9話 藤原 未緒
藤原未緒は裕福な家庭で育った。京都の一等地にて父方の家系から継いだ料亭を営み、マンションの管理もしている。
兄と八歳離れている未緒は溺愛された。両親、近居の父方の祖父母。遠方に住む母方の祖父母にも、父方ほどではないが可愛がられた。それは過剰な甘やかしだと数年かけて気づく。
なんでもかんでも親が先回りしてやるせいで、自分でできることが少なかった。指先を使った遊びからテーブルマナーまで、普通の子供が普通にこなせることが未緒には難しい。とりわけ母親は「未緒はかわいいから、特別だからできなくてもいい」と言う。周りの大人たちは思うところがあっただろう。両親は幼稚園教諭からやんわり注意され、他の保護者からは距離を置かれた。保護者を通して園児も未緒によそよそしくなる。未緒の居場所は無際限に自分を肯定する家の中だけになり、ますます状況を悪化させた。
父親が一人息子で、密に関わる父方の親戚に子供がいなかった点も要因として挙げられる。未緒と接触の機会があった料亭の従業員も、気にはしつつ強くは言えないようだった。年長さんと呼ばれる年頃になると、未緒は底知れない違和感を抱き始めた。
ところで、父方の祖父母宅では犬を飼っていた。イングリッシュゴールデンレトリバーのメス。ふわふわの白い毛並みからシルクと名付けられた。これが未緒に懐かない。おとなしい犬種で噛んだり吠えたりはしないが、そっぽを向くなどつれない態度だった。犬は人間に序列をつけ、格上と認めた者に従う。……と小学校一年生で知った。シルクは未緒を同格か下に置いたのだろう。外から見た自分の位置づけが「ペット」なのは、めまいがするほどぴったりで。
未緒はまさに愛玩対象だった。可愛がられるだけの存在。兄はしっかり教育された。「お兄ちゃんなんだから」、「男の子なんだから」とよく叱られていたが、かしこまった場で「自慢の」と紹介されるのはいつだって兄。未緒は隅に追いやられて「かわいい」と撫でられるだけ。藤原家の特等席は、未緒が生まれる何年も前に埋まっていた。
未緒はこれまでの遅れを取り戻すべくもがいた。勉強や運動、他にも日常生活に必要なスキルが、せめて平均レベルには達するように。すぐ世話を焼こうとする両親をなかなか振り切れず、小学生のうちは壁にぶつかった。子供社会も実力主義だ。能力が劣る子、協調性のない子はそれなりの扱いしか受けられない。分相応の評価だというのに、親が出張ってきて「うちの子は特別」なんて言おうものなら揉める。周囲も学び、「触らぬ神に祟りなし」とばかりに避けた。表面上仲良くしている子もいたが、陰口を叩かれていた。
シルクとも良好な関係は築けなかった。餌の時間に目が合えば警戒するように睨まれる。空気を読んでいるのか人目がある場では触らせてくれたが、不服そうな態度は隠せていない。わかり合えないまま、未緒が小学校三年生の頃に死んだ。享年七歳、平均寿命より短い生涯だった。
それから三年間で祖父母も立て続けに他界。中学校に上がる春には、相続した祖父母宅で暮らすことに。所有マンションの一室から平屋に引っ越した。物理的な変化により、小学校の人間関係をリセットして中学生活を始める。
保護者の出番が減ったこと、諸々の能力がようやく平均にまで届いたことにより、小学校時代よりは明るい日々を過ごす。優しい友人に恵まれ、男友達に告白されて彼氏もできた。しかし、いつもどこか鬱屈した思いがあったのだ。悪気なく「ちょっと変わっているよね」と言われたときや、世間知らずな面が露呈したときに強く感じた。それは一つの欲望に育っていく。「違う人生が欲しい」と。ネットで検索すると垢抜ける方法ばかり出てくる。未緒が求めるのはそうじゃない。もっと根本からの改革だ。変身ではなく、ゼロから新しい人生を手にしたい。暇さえあればスマホで調べて回った。
やがて声優という職業を知る。声変わり前の兄に似ていると言われたこともあって、自分の声だけは嫌いじゃない。声で表現できたら閉塞感から逃れられると考えた。男の子の人生だって手に入る。
そこからアニメや声優を好きになり、両親にも目指したいと告げた。応援すると言われたものの、本気でなれるとは思われていないようだ。夜中に聞き耳をたてると、案の定「挑戦させるだけさせてみればいい」、「上手くいかなくても戻ってくればいい」という会話が聞こえる。それはそうだ。ペットに成果は期待しないだろう。言葉通り協力はしてくれたが。
