし、美月を抱き締める。
「美月はパパの子だ。小太郎もそうだ。違うなんて言わないでくれ……おまえにそう言われたら、パパの生きる意味がなくなる」
「パパを信じるわ……ママがそうだったように……わたしも、パパの言葉を信じる……」
腕の中で、美月は震えていた。
だが決して涙は零さず、気丈にも太一郎の顔を見て微笑んだ。
~*~*~*~*~
深夜、太一郎はバルコニーに出て星を見上げていた。
眠らない都会の灯りのせいかもしれない。必死で目を凝らして、ひとつ、ふたつと数える。
「夜は冷えるわ。煙草ならともかく、ビールは部屋の中で飲んだら?」
茜に後ろから声をかけられ、太一郎はビクッとした。
「悪い、起こしたか?」
なるべくそっとベッドから出てきたつもりだったが、いつまでも戻って来ないので不審に思ったのかもしれない。
「美月ちゃん、きっと感づいてると思う。相手が小学生ってことに油断して、里美さんのことだから、色々とわたしの悪口を言ったでしょうし……」
大原との件がおおやけになって以降、弟夫婦――とくに嫁の里美の態度が変わったという。
それは茜に対してだけでなく、姑に対しても同じだ。茜の母は過去の失態を悔やみ、酷く気にしていたが、それもすべて里美の言動が原因らしい。
だが、太一郎が驚いたのはそのことではなかった。
「茜、おまえ聞いてたのか?」
「聞こえたの。大好きなパパの愛情を分けてあげる気持ちになったのに、もし、悪い女に騙されていたら……。そう思ったら、気が気じゃないはずよ」
茜もバルコニーに出て来て、太一郎の隣に立つ。
手すりに手を置き、その上に顎を乗せながら言う。
「本当のことを言わなきゃダメよ。小太郎を預けて働けるようになったらすぐに別れる――そう教えてあげて」
「結婚一日めだぞ。離婚の相談なんかすんなよ」
太一郎は大きく息を吐き、缶ビールをぐいと呷った。
「おまえさ、あんなクソ野郎にまだ惚れてんだな」
「それは……」
そのまま口を閉ざす茜に苛立ちを感じる。
「俺に抱かれたのは、宿賃代わりか?」
太一郎の問いには答えず、唇を噛み締める茜を見た瞬間、彼の中のブレーキが外れた。
手にしたビールの缶がコンクリートの床に落ち、コロコロと転がる。わずかに残った中身が流れ出て……。それを拾い上げることもせず、太一郎は茜の両腕を掴んで口づけていた。
強引なキスは本意ではない。二度と、誰にも衝動的な欲望をぶつけることはない、と誓っていた。
茜のほうから逃げて、いっそ彼を引っぱたいてくれることを願う。
「なんで逃げねぇんだ!? 俺を突き飛ばして、ぶん殴れよ!」
太一郎の言葉に茜は静かに首を振った。
「逃げません。あなたの求めには、いつでも応じるつもりでいます。だから、要らなくなったら言ってください。ちゃんと離婚届けにサインをして、小太郎を連れて出て行くから……」
茜の身体から自分を引き剥がすようにして離れ、太一郎は手すりに縋った。
彼女の気持ちがまるでわからない。抱き合うことで身体は近づいても、心は寄り添うことができないのだ。
表面上は、妻と死に別れた三十代半ばの男が、交際相手の女性に子供を産ませたあとに再婚。
(ずいぶん女の扱いに慣れた、遊び人の話みたいだ。とても自分のこととは思えねぇ)
奈那子との関係が普通の恋愛だったとは、どう取り繕っても言えない。今回の、茜との結婚の経緯も……普通からは遠く離れているだろう。
まともな恋愛すらしたことのない太一郎に、この状況はハードルが高過ぎた。
(俺はなんで……ここまでして、茜を助けたいと思ったんだ? 抱きたかったからか?)
自分で自分に問うが、答えが出てこない。
そのとき、茜が覚悟を決めたような穏やかさで呟いた。
「太一郎は奈那子さんとの約束があるから、再婚しても子供は作らないって言ったよね?」
「……ああ」
「でも、時間が過ぎれば、いつか欲しくなるかもしれない」
「ならねぇよ」
即答する。
だが、茜は寂しそうに笑った。
「もし、欲しくなったとき……わたしじゃ、産んであげられないから」
「……?」
「小太郎を産んだとき、今度妊娠したら命にかかわるって言われて……不妊手術を受けたの。小太郎にはわたししかいないから……。あの子を育てるために、死ぬわけにはいかなかったから」
静かに語る茜は彼の知っている女性とは別人のようだ。太一郎には優しい言葉のひとつもかけてやることができない。
「大原とのこと、馬鹿だったなぁって思うけど、小太郎を産んだこと後悔はしてない。でも、こうして太一郎と再会して……あなたの子供、産みたかったな」
茜の言葉は、美月を産んだ直後の奈那子の言葉と重なった。