第三話 度胸をつけましょう!
# 百合さんと優二くん ~5年越しの約束~
## 第三話 度胸をつけましょう!
「ふーん。もう一押しが欲しいわね……」
百合はそう言うと、模擬試験の結果を机に置いた。
向かい側では、優二が申し訳なさそうにうなだれている。
百合の特訓の甲斐もあって、優二は国立の房総大学法学部でB判定をキープできるようになっていた。
国語や社会などは順調に成績を伸ばしており、十分に合格圏内に入っている。一方、かつて苦手だった数学と英語は、どうしてもあと一歩が伸びない。
そのため、総合判定もBからAへと上がらないのである。
「優二くん、これは解けるかしら?」
百合は数学の問題集を開き、一問を指差した。
「はい。ちょっと待ってください」
優二は問題に取りかかった。
先日の模試で、解答欄を空白のまま提出した問題だった。
ところが、今はどうだろう。
優二は迷うことなく式を書き始め、数分後には正しい答えを導き出した。
「……正解よ」
「はい!」
「でも、これ、この前の模試では白紙だったわよね?」
「……はい」
「分かっているのに、どうしてなの?」
「時間が足りなくて……」
優二は申し訳なさそうにうつむいた。
「せっかく教えてもらっているのに、すみません……」
「謝る必要なんかないわよ。それより、原因を考えましょう」
百合はもう一度、優二の答案を眺めた。
普段の特訓では、ほとんど問題なく解けている。数学も英語も、知識や理解力は十分についてきた。
ところが、試験になると勝手が違うらしい。
これまで苦手科目で失敗を繰り返してきたせいか、少し難しい問題に出会うと、必要以上に時間をかけてしまうのだ。
*
そして、残り時間が少なくなると焦り始め、ますます手が止まる。
結果として、答案の後半に空欄が残り、取れるはずの点数まで取り逃してしまう。
「あとは、スピードと自信の問題ね……」
百合は考え込んだ。
実力は十分についてきた。あとは試験本番で、それを発揮できるようにすればいい。
「優二くん、これからは時間を測って問題を解く練習も増やしましょう」
「はい!」
「それと……」
百合は、優二の顔をじっと見つめた。
「もう少し度胸をつけないといけないわね」
「……度胸、ですか?」
「そうよ!」
百合は自信満々にうなずいた。
その日はいつもどおり一通りの特訓を済ませ、二人で勉強部屋を出た。
廊下を歩きながら、百合がふと思い出したように声をかけた。
「そういえば、明日は高校の開校記念日よね?」
「は、はい。お休みです」
「私も明日はオフなのよね……」
百合はしばらく考えていたが、突然、何かを思いついたように顔を上げた。
「よし! 明日は私についてらっしゃい!」
「えっ? どこへ行くんですか?」
「ふふっ。明日になれば分かるわよ!」
百合は楽しそうに笑った。
* * *
「こ、ここは……?」
翌朝、百合に連れられてやってきた優二は、目の前の光景に呆然とした。
そこは東京湾岸にある、房総地区最大の遊園地、キャットシーランドだった。
かわいらしいマスコットキャラクターに、色とりどりの建物。メリーゴーランドや観覧車など、家族連れでも楽しめそうな施設が並んでいる。
平日ということもあり、園内はそれほど混んでいなかった。
ただし、この遊園地には、一つだけ、とんでもない名物があった。
「お、お姉さん……いったい、何をするんですか?」
「見れば分かるでしょ?」
百合は得意げに腕を組んだ。
「今日は、あれに十回乗るわよ!」
「ええっ!?」
百合が指差した先には、巨大なジェットコースターがそびえ立っていた。
日本一の高さを誇るという、キャットシーランド最大の名物である。
青空に向かって伸びるレールは、途中でほとんど垂直に近い急降下を描き、さらに遠くの巨大な坂へと続いていた。
その頂上付近から、小さな車両がゆっくりと姿を現す。
次の瞬間。
「きゃあああああああああああああっ!!」
絶叫とともに、車両が猛烈な勢いで急降下していった。
「…………」
優二は顔を引きつらせた。
「……あの、お姉さん」
「なあに?」
「本当に、あれに乗るんですか?」
「当然よ! 受験には度胸も必要なの。これくらいで怖がっていたら、試験本番で力なんか出せないわよ!」
百合は自信たっぷりに言い放った。
「……は、はい」
優二は、もう一度巨大なジェットコースターを見上げた。
どう考えても、数学の試験より怖そうだった。
* * *
「安全バーが確実に下りていることをご確認ください。また、走行中のスマートフォン等のご使用はご遠慮ください」
機械的なアナウンスが流れた。
すでに二人は、ジェットコースターの座席に並んで座っていた。
優二は安全バーを握りしめ、前方をじっと見つめている。
「お、お姉さん……」
「な、なあに?」
「実は僕、こういうのが苦手で……」
「安心しなさい、優二くん。私もよ」
「ええ~~~っ!?」
「な、何よ! 苦手なものを克服するのが特訓でしょう!」
「で、でも……」
ガタン。
優二が何か言いかけたところで、車両が動き出した。
「……あっ」
「……うっ」
カタン、カタン、カタン……。
車両はゆっくりと坂を登り始めた。
カタン、カタン、カタン……。
どこまでも続く、単調な金属音。
優二は安全バーを固く握りしめていた。
足元の地面が、少しずつ遠ざかっていく。
「お、お姉さん……ずいぶん登りますね……」
「そ、そうね……」
カタン、カタン、カタン……。
車両は容赦なく高度を上げていく。
百合は目を固く閉じていた。
このまま何も見ず、何も考えずにいれば、いつか終わるはずだ。
だが、ゆっくりと登り続ける重圧に、とうとう耐えられなくなった。
おそるおそる目を開ける。
「ひっ……!」
そこには、陽光を浴びた広大な景色が広がっていた。
はるか遠くまで続く街並み。きらきらと輝く東京湾。そして、眼下に小さく見える遊園地の建物。
「な、なんか、東京湾がよく見えちゃってますよ……」
「ひ、人なんて豆粒くらいになってきたわね……」
カタン、カタン、カタン……。
「お、お姉さん……」
「な、なあに……」
「もうすぐ、頂上みたいです……」
「そ、そう……」
カタン。
突然、金属音が止んだ。
「…………」
「…………」
車両は頂上に達していた。
前方には、青空しか見えない。
そして、車両がゆっくりと前へ傾き始めた。
「ちょ、ちょっと……!」
ガクン!
