12 失う
あの日の記憶は朧気だ。
ルカが気を失い、今の自分によく似た顔の男と戦ったこと、謎の老婆が助けてくれたことは何となく覚えているが、それだけだ。
乱蔵に尋ねても、『まあ、忘れたっつーことは、今のお前には要らねえもんなんじゃねえのか』と、どこか気遣った様子で多くは語らない。
彼はあの日以降だいぶ憔悴した様子で、フレアも深くは突っ込めなかった。
何か、大切なものを忘れているような気がする。
自分にとってとても大切だった何か。それを永遠に失ってしまったような、そんな気がした。
ある日市場をぶらついていると、激しい罵声が聞こえてきた。どこかで聞いたことがあると思って遠巻きに眺めていると、見慣れた真っ赤な髪が目に映った。
「貴族同士の喧嘩らしいぞ!」
「相手はあのイグニス公爵だって噂だ!」
「ばかッ、そんな高貴な御方が、こんなところで喧嘩なんてする訳ないだろ!そこらのごろつきじゃあるまいし」
まさか、と思って目を凝らす。そこにいたのは、確かにイグニス公爵だった。丁度フレアの視線の先で、高慢ちきなその顔が張り飛ばされたところだった。
殴った相手は、カイデンだ。見間違いかと何度も目を凝らしたが、間違いない。
カノン、シリウスたちが必死で止めている。
「大馬鹿者はお前だ!!お前は、あの子にとってただ一人の父親なんだぞ!!!」
どうやらフレアのことで揉めているらしい。何があったかはわからないが、大方イグニス公爵がいつものようにフレアを貶める発言をしたのだろう。
あの冷静沈着なカイデンが、フレアのために怒りを爆発させている。
フレアはむず痒いような、照れ臭いような気持ちで、そっとその場を離れた。
その手を、突然掴まれた。
「え?」
振り返ったフレアが見たのは、燃えるような灰色の目だった。
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フレアは、ルベルにこれまでのこと、わかっている範囲のことを洗いざらい白状した。
自分の手に負えない事態が次々と起こり、誰かに聞いてほしかった、というのもある。
全てを聞き終えた後、ルベルは額に手を当てて重いため息を漏らした。
「貴方は揉め事を引き込む天才なんですか」
「うん、まあ、そうみたい」
「それで今は乱蔵さんのところで?」
「そんな感じ」
「アクア家とはどうなってるんです。踊る約束なんてよく承諾しましたね」
「それもねえ…どうしよう」
「どうしようって」
「あの日からアクア家には行けてない。多分レオンのことだから血眼になって私を探してる」
「一度引き受けたことから逃げるのはどうかと思いますが、まあ踊っている場合ではなさそうですね。しかしあてもなくただ時間を潰している場合でもない。…ジーク様には、何も伝えていないんですか?」
「うん…」
「なぜ言わないのですか。貴方の婚約者でしょう。こんな時に一番頼らねばならない相手ですよ」
もっともらしいルベルの言葉に、フレアは肩を竦めた。
「相談したところで馬鹿にされるだけじゃん。私のこと嫌いなんだから、あいつ」
「そうは思えませんが。…嫌いな相手のところに何度もお茶を飲みに来ますか?貴方のことも捜しておいでのようでしたが」
「…………」
いまいち信じられなかった。フレアが死のうが生きようが、ちっとも気にならないみたいな顔をして。
あの彫像のように整った顔。それに濃紫色の髪に、同じ色の瞳…。
思い出した時、フレアは思わず「あ」と叫んだ。
よく似ている。あんな珍しい髪と目の色をしていて、どうして今まで気づかなかったのだろう。
親戚、兄弟、もしくは隠し子と言われたって驚きはしない。そっくりだった謎の子ども、カルマとシオン。
ジークは、そのどちらとも良く似た顔立ちをしているではないか。
二人は大神殿に向かった。ルベルが「婚約者の従者」であり今どうしても伝えなければならないことがあると言葉巧みに説明してくれたおかげで、待合室へ案内された。
しばらくして、廊下の方から男女の痴話喧嘩のような声が聞こえてきた。
サクラと、ジークだ。
「貴方ならばできるはずです!お願いです、兄を助けてください!」
「僕にどうしろって言うんだ?治癒の力は僕にはない!」
「わかっています。それは兄が持っているものだから」
「何…?」
「貴方だって、必要なはずです。兄から全て聞いています。兄は千年前、13番目の聖騎士の能力を引き継いだと。それが治癒。貴方がずっと探している能力です。違いますか?」
姿が見えなくても殺気立った気配というのが伝わってきて、フレアは身震いした。
何のことを話しているかはさっぱりわからないが、ルベルと共に、恐る恐る廊下を覗いた。ジークはサクラの肩越しにフレアを見つけ、その目を一層険しく歪めた。
「ルーク…!」
咄嗟に口走った名前は、ジークが知るはずのないものだ。
「…シオン?」
試しにあの夜出会った子どもの名をかけてみると、ジークはあからさまに動揺していた。
シオンからルークの話を聞いたのか、それとも――――
「あんたが、シオンなのか?」
確信を込めて、フレアは尋ねた。大人のジークと、子どものシオンが同一人物。二人は背丈も年齢もまるで違う。
まずあり得ない話だが、なぜか違和感はなかった。
そうなることが当然のような、そうなることも自然な流れというのか。現実味はない。ふわふわしている。夢の世界を、どこか遠くから見下ろしているかのようだ。
