第10話
背丈ほどある草を押し分けて出てきたその獣は、先ほどのレトルファングとは比べものにならない体格をしていた。
四つ脚の猪型の魔物。
胴と肩の位置が高く、僕の身長でも敵の目を少し見上げるほどに大きい。
濡れた黒茶の毛が背へ張りつき、その上に苔みたいな緑がまだらにこびりついている。
口先は太く、左右へ反った牙は剣のように鋭く長い。
地面の泥を踏むたび、重い脚がそれを跳ね上げていた。
「Dランク――モスバックボアだ。昨日討伐したEランクのドレッドボアの強化版とも言える」
ドーレマンが説明してくる。
「湿った場所を好む魔獣だ。泥へ乗るなよ。足を取られたらそのままふっ飛ばされるぞ」
言い終わると同時に、モスバックボアが鼻を鳴らした。
こちらの匂いを掴んだのだとすぐ分かった。
草が左右へ揺れ、次の瞬間には巨体が地面を蹴って突っ込んできた。
――速い。重いくせに滑るみたいに距離を詰めてくる。
僕は朧差を抜いて横へ跳んだ。
鋭い牙が目の前を通り過ぎ、そのまま大穴の手前の地面を擦る。鈍い音と一緒に灰白の欠片が散った。
そのとき――草むらの中で別の音が鳴る。
「他にもいます」
イスカの声で目を向けると、草木の陰からレトルファングが二頭、低く姿勢のまま出てきた。
前にはモスバックボア。
横にはレトルファング。
足元は泥濘みやすい地面が広がっている。
「アーテルは正面を見てください。レトルファングはこちらで倒します」
「分かった」
モスバックボアがまた頭を下げて姿勢をつくる。
その大きな体躯ごとぶつかって押し潰す気だ。
同系統の猪型の魔物――ドレッドボアとの戦いで学んだことを思い出せ。
僕は正面から合わせず、体を右へずらす。
だが、湿った土が滑り、踏み込みが遅れる。
危ない――と思ったときには、リナの鎖が横から走っていた。
モスバックボアの前へ出る向きを逸らすように、水際の手前を強く払う。
獣の視線が一瞬だけそっちへ揺れた。
その隙に僕は退くことができた。
「リナ、助かった」
イスカが草を裂いて横へ走る。
細剣がレトルファングの鼻先をかすめ、二頭の向きを外へ切る。そこへリナの鎖が床を這い、片方の前脚を払った。
前と横の二方向の敵に対して、リナが的確にフォローしてくれる。この戦いを《解読》で読みながら、戦況に応じて補助へ回っているのだ。
僕よりかなり年下で、経験も少ない。
だが、その成長速度には目を見張るものがあった。
――僕も負けていられない。
リナによってわずかに空いたその隙に、僕はモスバックボアへ攻撃する。
「こっちだ――!」
《瞬纏》により、『黒』を薄く纏った刃は毛と皮を裂き、注意を僕の方に引きつけた。
モスバックボアはそのまま突き進んだあと、回り込むように方向を変えてまた突進してくる。
僕は大穴の手前まで跳んでそれを避けた。
大穴とこの沼地の繋ぎ目は、石畳を割るように太い根と蔓が走っている。
つまり、水気の多い泥のある地面よりも圧倒的に硬い。
モスバックボアが向きを変える。
Dランクだけあって、この地形や場所をよく理解している。
沼地の中にある岩、根の張った地面、その違いを全部踏み分けて動いている。
僕は深呼吸をして、意識を集中させた。
『黒』の威力を高めるには、力を溜める時間が要る。
そのためには、相手を止める技――《留黒》をもっとうまく敵が踏み切る足下へ、展開させなければならない。
だが、敵は泥の上では踏み込まない。踏み込まない場所に《留黒》を発生させても止めることはできない。
モスバックボアは大穴と沼地の繋ぎ目、根が抱いた石の上で方向を変えようとしているのが見えた。
僕は刃先をわずかに下げる。
