第4章 火曜 10:00〜11:10(不協和音と不穏な視線)
一夜明け、運命の火曜日。朝10時。
開店のチャイムが鳴り響き、自動ドアがゆっくりと開く。
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三階のサブカルコーナーから吹き抜けの手すり越しに一階を見下ろすと、朝から異様な空気感が漂っていた。
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「あらぁ〜、佐々木さん! おはよ〜ございます! 今朝もお早いのねぇ」
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カウンター前で、一階担当のベテランスタッフ・木本蓮美さんが、甲高い声を弾ませていた。 相手は開店と同時にやってきた常連の男性客・佐々木さんだ。 佐々木さんは、この道楽書店の社長の学生時代からの友人らしく、たまにやってきては長時間入り浸っている。
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佐々木さんと話をしている時の木本さんは、どこか艶っぽい。首元からは普段つけない甘い香水の匂いを漂わせ、いつもより胸元が少し覗くカットソーを着ている。
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「やあ、木本さん。おはよう。いやあ、この前借りた韓ドラのDVD、一気に観ちゃってさ。面白かったよ」
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「でしょ〜!? 『愛と愛憎の復讐』、最高でしょ!? あの第8話のさ、主人公が雨の中で男に無理やり抱き寄せられて『お前を誰にも渡さない』って言われるシーン! もう私、観ながらキュンキュンしちゃって〜!」
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木本さんは自分の両頬に手を当て、ウットリと体をくねらせて見せた。
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佐々木さんは照れくさそうに頭を掻きながら、木本さんとの距離をぐっと詰める。
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「ははは、木本さんがあまりに熱心に薦めるからさ。でも、ああいう激しい愛憎劇って、男側も結構命がけっていうかさ……ちょっとドキドキするよね」
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「もう、佐々木さんったらぁ! 韓ドラの男主人公みたいなこと言って〜! そんな強引なこと言われたら、私困っちゃうわ〜」
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二人の間に流れる、どこか生々しく湿り気を帯びた空気。それを一階の新書棚の陰で見ていた新田仁太は、露骨に嫌そうな顔をして舌打ちした。
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「チッ……朝っぱらからババアとオッサンがイチャついてんじゃねーよ、キモいな……。おい木本さん、二階のコミック本の返品処理、指示出してくれるんじゃなかったの?」
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「あら新田くん、何言ってるの? 今、佐々木さんと大事なお勧め本のお話をしてる最中じゃない。空気読みなさいよ。急ぎの作業じゃないんだから、二階で遥ちゃんの手伝いでもしててちょうだい」
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「はぁ!? 俺、二階の近藤先輩に『一階で指示聞いてこい』って言われて降りてきたんスけど!?」
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「いいからいいから! ほら、行った行った!」
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木本さんはしっしっと手を払い、すぐさま佐々木さんとの甘い会話へと戻っていった。仕事の放棄、教育係としての責任の押し付け。新田は怒りで顔を真っ赤にし、「くそっ……どいつもこいつも俺をパシリ扱いしやがって……」と激しい怨念を募らせながら、再び二階へと引き返していった。
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__その様子を、三階から冷ややかに見下ろしていた僕__山田。
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(……やれやれ、木本さんも相変わらず身勝手だな。自由すぎるだろ……)
僕は自分の胸の中で、静かに不敵な笑みを浮かべた。
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(新田が一階から追い出されて二階へ上がっていけば、あいつはまた遥ちゃんに不躾なセクハラをするに決まっている。そして、嫌がる遥ちゃんが困り果てたその瞬間__三階から僕が颯爽と駆け下りて、新田を厳しく注意して追い払ってあげよう。昨夜、彼女の生足を思い出して自分を慰めてしまった罪深さ……その罪滅ぼしとしても、僕は今日、絶対に彼女のヒーローになって見せる)
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昨夜の自慰行為に対する猛烈な罪悪感。それを「彼女を守るための情熱」へと都合よくすげ替え、僕は胸のポケットにある予備のボールペンを強く握りしめた。
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その時、二階のバックルームの扉が開き、長山店長(35歳)がオロオロとした足取りで出てきた。手に持ったスマホを握りしめ、落ち着きなく髪を掻きむしっている。保身の塊である店長は、今朝から頭を抱えていた。
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プルルル、プルルル……。