中学三年生の秋。東京にある声優事務所直属の養成所に合格した。今から都内の志望校を探しても間に合う。問題は未緒の独立だ。受かると信じられていなかっただけに、話がまとまらず。両親もついて行くと言い出した。無論、家業は放っておけない。母親だけでも……という流れを未緒は断ち切った。
幼少からの過干渉と甘やかしにうんざりしている。ペット扱いしないでほしい。もう自分の足で歩けるのに。胸の内に抱えていた思いをさらした。
両親は多少の時間をかけ、最終的には未緒の意見を聞き入れた。説得に一役買ったのが兄である。当時の彼は一人暮らしだった。いずれ家を継ぐためにも他店で板前修業していて、顔を合わせる機会もあまりなかったほど。寡黙な性格で、家にいる頃も濃い交流はしてこなかったが、両親よりもちゃんと未緒を見ていた。「娘が大人になろうとしているのに、親が邪魔してどうする」と叱ってくれた顔を、未緒は今でも覚えている。
ところが問題は家の外にもあった。声優の夢は家族にしか伝えていない。受かってから打ち明ければいいと考えていたからだ。万が一、「受かるわけがない」と否定される可能性もよぎり二の足を踏んだ。
周りは驚きながらも祝福してくれたが、彼氏は酷く腹を立てた。当然の怒りである。遠距離恋愛になる可能性を隠していたのだから。志望校を決めていなかったとはいえ、(養成所に受からなかったときのための)候補は共有していた。蓋を開けてみれば、そのどこでもなく東京の高校に行くというのだ。この件をきっかけに彼の不満が爆発した。
前から本当に好かれているのか不安だった。未緒から誘ってくれたデートはなく、接し方も他の友人と大差なく見える。未緒が何を考えているのかわからない。付き合っているのに片想いしているみたいだった。もう耐えられない。別れよう。そういったことをまくし立てるように言われた。未緒も未緒なりに好きでいたが、反論はできない。夢を否定される恐れと、叶えられなかった場合の見栄を優先した。それを愛していなかったと言うのなら、その通りだ。以後、学校で会っても口をきかなかった。
卒業式で「声優になんてなれるわけがない」と捨て台詞を吐かれ、「なるよ」とだけ返した。
四月。セキュリティ対策のされたマンションを借りて、東京での新しい暮らしが始まる。初めは頻繁に母親が訪れた。家事をやりにくるたびに「前にも言ったように自立したいから」と追い返す。繰り返すうちに料理が下ごしらえのみになり、ついに手書きのレシピを置いて行くだけになった。それを元に料理の腕を上げていく。包丁で怪我をしたり鍋を焦がしたりもした。他にも、手洗いすべき洋服を洗濯機に入れて伸ばしてしまう、排水溝を詰まらせる、など失敗を重ねて学ぶ。経済的にはまだ親の庇護下にありつつも精神的に成長した。一人で頑張る様子を見て、両親は真の意味で未緒の主張を理解したらしい。物理的な距離は双方にいい影響をもたらした。
養成所で一つ上のクラスにいた沙耶とは、上京してきた高校生同士として親しくなる。
高校の人間関係は希薄だった。忙しい子だからと干渉されずに一目置かれて。高校生でいる時間の方が長いのに、生活の中心には養成所があった。
演技は未緒が欲しかったものをくれる。自分では得られなかった人生に、経験に、役を通して触れる。どんどん上手くなって、事務所の所属試験にもすんなり通った。学校とは比べ物にならない競争社会を勝ち抜けたのは、それだけ役という「他人の人生」への執着が強かったから。
デビュー前に三好と芸名会議をした。
「本名と同じ読みですか」
「もちろん違ってもいい。案があるなら聞くよ。なんだったら、事務所が出したものから選んでも」
「案はありません。どれもしっくりきませんでした。かといってお任せするのも……」
「なら同じでいいんじゃないか。『みお』は綺麗な響きだから」
未緒は「未」の字はどうしても変えたかった。未熟の未、未完成の未。他人の名に使われていても気にならないが、自分事だと「できなくてもいい」を思い出してしまう。京都には藤原姓が多いため、黒板に「藤原(未)」と書かれるのも嫌いだった。
