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第17話

  

 ――見に行くだけでも、命を賭けなくてはならない場所。


 シヴァの言葉が胸に残ったまま、ギルド奥の部屋に短い沈黙が落ちた。


 大穴の向こうへもう一度行く。

 それは決まっている。だが、あそこは今の僕たちだけで踏み込める場所ではない。モスバックボアを倒した直後に動けなくなった自分の体と、草の奥で揺れていたアッシュタイガの影が、まだはっきり残っていた。


 リナが僕の横で鎖に触れる。


「でも、イスカの細剣はまだ戻ってない。今すぐ入るのは無理」


「それは待つわ」


 カスミがすぐに答えた。


「今日は顔合わせと情報合わせ。潜るのは装備が戻って、準備が整ってからでいい。焦って入る場所じゃないみたいだから」


 イスカの肩から少しだけ力が抜けた。

 安心したというより、早く細剣を受け取りたい気持ちがそのまま表情に出ている。普段腰にあるはずの重みがないせいか、立ち方まで少し落ち着かない。


 シヴァがそんなイスカを見て、少し笑った。


「新しい武器待ちか。いいな。そういう時が一番伸びやすい」


「……そうなのですか」


「そうだ。できることが増える前の体は、先に動きたがる。今のうちに何をしたいか決めて動きを作っておけば、武器が戻った後に馴染むのも早い」


 意外な言葉だった。

 イスカも少しだけ目を上げ、シヴァの方を見る。


 カスミがそこで話を戻した。


「私たちのパーティの残り二人、レイナスとミレアは別件の確認をしてから合流する予定よ。本格的に動くのは、早くても二日後くらいになると思う」


 レイナスとミレア。

 まだ会っていないAランクパーティの残り二人だ。その名前が出ただけで、今回の調査が普通の依頼ではないことを改めて思い知らされる。


「だから、その間に貴方たちがどのくらい動けるかを見ておきたい」


 カスミの言葉を受けるように、シヴァの視線が僕へ戻った。


「アーテル。イスカの細剣が戻るまで、お前も止まるな。今のお前ができることを見せろ」


「……どうして僕なんだ」


 思わず聞き返すと、シヴァは口の端を上げた。


「俺は一度、お前とやっている。黒を見ているのは当然だろ」


 そう言われて、返す言葉が一瞬詰まった。


 リンドリウムで、僕はこの男と戦っている。

 あの時の僕は今よりずっと未熟で、自分の紋章が何なのかも分かっていなかった。それでも、シヴァは僕の黒を正面から見ていた。


「それに、ドーレマンの報告も読んだ。あいつは必要なことをかなり細かく残す。大穴の奥でモスバックボアを止めたんだろ。《留黒(とめぐろ)》だったか」


「そこまで書いてあったのか」


「あいつはそういう男だ。嫌になるくらい抜けがない」


 シヴァは軽く笑った後、僕を見る目を少し細めた。


「それともう一つ。遠くからだったが、レンを倒した『黒雷』もこの目で見ている」


 黒雷。


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。


 あの一撃は、リナを避難所へ運んだ後、レンを倒すために絞り出したものだ。

 リナは熱で動けず、あの場にはいなかった。だから詳しくは知らない。


 そして、あの技の形にはシヴァの雷が混じっている。


 認めたくはない。

 だが、グリムアッシュタイガを一撃で落としたシヴァの技を見ていなければ、僕はあんな形で黒を放とうとは思わなかった。


 尊敬という言葉とは少し違う。

 ただ、あの時の僕は間違いなく、シヴァの力を羨ましいと思った。届かない場所にいる人間の一撃を見て、ああなれたらと考えてしまった。


 だから今、本人の口から黒雷と言われると、妙に歯がゆい。


「お前のその力は目立つ。強い弱いとは別の意味でな」


 シヴァは楽しそうに言った後、少しだけ声を落とした。


「神聖国セラフィスの連中は『色』に意味を持たせる。特にあの国は、白に近いものほど特別だと教えられている」


 言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。


 神聖国セラフィス。


 初めて聞く国の名だった。

 どこにあるのかも、どんな国なのかも分からない。ただ、シヴァの声の低さで、それが軽く流していい名前ではないことだけは分かった。


 それに、色。


 紋章の形や力なら分かる。

 だが、色そのものに意味があるなんて考えたこともなかった。


「……色に、意味?」


「ああ。お前にはまだ馴染みがないだろうな」


 シヴァは軽く言ったが、その目は笑っていなかった。


「白を特別視する連中にとって、黒はただの黒じゃない。嫌でも目につく」


 胸の奥がわずかに冷えた。


 レンの顔が浮かぶ。

 あいつは何度も、僕に黒を見せろと迫ってきた。力の強さを見るというより、黒そのものを確かめようとしている目だった。


 あの時は分からなかった。

 だが、今になって思えば、あの執着の仕方は確かにおかしい。