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店内の一角に、虚しいコール音が響く。
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「あれ……? おかしいな……笠原のやつ、なんで電話に出ないんだ……?」
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店長は二階のカウンターにいた近藤七海さんに駆け寄り、おずおずと尋ねた。
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「七海…いや近藤さん、笠原から何か連絡入ってる……? 昨日、最後に山田と一緒に閉店作業して帰ったよね……?」
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「いいえ、店長。笠原くんは今日シフト休みですし、私のところには何も」
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「そんな……今日休みとはいえ、昨日のレジ金の精算データで少し確認したいことがあって電話してるのに、全然出ないんだよ__! もし昨日の夜、帰り道に事故にでも遭ってたらどうしよう……。警察沙汰にでもなったら、本部に俺の安全管理や指導不足を突かれちゃうよ……っ!」
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「店長、落ち着いてください。単に休日で爆睡してるだけかもしれませんし、もう少し時間を置いてかけ直せばいいでしょう。それより、売り場のフォローをお願いします」
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「そ、そうだね! 七海が、いや近藤さんがそう言うなら後でもう一度かけてみよう……!」
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店長は震える指でスマホをポケットに仕舞い込み、オロオロと売り場を往復し始めた。三歩進んでは二歩下がり、爪を噛みながらオドオドと周りを見渡している。
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七海さんは冷めた目で店長をあしらうと、隣で品出しをしている遥ちゃんに向かって、ごく自然な調子で声をかけた。
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「遥、午前中の二階の棚の整理と一階の品出し、無理しないで途中で交代しなさいね」
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「はい、ありがとうございます! 七海先輩」
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遥ちゃんは小さく微笑み、自分の穿いているチノパンの裾を少しだけ直してみせた。そのやり取りは、一見すると親しい先輩と後輩の何気ない会話にしか見えなかった。
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時刻は11時を回っていた。 一階のカウンター前では、佐々木さんと木本さんが相変わらず『愛と愛憎の復讐』の第8話について熱弁を振るい続けていた。
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(……それにしても、佐々木さんもよく話が持つな。開店の10時からもう一時間以上、ずっと木本さんと喋ってるじゃないか。社長の友人だからって、どんだけ暇なんだよ……)
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三階から見下ろしながら、僕は半ば呆れ、半ば感心したように溜息をついた。
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――11時10分頃。その時だった。
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ガラガラと音を立てて自動ドアが開き、派手なブランド服を纏った金髪のホスト風の男と、胸元を大きく開けたキャバ嬢風の女が入ってきた。
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「うわぁ〜! この店マジでシャレてね? ジュンナ、古本屋とか超ウケるんだけど〜!」
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「ほんとだぁ〜! なんかレトロでかわいー!」
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静寂が心地よい店内に、二人のけたたましい大声と、頭が痛くなるほどキツい香水の匂いが立ち込め、一瞬で空気が汚された。
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(……なんだあいつらは。サブカル本を探しに来るような客じゃないな。一階で品出し中の遥ちゃんに変に絡まなければいいが……)
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僕は眉をひそめ、不快感を露わにしながら、二人の派手なカップルから冷ややかに視線を逸らした。まだお昼にもなっていないこの時間帯…。
後にこの古本屋を揺るがす奇妙な出来事勃発まで後20分__。
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一階で色気を振りまく木本さんと佐々木さん。
追い出されて一階で遥ちゃんへの執着を燃やす新田。
笠原の不通にオロオロと怯える長山店長。
そして、彼女を守るヒーロー気取りで三階から獲物を狙う僕、山田。
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全員の身勝手なエゴと勘違いが、破滅の火曜日を静かに転がし始めていた_
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第5章へ続く