「澪標の澪はどうでしょう?」
漢字の組み合わせを考えるうちに思いつく。澪標とは航路を示す標識だ。
「いいな。澪標。目印となるような、現場に欠かせない声優になれるように……」
「なります。そんな声優に」
「じゃあ決まりだな」
未緒と同じ読みでも魅力的に思えてくる。養成所から積み上げてきた努力に名前がついた。
苗字は熟考の末、地元の地名から取った。地元が好きでもないのにそうした理由はわからない。なんとなく捨てがたくて。目標を込めた「澪」と合わせれば、それでも愛せる苗字となった。
かくして高倉澪は誕生した。様々な役を勝ち取り、演じるごとに心が満たされた。役から力をもらうからこそ、人前に出る仕事も苦ではない。そこにいるのは藤原未緒ではなく高倉澪だ。何も怖いものはなかった。
藤原未緒は澪の中にあり、けれど日常生活では誰にも見せたくない、見せる機会もない存在になった。
――帰省でもしない限りは。
未緒は新幹線の中で目を覚ました。朝早く出発したせいで眠い。久々に実家へ帰る。年末年始はアニメの先行上映会の仕事があり忙しかった。家業の繁忙期を避ける意味でも帰省時期はずらす。もっとも向こうは「繁忙期だろうが構わない。むしろ家族、従業員、常連客も総出で歓迎する」と張り切るだろうが。そうやって仰々しくされるのが嫌で、なんでもない日にさっと済ませようという作戦だ。
京都駅には両親が迎えにきていた。車の後部座席に乗り込む。
「おかえり」
「おかえりなさい」
「ただいま」
運転席に父、助手席には母。今日は定休日だから二人揃って出迎えてくれた。
「朝ご飯は?」
「駅弁食べた」
母は他にもあれこれ尋ねてくる。相変わらずお節介ではあるが、昔と比べて適切な距離感にはなった。
「そういえば、『超常現象依頼記録書』の予告見たぞ。良かった」
父が車を走らせながら語る。母も声を弾ませた。
「原作も買ったのよね。今から放送が楽しみ」
「ありがとう。原作は何巻まで買ったの?」
「十巻までよ」
「最新刊じゃん」
父も母もアニメや漫画とは無縁だったけれど、今ではファンと同じくらいに詳しい。高倉澪を盲目的に褒めることはせず、多少ひいき目でもちゃんとした意見をくれる。一人暮らしをして経済的にも自立して、ようやく一人の人間として認めてもらえた気がする。
両親との関係は健全化したとはいえ、地元にいい思い出は少ない。
(早く高倉澪に戻りたいな……)
車窓から整然とした街並みを眺める。明日は数少ない友人に会う予定もあり、楽しみがないわけではないが、どうにも気だるい。
「兄さんと百合さんは家?」
「店で試作中。お昼までには帰ってくるって」
質問には母が答えた。
「相変わらず仕事熱心だね」
「百合さん」とは兄の妻。二年前に嫁入りして実家で同居している。彼女は兄と一緒に働く板前でもあるのだ。店舗と実家はほどほど近く、休みの日は新メニュー開発に勤しむことも。
実家に着いても特段することがない。持ってきた原作本を読んだり役と話したりと、いったん高倉澪に戻る。そのうち兄夫婦が帰ってきた。
「未緒。おかえり」
「ただいま」
「元気だったか?」
「うん。兄さんたちもどう?」
「ん。ぼちぼち」
「おかげさまで順調よ」
ぶっきらぼうな兄を百合がフォローする。
「それは良かった」
兄とはあまり話さないだけで仲が悪いわけではない。幼い頃は劣等感に悩まされたが、まあ過去の話だ。彼の長男として、跡取りとしての苦労がわからないほど子供じゃない。高倉澪として別の特別を手に入れたのだから、今更気にすることでもなかった。
「そういえば、先週放送のラジオ聴いた。アイドル好きなんだな」
出演作の感想よりも真っ先に出てくるあたり、よほど印象に残ったらしい。意外だと顔に書いてある。
「うん。大好き」
家族なのに、直接話す機会があるのにメディア経由で趣味を知られる。この状況は変ではあるけれど、知られたくなかったとは思わない。
「ねえ未緒さん。お昼ご飯の前に一服どう?」
「久しぶりにいただこうかな」
百合の言う「一服」とはお茶を指す。この家には祖父母の趣味で茶室があるのだ。お点前の腕前に自信がない未緒でも、客側の振る舞いなら慣れていた。京都人として恥ずかしくない程度には。