まるで小説の結末を知る読者のように。
何も話さないジークに、フレアは重ねて尋ねた。
「子どもの皮を被った化け物に出くわしたんだ。カルマという名の」
その名を聞いた途端、ジークは血相を変えてルークの手を掴み、書斎へと無言で引っ張った。
エイトとルベルは見張りに外に立たせ、サクラは「千年前を知る当事者」だと、部屋の中へ入ることを許された。
ルークは何があったか、ここでも洗いざらい白状した。自分がフレアであることだけは伏せて。
黙って聞いていたジークは、やがて大きなため息と共に椅子に座り込んだ。
「…まさかあいつが、復活してこの街に来ているだなんてな。結界を破られたのか。いや、結界が感知できない程カルマ自身が弱体化していたのかもしれない。本来の力を持っているなら、僕でさえ敵わない。国の一つや二つ、いや三つは軽く壊滅させてもおかしくない相手だぞ。この程度の被害で済むなんてあり得ない」
「あの化け物は一体何なんだ?」
「神だ。文字通りの。……そして、僕の双子の片割れだ」
大神官、ジーク・アスター・ルークス。
もう一つの名は、シオン。この国を創造した唯一神。
ジークはカルマと同じく、人ではないと言う。国が出来て千年、この国の守り神として、大神殿で祀られてきた現人神。
信じろという方が無理な話なのに、フレアはすんなりとその事実を受け入れた。
意外なことに、さほど驚きはなかった。なぜかその秘密を、自分は以前より知っていたような気がした。
ジークは語り始めた。
遠い昔、全てが始まった時のことを。
生まれたのがいつだったかはわからない。千年より昔であったことは確かだ。
そこは文字通り、神話の世界だった。
シオンの父は太陽神、母は月の女神。
他に11人の兄弟神たちがいた。シオンは星の神、カルマは闇の神として、同時に生を受けた。
可愛い末弟たち。けれど可愛がられたのは、シオンだけだった。
闇は全てを飲み込む。死を司るカルマは、穢らわしい存在と映ったらしい。
唯一彼に愛情を示したのは、母親である月の女神だけだった。
その愛情を独占するために、嫉妬深いカルマは父親と兄弟たちを次々殺した。
子どもたちを庇った母親も結局殺され、シオンだけが残された。殺された家族は、死の間際に自分たちの力をシオンに託した。カルマはその力を欲しがったのだ。特に月の女神の、治癒の力を。
けれどどうしても奪うことができず、かと言って殺してしまえば、その力は永遠に失われる危険があった。
カルマは、シオンを深い深い谷底に封印した。
それからどれだけ経ったかわからない。途方もない長い年月、シオンは幼い姿のまま、谷底で眠っていた。
眠りは、突然の来訪者によって破られた。
『おい、なんでこんなとこで寝てんだ、ガキ』
幼いシオンの首根っこをつかまえて揺らしたのは、金の髪の少年だった。
名は、ルーク。
眠りから覚めて辺りを見渡したシオンは、ぎょっとした。
辺りは血の海だった。シオンの封印はカルマ直属の神官によって厳重に監視されていたのだが、その神官たちが殺され、祭壇も壊され、辺りは惨憺たるものだった。
ルークもまた、酷い状態だった。自身のものか神官のものか、はたまたその両方か、体中血だらけで、破れかぶれのズボン以外何も着ておらず、胸に大きな縫い跡がある。
殺されるのだろうかと、シオンは身構えた。目の前の男は、カルマとはまた違った恐ろしさを感じさせた。ルークは笑った。
『ここで会ったもなんとやらだ。来るなら来いよ。ムカつく奴らぶっ殺して、俺は今気分がいいんだ。ガキの一匹どうなろうと知ったこっちゃねえが、死にたくねえならついてこい。もうすぐ奴がくるぞ』
奴、というのがカルマのことを指すと、シオンは直感で悟った。
また封印されるか、今度こそ殺されるのか。脳裏に過ったのは、家族を惨殺された時の記憶だった。
さっさと歩き始めたルークに、シオンはしがみつくようにしてついていった。
シオンという名は神の名であることは知れ渡っていた。カルマに見つからないようにと、シオンはその日から、ジークという名を使うようになった。
長い旅が始まった。
ルークは、カルマが創った国、シノノメ王国の元奴隷だと言う。胸の傷は、カルマの手下にやられた。
生きたまま、心臓を切り刻まれたらしい。他にも大勢奴隷の子がいたが、皆死んでしまった。
『絶対死んだと思ったけどな、俺も。案外こうして生きてやがる。おまけに昔の記憶まで思い出して…いや、こりゃどうでもいいな。あんなクソみたいな記憶、なんで思い出しちまったんだか。戯れ言だ忘れろ』
昔の記憶というのが何のことか、ルークはついぞ話さなかった。
口調は荒っぽく、子どもの頃から酒と煙草とギャンブルばかり。切り刻まれた時に良心が胸から落ちていったと笑い、盗みも詐欺も躊躇しなかった。
ある日、砂漠で行きずりの貿易商の荷物を漁っていたルークは、真っ黒な眼鏡を見つけた。ふざけてそれをかけたルークを見て、シオンは初めて彼の前で腹を抱えて笑った。
以来、彼は時々眼鏡をかけるようになった。
最初の内はシオンを笑わせる目的でかけていたようだが、そのうち持って歩くのが面倒になったのか、習慣的に眼鏡をかけるようになった。黒い眼鏡が壊れた後は、どこからか盗んで来た眼鏡をかけていた。
うっすらとオレンジに色づいた眼鏡だった。




