第一話 時々なら
「離婚したいですって?」
高階百合は、諦めたような口調でそう言うと、目の前に座る夫の顔を見つめた。
夫の土方歳一は三十歳。有名私立大学を卒業し、仕事もできるうえに、なかなかの男前だ。
二人が知り合ったのは、料理教室だった。
当時二十四歳だった百合に歳一が猛アタックし、交際を始めた。それから間もなく結婚したのだが、わずか一年でこの有様である。
最近知り合った二十四歳の受付嬢と親しくなり、ついには妊娠させてしまったというのだ。
「……本当に、どうしようもない人ね」
「すまない……」
歳一はうなだれた。
なんで、こんな顔だけの男なんかに惹かれたんだろう?
百合は自分に問いかけた。
仕事はできるし、女性の扱いも上手だった。優しく、気前もよく、結婚前は申し分のない男に思えた。
だが、結局はこのとおりだ。
そういえば、料理教室に通っていたのも、料理を覚えたかったからではなく、女性との出会いが目的だったらしい。
今から考えれば、最初からそういう男だったのだ。
それにしても、次のお相手は二十四歳の受付嬢か。
きっと今の自分と同じように、歳一の甘い言葉に夢中になっているのだろう。
なんだか、その受付嬢とやらまでかわいそうになってきた。
「それで、どうするつもりなの?」
「この家は君に譲る。名義も変更する。だから、慰謝料はそれで勘弁してもらえないだろうか……」
この家は、歳一が亡くなった両親から相続したものだった。街外れにある少し古い一戸建てだが、十分な広さがあり、住み心地も悪くない。
慰謝料としては、ずいぶん気前のいい話である。
もっとも、歳一は一刻も早く離婚を成立させ、新しい女との生活を始めたいのだろう。
「……いいわ。家をもらえるなら、それで手を打ってあげる」
「あ、ありがとう!」
「お礼を言われるようなことじゃないでしょう?」
「そ、そうだな……」
歳一は気まずそうに目を伏せた。
「それと……もう一つ、頼みがあるんだが……」
「まだ何かあるの?」
「優二のことなんだけど……」
「……ああ、優二くんね」
土方優二。歳一の十二歳年下の弟である。
現在十八歳。高校三年生で、大学受験を控えている。
両親が亡くなってからは兄の歳一と暮らしており、百合が結婚してからも、三人で同じ家に住んでいた。
歳一と顔立ちは似ているが、性格は正反対だった。
真面目で礼儀正しく、少々遠慮がちな青年である。
「大学に入って独り立ちするまでは、ここに住ませてやってくれないか?」
「……つまり、私に面倒を見ろと?」
百合は冷たく言い放った。
「頼むよ。こっちで一緒に暮らすわけにもいかないし……。生活費は多少なら出す。両親の遺産もまだあるから、なんとかなると思うんだ」
「ふうん……」
「大学に入ったら、寮にでも入ればいい。それまででいいんだ」
「…………」
百合は考え込んだ。
正直、優二のことは嫌いではない。
兄と同じくなかなかの男前だが、女慣れしておらず、何かにつけて自分に遠慮している。その様子が少しかわいらしくもあった。
何より、今回の離婚騒動について、優二には何の責任もない。
だからといって、離婚した夫の弟をいつまでも養う義理があるわけでもない。
まったく、最後まで面倒なことを押しつけてくれる男だ。
これ以上、歳一と話していると気が滅入ってくる。
「分かったわ! 大学に合格して入寮するまでの一年だけよ!」
「ほ、本当か!?」
「その代わり、約束は守ってちょうだいね。生活費もきちんと送ること!」
「ああ、もちろんだ! ありがとう! 恩に着るよ!」
歳一は何度も頭を下げた。
百合は大きくため息をついた。
こうして、わずか一年の結婚生活は幕を閉じた。
百合は旧姓の高階に戻り、歳一は新しい女のもとへ去っていった。
そして、家には百合と優二の二人が残された。
* * *
「というわけで、これからは二人暮らしってことになったんで、よろしくね」
百合がそう告げると、優二は申し訳なさそうに頭を下げた。
「う、うちの兄が、本当に申し訳ないことを……」
「いいのよ。あなたが謝ることじゃないわ」
「でも、お姉さんにそこまで迷惑をかけるなんて……」
「もう済んだことよ。それに、あなたには大学受験があるんでしょう? そっちに集中しなさい」
「……はい」
優二はまだ恐縮している。
百合は思わず苦笑した。
顔は似ているのに、どうしてこうも兄弟で性格が違うのだろう。
優二は何事にも真面目で、ずいぶんと素直な青年だった。
百合自身、そんな優二に悪い印象は持っていなかった。
もっとも、元夫の弟と二人暮らしというのも、なかなか妙な話ではある。
「それより、国立の房総大学の法学部を目指しているんだったわよね? 勉強のほうはどうなの?」
「それが……」
優二は少し困ったような顔をした。
「なあに? あんまりよくないの?」
「いえ、全然ダメってわけじゃないんですけど……合格できるかどうか、微妙なところで……」
「ふうん。成績表、見せてもらっていい?」
「えっ? はい、もちろんです!」
優二は自分の部屋へ行き、模擬試験の成績表を持ってきた。
百合はそれを受け取り、じっくりと目を通した。
高階百合、二十五歳。
国立房総大学工学部を卒業し、現在は予備校で数学を教えている。
まだ若手ながら、分かりやすい授業と親しみやすい人柄で、生徒からの人気も高い講師だった。
大学時代には海外留学の経験もあり、英語も得意としている。
百合は成績表を眺めながら、何度か小さくうなずいた。
「ふーん、数学と英語がネックね。他は素晴らしいわ」
「は、はい……」
「数学は、特にこの辺が弱いのね。英語も、もう少し頑張れば伸びそうだけど……」
百合はしばらく成績表を眺めていた。
優二は黙って、彼女の言葉を待っている。
「……わかったわ。時々なら、私が見てあげるわよ!」
「ええっ!?」
優二は驚いて顔を上げた。
「で、でも、有名講師のお姉さんに、そこまで甘えたんじゃ……」
「いいわよ、時々なら」