未緒は居間から一度自室へと戻り、髪を一つにまとめる。二人だけの軽いお茶だから着物に着替えはしない。
兄から百合を紹介されたのは未緒が高校生、まだ養成所生だった頃だ。ふんわりした雰囲気とは対照的に鋭いところがあり、よく気づくしよく見抜く。未緒の育った環境や兄との関係も、具体的に説明はしていないのに察してくれるほど。その性格に加え、外から藤原家に入ってきた立ち位置から、兄や両親に言えないことも百合になら打ち明けられた。
シンプルで落ち着きがある四畳半の茶室。壁に「一期一会」と書かれた掛け軸が、棚の上には季節の花が飾られている。今日は梅の花だった。
百合は炉釜の前で準備をする。袱紗という布で茶道具を清め、茶碗の湯通しまで終えたところで未緒に茶菓子を勧めた。
雪の結晶型の落雁がほろりと口の中で溶ける。じっくり味わう未緒の向かいで、百合はお茶を点て始めた。茶筅を動かす細やかな音、ほのかな香りが場を満たしていく。
やがて茶碗が差し出された。
「お点前頂戴いたします」
未緒はお辞儀して受け取る。左手で茶碗の底を支え右手は添えて。二度回してから口をつけた。まろやかな味には実家らしい安らぎを感じる。帰りたくなかったわりに、どうしてか少しほっとしてしまう。普段紅茶ばかり飲んでいるのはお茶をたしなむ家だから。実家とは逆のことをしてみたかった。それなのに落ち着くなんて不思議だ。
三口ほどで飲みきり、茶碗の淵を指で拭ってから反時計回りに回した。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
百合はやわらかく微笑む。
「未緒さん。今、好きな人がいるでしょう」
「なんで……」
「わかるよ。前よりも所作が洗練されてる。恋をして綺麗になったんじゃないかなって」
未緒は空になった茶碗に視線を落とす。状況を考えれば手放しで喜べない。
(全然綺麗じゃない。わたしは柴田さんを傷つけた)
「わたし、好きな人からアプローチされているんだ」
「あら」
「なのにね、彼に酷いことしてしまった。……期待させる距離感で接しておいて、壁を作って逃げた。いつもそう。当たり前みたいな顔してそばにいながら、彼が本当に欲しいものはあげなかった」
「どうして?」
「……彼の才能が羨ましくて。手に入らないものがあればいいのにって……」
なんて浅ましくて情けないのだろうという思いが声を震わせる。
「未緒さんはどうしたいの? 恋心よりプライドが大事?」
智紀の恋を叶えないこと。それは自分の恋が叶わないのと同じ。逃げている限り付き合えない。恋人として触れ合える日は来ない。ジレンマはまだある。智紀をやっかんで傷つける同期が許せないのに、彼らと同じことをした。それで得られるものはせいぜいちっぽけな優越感。むなしくなるだけだと本当は知っている。
「本当は……自分の気持ちに正直になりたいよ」
「なら意地を張っていてはダメだよ」
「でも、必死に追いかけるほどの人間じゃなかったとバレるのだって怖い。藤原未緒にそんな価値ないもん……」
「価値がないなんて言わないで。大丈夫。十分に魅力的だよ。未緒さんは大事な妹。公私ともに幸せになってほしい」
優しく諭されて未緒の目頭は熱くなる。涙があふれてきて止まらない。百合はそっと未緒に寄り添い、泣き止むまでそうしていた。お茶の席でみっともなく泣くなどマナー違反だが、今だけは。
「落ち着いた?」
「ありがとう」
未緒はしゃんと姿勢を正した。「おかわりはどう?」とお茶を点て直す百合を見つめる。
「百合さんは、兄さんと一緒になって幸せ?」
「もちろん」
「二人はすごいね。お互いにいいところも悪いところもさらして、受け入れ合っているんだから」
夫婦やカップルを見るたび、恋愛ものを演じるたびに感じる。自分には到底できないことを成し遂げる役たちが誇らしかった。
「未緒さんにもできる」
「……」
「難しく考えなくてもいいの。ちょっと素直になったり、未緒さんから彼に何かしてあげたり。小さな積み重ねが素敵な未来に繋がるよ」
「……うん。できることから頑張ってみようかな」
再び立ち上るお茶の香りに身をゆだねる。できるかどうかはまだわからない。打ち明ける前よりは心が軽くなった。