「――《留黒》!」
狙った場所へ、『黒』を発生させる。
次の瞬間、モスバックボアの前脚がそこを踏み込んだ。
「ブォオオ?」
ぐぐ、と重さと速さが一気に鈍る。
方向転換するはずだった巨体が、その場で詰まって倒れかけた。
だが、さすがDランクの魔物だ。すぐに姿勢を整えて再度突進の姿勢をとろうとしていた。
僕は《留黒》を使った後、すぐに黒鉄の小手へ力を込め始めていた。
敵を止めて、力を溜める時間をつくる。
そこまではでき始めている。
だが、それだけでは駄目だ。
今の自分に足りないもの。
それは――敵を止めた後、一瞬でも速く力を大量に集めることだ。
黒を引き出す。
まだ足りない。
もっと、紋章の奥から一気に引きずり出せ。
黒鉄の小手を通して指先へ、どんどん力を込める。
撃つ一点へ、全てが収束していく。
小手の先へ集まった『黒』が急に重くなった。
撃つ前なのに、もう頭が割れそうに痛い。
息も浅く、膝が抜けそうになる。
それでも止めてはいけない。
「おおおおお――――ッ!」
叫びと一緒に指先を敵へ向ける。
「行け――《連牙》――!」
小手の先から、二本の『黒』が絡み合うように走った。
並んで飛ぶのではない。
互いに連なったまま螺旋を描き、唸るように回転しながら一直線に伸びる。
狙いはリナの鎖のおかげでわずかに外へずれていた首筋と、頭のちょうど中心。
二本の『黒』は今までの《連牙》より明らかに濃く、鋭く、ぶれなかった。
到達した瞬間、撃ち抜いた先までがごそっと消滅した。
首へ入った『黒』は分厚い毛と肉を抉り、頭へ入ったもう一本は回転ごと脳天を穿った。
モスバックボアの巨体が、その場で止まる。
次の瞬間、真横に大きな音を立てて崩れ、跳ねた泥水が周囲へ散った。重い体が泥の中へ少しだけ沈む。
倒せた――と思うより先に、視界が傾いた。
「アーテル!」
リナの声が遠い。
頭の芯が焼けるみたいに痛い。
指の先から腕まで力が抜ける。
朧差を取り落としそうになりながら、僕はその場へ膝をついた。
すぐには立てないほどの眩暈と激痛だった。
息を吸っても、胸の奥が空っぽみたいに酸素を取り入れてくれない。
今の一撃で、ほとんど全てを持っていかれたのだと分かる。
「アーテル、無茶しすぎです」
イスカの声が近くで響く。
だが、その声の向こうで草むらがまた大きく揺れた。
――まさか……?
今度はさっきの個体より少し低い位置から、だが同じ重さで草を押し分けてくる。
濡れた茶毛。背には緑や黒の苔が生え、太い口先には剣みたいな鋭牙が見えた。
二体目のモスバックボア。
今の僕はすでに全身の力を込めた後で動けない。
リナとイスカが前へ出る気配がしたが、それより早く横を瞬時に敵に向かう影があった。
ドーレマンだ。
拳具を巻いた右拳を下げたまま、地面の硬い場所だけを踏んで一直線に入る。
あの巨体に正面からぶつかるつもりだと分かった瞬間、息が止まった。
モスバックボアが突っ込む。
ドーレマンは退かない。
一歩だけ、深く踏み込んだ。
拳が下から突き上がる。
ドォォォオオオオオン――――――。
鈍い破裂音みたいな音が辺りを占めた。
右拳がモスバックボアの顎へめり込み、そのまま頭ごと持ち上げる。
浮いた巨体へ、今度は左の拳が横から叩き込まれた。
骨が潰れる音が大きく響いた。
その一瞬で、モスバックボアの頭がへし折れ、巨体ごと草むらの上へ倒れていた。
背丈ほどあった草がまとめて薙ぎ倒された。
僕は声も出なかった。
リナも息を止めている。
イスカだけが小さく言った。
「……強すぎます」
ドーレマンは拳を下ろしたまま振り向きもしない。
「立てるか、アーテル」
