第10話 蜀の滅亡、劉禅の笑顔、そして呉も沈む
今回は蜀漢の滅亡から、姜維の最後の賭け、劉禅のその後、呉の末路までです。
英雄たちが命を削って守った国も、終わる時はあっけない。
歴史は情緒に配慮しません。まったく不親切です。
第五章 ~ 蜀漢の滅亡 ~ あっけない終わり方 ~
西暦263年。
魏は三路から蜀に侵攻した。総兵力十八万。
蜀の守備兵力は約五万。国力差は歴然。
だが地形は蜀に味方するはずだった。四川盆地は周囲を険しい山に囲まれ、「蜀の桟道」を守れば大軍も入れない。
実際、姜維は剣閣という天険の要害に立て籠もり、魏の主力軍を完全に足止めしていた。
正面突破は不可能。
だがここで一人の男が歴史を変えた。
鄧艾。魏の将軍。
鄧艾は正面の剣閣を迂回し、陰平という誰も通れないと思われていた険路を選んだ。
断崖絶壁。獣道すらない。
鄧艾は兵士たちと共に毛布で体を包み、崖を転がり落ちた。
転がり落ちた。
正規の進軍方法ではない。ロッククライミングの逆バージョン。死者続出。だが一部の兵が生き延びて蜀の背後に出現した。
蜀側は完全に虚を突かれた。
最後の抵抗を試みたのは諸葛亮の息子・諸葛瞻と孫・諸葛尚。
二人とも奮戦の末、戦死。
「父上の名に恥じぬように」
諸葛亮の血筋は三代で途絶えた。
そして劉禅。
鄧艾が成都に迫ると、劉禅はあっさり降伏した。
姜維が剣閣で命がけで戦っているのに。
諸葛瞻が戦死したのに。
劉禅は白旗を掲げ、棺桶を担いで(降伏の意思表示として)鄧艾の前に出た。
こうして蜀漢はわずか四十二年で滅亡した。
劉備が一生をかけて築いた国。諸葛亮が命を削って守った国。関羽と張飛と趙雲と、無数の英雄が血を流した国。
それが劉禅の「もういいや」で終わった。
第六章 ~ 姜維、最後の賭け ~ 忠義の果て ~
姜維は剣閣で健闘していた。魏の主力・鍾会の大軍を完全に止めていた。
だが背後から「劉禅が降伏した」という報せが届いた。
姜維は絶叫した。
兵士たちは怒りのあまり剣で岩を斬りつけた。
だが劉禅の降伏命令は絶対。姜維は武器を置き、鍾会に降伏した。
――しかし、姜維は諦めていなかった。
姜維は鍾会に取り入った。鍾会は野心家で、蜀を征服した功績を足がかりに独立を企てていた。
姜維はこれを利用した。
「鍾会殿、あなたには帝王の器がある。魏から独立し、自ら天下を目指すべきだ」
鍾会はその気になった。
姜維の本当の計画はこうだった。
鍾会に反乱を起こさせる → 混乱の中で鍾会を殺す → 蜀を復興する。
敵の内部で反乱を起こさせて、その反乱を乗っ取る。
諸葛亮でもやらないような超ハイリスクの計略。だが追い詰められた姜維にはこれしかなかった。
鍾会は実際に反乱を起こした。
だが――魏の兵士たちが鍾会に従わなかった。
計画は破綻し、鍾会は殺され、姜維も殺された。
姜維、享年六十三歳。
最後まで蜀の復興を諦めなかった男。
伝説では、姜維の死後に体を裂かれた際、胆嚢が卵ほどの大きさだったと言われている。
中国語で「胆が大きい」は「度胸がある」の意味。
文字通り、胆の大きい男だった。
第七章 ~ 劉禅のその後 ~ 「蜀が恋しくないのか」問題 ~
降伏した劉禅は、魏の都・洛陽に連行された。
命は助けられた。爵位ももらえた。要するに飼い殺し。
ある日、司馬昭が劉禅を宴に招いた。
宴の席で蜀の音楽と舞踊が披露された。
旧蜀の臣下たちは涙を流した。祖国を失った悲しみが込み上げたのだ。
だが劉禅は――
楽しそうに笑っていた。
司馬昭は試しに聞いた。
「蜀が恋しくないか?」
劉禅は答えた。
「ここが楽しいので、蜀のことは思い出しません」
「此の間楽しくして、蜀を思わず(此間楽、不思蜀)」。
旧臣たちは愕然とした。
この故事成語は「故郷を忘れた愚か者」の代名詞として使われるようになった。
後に旧臣の郤正が劉禅に耳打ちした。
「陛下、次に同じことを聞かれたら『祖先の墓が蜀にあるので悲しい』と答えてください。そうすれば帰国させてもらえるかもしれません」
次の宴で、司馬昭がまた聞いた。
「蜀が恋しくないか?」
劉禅は教わった通りに答えた。