「……レンも、それを知っていたのか」


「全部かどうかは知らん。だが、あいつはお前の黒をただの珍しい紋章とは見ていなかったはずだ。あるいは、その裏に神聖国の影を見ていたか」


 シヴァはそこで肩をすくめる。


「断定はできない。だから今はそこまでだ」


 リナの表情が少し強ばった。

 レンの名が出るだけで、空気が変わる。僕も、すぐには言葉が出なかった。


 カスミが静かに口を挟む。


「シヴァ。そこから先は推測でしょう」


「ああ。だから今は言わない」


 シヴァはあっさり引いた。


「俺が見たいのは黒の正体じゃない。今のお前が、それをどう使っているかだ」


 シヴァは壁から背を離し、地図の前へ歩く。


「あの大穴の先で一番大事なのは、派手な一撃じゃない。止める一瞬だ」


 その言葉に、僕は息を呑んだ。


 モスバックボアを止めた一瞬。

 あれがなければ、《連牙(れんが)》を通す時間は作れなかった。


「今のお前たちは、強敵相手になるほど、リナとイスカが相手を崩して、その隙にお前が黒で決める形が多いんだろう」


 図星だった。

 リナとイスカが止める。僕が通す。

 あの大穴の奥でも、結局そういう形になっていた。


「だが、敵が強くなればなるほど、その形だけではきつくなる。速さで入れるイスカも、読めるリナも、相手の重さを正面から受ける役じゃない」


 イスカの表情がわずかに引き締まる。

 リナも鎖に触れたまま黙って聞いていた。


「だから、お前が止められるようにもなれ。俺の《雷牢》や《縛雷陣》も、ただ撃つための技じゃない。動きを縛るための技だ。カスミの影で縫う技も同じだろ」


 シヴァの視線が僕へ戻る。


「アーテルが止める。その一瞬にリナが崩し、イスカが決める。リナが示した場所へお前が黒を置いて、イスカが通す。イスカが抜いた敵の足元をお前が噛ませて、リナが縛る。三人で進むなら、とどめ役を一人に固定するな」


 返す言葉がすぐに出なかった。


 それは、僕自身がどこかで感じていたことだった。

 今の形では、強い敵を倒せてもその後に僕が立てなくなる。それでは大穴の奥のような場所を進めない。


 役割を固定しない。

 戦いの中で入れ替える。


 言われてみれば当たり前なのに、今までそこまで形にできていなかった。


「……今日は僕の力を見るだけか?」


「最初はな」


「最初は?」


 リナがすぐ反応した。

 シヴァは何でもない顔で笑う。


「見て、それで足りなければ叩く」


「え? 叩くって何?」


「鍛えるって意味だ」


「絶対それだけじゃない」


 リナの警戒が露骨に出る。

 カスミが間に入るように、シヴァの前へ一歩だけ出た。


「私も行くから。シヴァがやり過ぎたら責任を持って止めるわ。それにシヴァも貴方たちを潰したりしない。ルルレーダンの迷宮の異常が本当なら、戦力は少しでも多い方がいいから」


「……分かった。カスミが言うと安心する」


 リナが即答した。


「俺は?」


「まだ信用できない」


「リナ、お前、正直でいいな」


 シヴァは嫌そうではなかった。

 むしろ、少し楽しそうだった。


 僕は小さく息を吐いた。


 Aランク冒険者――雷紋のシヴァ。


 かつて一度戦い、圧倒的な差を見せられた相手。

 その男が今度は敵ではなく、僕たちの動きを見る側に立っている。


 怖さはある。

 だが、それ以上に胸がざわついていた。


 シヴァなら、今の僕に何が足りないかをもっとはっきり突きつけてくるかもしれない。


 カスミが地図を畳む。


「今日はここまで。午後から人目の少ない訓練場を押さえておく」


 リナが少し眉を寄せたまま聞く。


「そこでアーテルの力を見るの?」


「ええ。あとはリナとイスカの動きも見るわ」


「え? 私たちも?」


「今後、一緒に潜るなら当然でしょう。それにアーテルだけが強くなっても意味がないわ」


 カスミの声は静かだったが、軽いものではなかった。

 リナは少しだけ黙り、それから頷く。


「分かった」


 イスカも短く頭を下げる。


「お願いします」


「久しぶりに見せてもらうぞ。お前の力が、あれからどう変わったか」


 シヴァの声で、僕の指先に自然と力が入った。


 まだ分からないことばかりだ。

 神聖国セラフィスの白。

 虎紋のレンが追い求めた黒。


 それでも、少なくとも今の僕には、この力で止めたいものがある。


 リナの鎖をより活かすために。

 イスカの細剣が通る一瞬を作るために。

 そして、僕自身が倒れずに次の一手へ繋げるために。


 次に大穴の奥へ行く前に、僕たちはもっと変わらなければならない。


 そう思っていた、そのときだった。

 扉の外で硬い足音が止まる。


 カスミが先に目を向けた。シヴァの笑みも少しだけ薄くなる。


 次いで、扉が二度叩かれた。


「失礼する」


 返事を待つだけの短い間を置いて、扉が開いた。


 

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