5話
扉の前で、一度だけ呼吸を整える。
「ルーチェです」
「入りなさい」
母の声は、いつもと変わらず落ち着いていた。
扉を開けると、執務机の向こうで書類に目を落としていた母がゆっくりと顔を上げる。
「お呼びでしょうか、お母様」
淑女としての礼を崩さず、静かに一礼する。
母はしばらく私を見つめたあと、口を開いた。
「屋敷の様子が、少し変わっているようね」
その一言で、核心に触れてきた。
「北側の廊下、使われていない客間。それに、いくつかの場所が綺麗に整えられているそうよ」
静かな声音。
けれど、逃がさないという意思が滲んでいる。
「使用人に確認しても、誰も手をつけていないと」
母の目が細められる。
「貴女が?」
「はい」
否定はしない。
ただ、それ以上も語らない。
「どうやって?」
やはり、そこを聞く。
私は一拍だけ間を置いてから、口を開いた。
「魔法で、少し」
部屋の空気が、わずかに変わる。
「ルーチェ」
母の声が低くなる。
「魔法は便利なものだけではないわ」
「はい、理解しています」
即答する。
その即答に、母の目が僅かに細められる。
「では分かっているはずね。制御を誤れば、どうなるか」
「はい」
建物の損壊。
人への被害。
そして――
「……目立つことの危険性も」
私の言葉に、母はわずかに沈黙した。
「……そこまで分かっているのね」
「はい」
静かに頷く。
母は椅子にもたれ、小さく息を吐いた。
「この家に、余裕がないことは分かっているわね」
「はい」
「人手も足りない。修繕も追いつかない」
それは、もう見て分かる現実だ。
「ですが」
母の視線が、真っ直ぐこちらを射抜く。
「だからといって、貴女がそれを担う必要はないのよ」
その言葉は、優しさでもあり、牽制でもあった。
私は少しだけ目を伏せる。
「……でも」
小さく、言葉を落とす。
「このままでは、いずれ立ち行かなくなります」
母の目は真っ直ぐこちらを見ていた。
「私に出来ることがあるなら、やりたいのです」
顔を上げる。
今度は、逃げずに。
「無理に大きなことをするつもりはありません。人目につかない範囲で、少しずつ……負担を、減らしたいだけなんです」
静かに、そう告げた。
しばらくの沈黙。
時計の音だけが、部屋に響く。
やがて。
「……条件があるわ」
母が口を開いた。
「無茶はしないこと」
「はい」
「そして」
一瞬の間。
「私に隠し事をしないこと」
その言葉に、ほんの僅かだけ息が詰まる。
けれど。
「……分かりました」
わずかに肩の力を抜き、そう答えた。
母はしばらく私を見つめたあと、小さく頷いた。
「なら、許可しましょう」
その言葉に、胸の奥が軽くなる。
「ありがとうございます、お母様」
深く一礼する。
――これで、自由に動ける。
そう思った、その時。
「ルーチェ」
呼び止められる。
「はい?」
「最初に言うべきだったのに伝え忘れていたわね、ありがとう」
お母様が柔らかく微笑む。
その表情につられるように、私も自然と頬がゆるんだ。
「いえ、お役に立てたようで嬉しいです」
「でも貴女……いつから、そこまで魔法を扱えるようになったの?」
核心。
私は一瞬だけ目を伏せ――
ゆっくりと、微笑んだ。
「沢山練習しましたから」
私は部屋を後にした。