「祖先の墓が蜀にあるので、毎日悲しく思っております」
涙は出ていなかった。
司馬昭は笑った。
「それ、郤正に教わっただろう」
劉禅は目を丸くした。
「あっ、よくわかりましたね!」
……。
もうダメだこいつ。
三国志ファンの間では「劉禅は本当にバカだったのか、それとも生き延びるためにわざとバカを演じたのか」で議論がある。
降伏した君主は普通殺される。だが劉禅はバカすぎて危険と見なされず、天寿を全うした。
もし演技だったなら、これは曹操や司馬懿に匹敵する生存戦略だ。
だが本当にバカだった可能性も……かなり高い。
劉禅、六十五歳で死去。降伏後も約七年間、平穏に暮らした。
桃園で「死ぬ時は一緒に」と誓った三兄弟の息子が、こんな形で生き延びたのは皮肉としか言いようがない。
第八章 ~ 呉の末路 ~ 最後の暴君コレクション ~
蜀が滅んだ。残るは呉と魏(というか、もう実質的に司馬一族の王朝)。
呉はどうなっていたか。
ひどいことになっていた。
孫権は晩年、猜疑心が爆発して人材を粛清しまくった。後継者問題で宮中が二派に分裂し、血みどろの権力闘争が展開された。
孫権の死後、後を継いだのは幼帝と暴君のオンパレード。
孫亮:幼帝。権臣に廃位される。
孫休:まあまあまとも。だが在位六年で病死。
孫晧:最後の皇帝にして最凶の暴君。
孫晧のエピソードがすごい。
・気に入らない臣下の顔の皮を剥ぐ
・宴会で気に入らないことがあると目を抉る
・酒を飲まない臣下を強制的に酔い潰すまで飲ませる
・宮女を数千人集めて後宮を拡張
・遷都を繰り返して国庫を浪費
董卓の再来と言われた。
臣下の陸凱が命がけで諫言した。
「陛下、かつて呉を支えた名臣たちの子孫が、今は路傍で飢えています。宮中の贅沢を減らし、民を救ってください」
孫晧の返答は――無視。
呉の国力は急速に衰退した。
かつて周瑜が赤壁で曹操の大軍を破り、陸遜が夷陵で劉備を打ち砕いた江東の軍事力は、孫晧の暴政で見る影もなくなっていた。
第九章 ~ 晋の成立 ~ 禅譲マシーン再び ~
西暦265年。
司馬昭が死に、息子の司馬炎が後を継いだ。
司馬炎は魏の皇帝・曹奐に「禅譲」を迫った。
もちろん「禅譲」という名の脅迫である。
曹奐は帝位を譲り、晋が建国された。
ここで三国志の構図を整理しよう。
・後漢の皇帝 →(禅譲)→ 曹丕(魏)
・魏の皇帝 →(禅譲)→ 司馬炎(晋)
やられたことを、そのままやり返されている。
曹丕が後漢から帝位を奪った時、献帝(後漢最後の皇帝)は言ったという。
「天に唾すれば、いつか自分に落ちてくる」
その通りになった。
なお、曹奐の命は助けられた。劉禅と同じく、飼い殺しである。
曹操が聞いたらどう思うだろう。
「俺が天下の人に背くとも」と言い放った乱世の奸雄の子孫が、こうしてただの庶民に落ちた。
歴史は残酷だ。そして公平だ。
第十章 ~ 三国統一 ~ 最後の戦い ~
西暦280年。
晋の司馬炎は、ついに呉への総攻撃を開始した。
二十万の大軍。水陸両面からの進攻。
呉の最後の防衛線は長江。
かつて赤壁で曹操の大軍を阻んだあの長江。
だが今の呉には周瑜も陸遜もいない。いるのは暴君・孫晧と、やる気を失った臣下たちだけ。
呉軍は各地で崩壊。
将軍たちは次々と降伏。中には戦わずに白旗を掲げた者もいた。
長江沿いに張られた鎖の防衛線(かつて赤壁で曹操がやったのと逆パターン)も、晋軍の将・王濬の艦隊に突破された。
王濬は大きな筏を作り、火で鎖を焼き切って進んだ。
火計で鎖を断つ。 赤壁の裏返し。歴史は韻を踏む。
晋軍が建業(呉の首都)に迫ると、孫晧はようやく現実を直視した。
今まで散々暴虐を尽くしてきた暴君は――
あっさり降伏した。
棺桶を担ぎ、自ら縛って城門を出た。劉禅と同じスタイル。
こうして呉は滅亡。
西暦280年。黄巾の乱から約百年。
三国時代、終結。天下統一。
統一したのは魏でも蜀でも呉でもなく、晋。
劉備でも曹操でも孫権でもなく、司馬炎。
三国志の英雄たちが命を賭けて争った天下は、最終的にほとんど無名の男の手に渡った。
……なんだか釈然としないが、歴史とはそういうものかもしれない。




