第二話 お姉さんのご褒美
「数学と英語は相変わらずね……」
百合はそう言うと、模擬試験の結果を閉じた。
目の前では優二がうなだれている。
百合が勉強を見るようになってから、すでに何週間かが過ぎていた。
ほかの科目は順調に伸びているのに、英語と数学だけは、どうしても成績が上がらないのだ。
「数学も英語も、前回と同じところばかり間違えてるじゃない。どうしたの?」
「それが……」
「なあに?」
「苦手意識が強くて、どうしても頭に入らないんです。練習ではできることもあるんですけど……」
「ふうん……」
百合は、もう一度答案に目を通した。
理解力は決して低くない。教えたことはすぐに覚えるし、少しヒントを与えれば、難しい問題でも解ける。
しかし、苦手意識が先に立ち、自信を持って解答できないのだ。
百合は小さくため息をついた。
「……いいわ! 今日は数学も英語も集中特訓よ!」
「ええっ!?」
「何よ、その顔! 房総大学に行きたいんでしょう?」
「は、はい!」
「じゃあ、始めるわよ!」
百合は問題集を取り出した。
こうなったら、徹底的に苦手意識を取り除いてやろう。
数学の人気講師としての腕の見せどころだった。
* * *
「……はい、そこまで!」
数時間後、百合は問題集を閉じると、満足そうに声を上げた。
「ずいぶんよく頑張ったじゃない!」
「は、はい……」
「もっと苦手なのかと思ってたわ。この調子ならいけるわよ!」
優二は時々つまずいたものの、百合が少しヒントを与えるだけで、次々に問題を解いていった。
「これだけできるんだから、もっと自信を持ちなさい!」
「でも……」
「まだ何かあるの?」
「練習では悪くないんですけど、試験になると、どうしても……」
優二は自信のなさそうな表情を浮かべた。
百合はしばらく考えていたが、ふと思いついたように微笑んだ。
「……そうだ!」
「え?」
次の瞬間、百合は椅子に座っていた優二を、ふわりと抱きしめた。
「えっ!?」
突然、優二の頬が柔らかな感触に包まれた。
ふわりと漂う甘い香り。
優二は頭の中が真っ白になってしまった。
「お、お姉さん……ちょ、ちょっと……」
「ふふっ。どう? 少しは元気が出た?」
「え、ええっと……」
こんなに近くで女性に抱きしめられたことなど、今まで一度もなかった。
しかも、相手は百合である。
兄の妻だった頃から、きれいな人だとは思っていた。しかし、こんなことをされるとは夢にも思っていなかった。
「……はい、おしまい!」
「あっ……」
百合はあっさりと腕をほどいた。
優二が名残惜しそうに彼女を見上げる。
「ふふっ。続きは、次の模試の結果がよかったらね♡」
「ええっ!?」
「その代わり、ちゃんと頑張るのよ!」
「は、はい!」
百合は楽しそうに笑った。
真面目な優二を応援したい気持ちは本当だった。その一方で、あの男によく似た青年を手玉に取ると、ちょっと気分がいいのだ。
「じゃあ、今日はここまで。また明日ね!」
百合はそう言って勉強部屋を出た。
「……試験もうまくいくといいんだけどね」
* * *
それから一か月。
優二は苦手な英語と数学に、以前にも増して熱心に取り組むようになった。
百合も時間の許す限り勉強を見てやり、頑張ったときには、ちょっとしたご褒美も忘れなかった。
そして、次の模擬試験の結果が返ってきた。
「ただいま!」
予備校での仕事を終えて帰宅した百合は、リビングにいた優二に声をかけた。
「優二くん! 模試の結果はどうだった?」
「あ、お帰りなさい……」
「どうしたの? 悪かった?」
「い、いえ……これです」
優二は、おずおずと成績表を差し出した。
百合はさっそく目を通した。
「……あら?」
国語や社会は相変わらず好調だった。
そして、問題の英語と数学は――。
「すごいじゃない!」
前回まで伸び悩んでいた数学と英語の成績が、大きく上昇していた。
国立房総大学法学部の合格判定も、CからBへと上がっている。
「B判定よ! よく頑張ったわね!」
「は、はい……」
「ほら、言ったでしょう? あなたならできるって!」
百合はうれしそうに微笑んだ。
ところが、優二はなぜか冴えない表情のまま、顔を赤くしている。
「あら? どうしたの? うれしくないの?」
「い、いえ! うれしいです!」
「じゃあ、なあに?」
「その……全部、お姉さんのおかげです。本当にありがとうございました……それで……」
百合は、その様子を眺めていたが、やがて口元を緩めた。
「ああ、そういうことね!」
「えっ?」
「ふふっ。約束、覚えてたのね?」
優二の顔が、さらに赤くなった。
「い、いえ、そんな……」
「何よ、遠慮しなくていいのに。ちゃんと頑張ったんだから、ご褒美はあげるわよ!」
「ほ、本当ですか!?」
「もちろん!」
百合は楽しそうに笑った。
「でも、その前に……ちょっと手伝ってくれる?」
「はい?」
「後ろのホック、お願いできる?」
「ええっ!?」
優二は目を丸くした。
「ぼ、僕がですか?」
「ほかに誰がいるのよ?」
「で、でも……」
「ふふっ。もしかして、初めて?」
「……はい」
「そうなの? じゃあ、落ち着いてやりなさい」
百合は優二に背を向けた。
優二は緊張した面持ちで手を伸ばした。指先が思うように動かず、何度かやり直して、ようやくホックが外れた。
「ありがとね♡」
百合は何事もなかったように礼を言うと、胸の下着を外してから、服を整えて振り返った。
優二のほうは、まともに返事もできなかった。
「さあ、ご褒美よ!」
「えっ?」
「ふふっ。ほら、おいで」
百合は椅子に座ったままの優二を、優しく抱き寄せた。
あの日と同じ、ふわりと漂う甘い香り。
ブラウス越しに伝わってくる柔らかなぬくもりは、以前にも増して優しく感じられた。
先ほどの出来事を思い出した優二は、すっかり言葉を失ってしまった。
「お、お姉さん……」
「ふふっ。あと十秒よ♡」
「ええっ、もうですか!?」
「九、八、七……」
百合は楽しそうに数え始めた。
優二は、もう少しだけこのままでいたいと思いながら、ただじっとしていた。
「……三、二、一。はい、おしまい!」
「あっ……」
百合はするりと腕をほどいた。
優二は名残惜しそうに顔を上げた。
「あら、そんな顔しないの!」
「す、すみません……」
「次はA判定ね!」
「が、頑張ります! そ、そのときは……」
百合は優二の顔を見て、いたずらっぽく微笑んだ。
「ふふっ、わかっているわよ。でも、まずは特訓よ!」
「は、はいっ!」