「きゃあああああああああああああああっ!!!!」
「うわあああああああああああああああっ!!!!」
車両が一気に急降下を始めた。
身体が宙に浮く。
目の前の地面が、信じられない速度で迫ってくる。
百合は思わず優二の手を力いっぱい握りしめた。
ゴオオオオオオオッ!!
猛烈な風圧。
髪が乱れ、頬が引きつり、声を上げようにも息が続かない。
「ひゃあああああああああああっ!!」
「うわあああああああああああっ!!」
車両は谷底を猛烈な勢いで駆け抜け、そのまま次の坂を駆け上がった。
少しずつ速度が落ちていく。
「は、はあっ……はあっ……」
百合は荒い息をついた。
「や、やっと終わったわね……」
「お、お姉さん……」
「な、なあに……」
「まだ、終わってないみたいです……」
「……えっ?」
車両は再び高い場所へと登っていた。
ゆっくりと視界が開けていく。
眼下には、さきほどとは別の巨大な急降下が待ち構えていた。
「う、うそ……」
百合の顔から血の気が引いた。
「うそおおおおおおおおおおっ!!」
ガクン!
再び身体が宙に浮いた。
「もうやだああああああああああああっ!!」
「僕もですううううううううううううっ!!」
二人の絶叫は、最後まで途切れることがなかった。
* * *
「……な、なかなかすごかったわね……」
ジェットコースターを降りた百合は、ふらふらと近くのベンチに腰を下ろした。
自慢の丸眼鏡を直し、乱れた髪を整える。
優二も隣に座り込み、大きく息をついた。
「し、死ぬかと思いました……」
「そ、そうね……」
「……お姉さん」
「なあに?」
「本当に、あれにあと九回乗るんですか?」
「…………」
百合は、巨大なジェットコースターを見上げた。
ちょうど別の車両が、頂上から急降下を始めるところだった。
「きゃああああああああああっ!!」
遠くから悲鳴が聞こえてくる。
「…………」
百合はゆっくりと視線を戻した。
「……観覧車に乗るわよ」
「えっ?」
「観覧車よ! ほら、行くわよ!」
「あ、あの……観覧車も高いですけど……」
「ゆっくりだし、窓もあるでしょう! あれなら大丈夫よ!」
百合は立ち上がった。
優二は、その後ろ姿を見ながら思った。
どうやら、十回の特訓は一回で終わったらしい。
* * *
結局、その日は二人で遊園地を満喫した。
観覧車では、百合が思ったよりも高かったことに少し慌てたものの、ゆっくり動く密閉されたゴンドラにはすぐ慣れた。
東京湾を眺めながら、二人でのんびりと話をした。
メリーゴーランドにも乗った。
十八歳の優二は少し恥ずかしがっていたが、百合が楽しそうにしているので、結局一緒に乗ることになった。
昼食を食べ、園内を散歩し、最後にはお土産まで買った。
思い返してみれば、二人でこんなふうに遊びに出かけたのは、初めてだった。
いつもは勉強を教える側と教わる側。
ところが今日は、二人で同じものに驚き、同じものを怖がり、一緒になって大笑いした。
優二は、普段は頼りになる百合にも苦手なことがあるのだと知った。
一方の百合も、真面目な優二と一緒に遊ぶのが、思いのほか楽しいことに気づいた。
もっとも、二人とも、そんなことを深く考えていたわけではない。
ただ、楽しい一日だった。
* * *
「ふう、今日は楽しかったわね!」
夕方、家に帰ってきた百合は、満足そうに声を上げた。
「はい! ジェットコースター以外は……」
「なによ! あれだっていい経験になったでしょう?」
優二はあの急降下の瞬間を思い出していた。
百合がぎゅっと握ってくれた手。あんなに怖かったのに、その手のぬくもりだけは、今も不思議と愛おしく思い出された。
「受験には気分転換も必要よ。それに、少しは度胸もついたんじゃないかしら?」
「じゃあ、今日も基礎練よ!」
「は、はいっ!」