「……なんとか」
そう答えたが、すぐには無理だった。
リナが手を引っ張って起こしてくれる。イスカは細剣を構えたまま、大穴とは反対方向を見ていた。
水が流れる音しかない。
だが、その静けさが逆に違和感を際立たせた。
ドーレマンがゆっくりと視線を向ける。
水際の土に残っていた跡を見て、顔つきが変わった。
そこにある足跡は、今倒した巨体のボア二頭のものよりも深く、幅も広い。
それに爪痕がより深く、泥の底まで届いていた。
その近くには、獲物でも引きずったみたいな筋が何本も残っている。
太い根に引っかかったのか、落ちた毛は闇に溶けそうなほど濃い灰色だった。
――僕はこの色に見覚えがある。
喉が勝手に鳴る。
思い出す。
リンドリウムで笛の男に率いられていたCランクの魔獣の群れを。
「……まさか」
僕の口から出た言葉に反応するかのように、周囲の草むらの奥で低い唸りが重なった。
一つじゃない。
左右でも一つずつ。
少し遅れて、さらに奥でもう一つ。
背の高い草むらの中を黒灰色の毛並みが流れ、鋭い金色の眼が一瞬見えた。
ドーレマンの声が、初めて動揺の色を含んだ。
「駄目だ。……アッシュタイガが群れている。すぐに引くぞ――!」
その声と同時に、右手の草むらが大きく揺れた。
次いで左奥でも草が倒れる。
囲まれ始めていると理解した瞬間、喉が締まる感覚に襲われた。
先ほどのモスバックボアは、この空間ではただの餌だったのだ。
あの二体は追われてここへ飛び込まされただけだ。
草の奥で金色の眼が二つ、三つと光り、低い唸りがじわじわ距離を詰めてきた。
「アーテル、早く!」
リナが僕の腕を強く引く。
イスカもすぐ後ろへ回り、細剣を構えた。
僕たちは足を取られそうになりながら、一気に来た道を下がった。
振り向けば足が止まる気がして、振り返らずに元の通路へ飛び込んだ。
ドーレマンが最後に後ろを確認してから、大穴の横へ印をつけた。
アッシュタイガの巨体ではぎりぎり通れないほどの穴だ。僕たちは何とか逃げ切ることができた。
「⋯⋯行くぞ」
僕たちは入口へ戻る足を速めた。
リナが息を押し殺しながら問う。
「……なんでここに翠緑の迷宮みたいな場所があるの?」
誰もすぐには答えられなかった。
ただ一つ分かったのは、あの奥へ深く潜れば、ドーレマン以外の僕たちにはもう帰れる保証がないということだけだ。
ルルレーダンの迷宮の中に、突如として現れた背丈ほどの草に覆われた沼地帯。
この迷宮を攻略するにはもっと安定した力が必要だ。
遠隔で使う《留黒》の感覚は、少しずつ僕の手に馴染み始めている。
だが、それだけではまだまだ足りない。
瞬時に大量の力を込める練習が必要だ。
そして、敵を倒した後でも痛みや疲労に負けない強さも要る。
■モスバックボア:Dランク
湿った場所や泥地を好む、大型の猪型の魔物。
重い体で突っ込むだけでなく、場の違いを踏み分けて突進してくる。
地面が悪い場所でもその攻撃の勢いが落ちないことから、足場が悪い場所での戦闘時には死亡リスクが一気に高まる。
■アッシュタイガ:Cランク (再掲)
闇に溶けそうなほど濃い灰色の毛並みと、金色に光る目が特徴の大型の虎型魔物。
前脚まわりの筋肉が異様に発達しており、一歩踏み出すたびに地面や石を削るほどの重さと力を持つ。
他の魔物すら獲物にする凶暴さがあり、もちろん人間も餌として認識されている。
草むらや木々の陰を使って獲物を追い込み、鋭い牙と爪で一気に仕留めて相手を喰らう危険な存在。
基本は単体で出現する魔物であり、それでも十分に脅威だが、群れで現れた場合は大きな街でも壊滅させるレベルである。




