第8話
サンドローチやミックスプラントのいた小部屋を抜けた後も、通路はまだ下へと続いていた。
僕たちはしばらくそのまま道に沿って進んでいると、途中から湿った石の匂いに混じって別の臭いが鼻へついた。
どこか錆びた鉄のような――それでいて腐ったものが放つ異臭。
僕たちは自然と足を速めていた。
「……血の匂い」
リナが小さく言った。
少し先でカリカリと乾いた音が続いている。
石を齧るような硬質のある音だ。
通路を抜けた先は、少し開けた空間だった。
さきほどの小部屋よりは広めで、いくつかの通路がそこから別方向へ伸びているのが見える。
部屋の壁は削るというより壁そのものが壊され、大穴が空いていた。
例の灰白の層が広い範囲で剥き出しになり、その周りには壁の残骸がいくつも転がっている。
他にも割れた木箱や折れた棒、千切れた縄、持ち上げるために使ったらしい金具まで散乱していた。
――そして、その足元に人がいた。
いや、正確には人だったものの喰われた跡だった。
片腕だけが転がり、胴が石柱の影へ引きずられている。
脚は遠くの別の場所に転がっていた。
周囲の床は赤黒く汚れ、その上を黒茶色の昆虫型魔物――サンドローチが何匹も這っている。
「……っ」
リナが息を止めた。
群がっていたサンドローチの一部は灰白の石塊を齧っていたが、他の何匹かは人の肉へ頭を埋めて動いていた。
吐き気がこみ上げたが、吐いている暇はなかった。
その奥、壁の穴の陰から一回り大きい影がぬるりと出てく。
サンドローチとは明らかに違っていた。
大きさもそうだが、一番目を引くのは背に生えた鋭い棘だ。
鈍い甲殻にその棘が嫌に目立つ。
それに座人の腕くらいならそのまま噛みちぎれそうな口器も、以前見たものと見間違えようがなかった。
Dランクのスパインローチ。
しかも、今回は一体ではない。
壁の奥ではさらに四体の甲殻が動いているのがはっきり見えていた。
思わず目を逸らしたくなるくらい気持ちが悪い。合計五体が群れるようにこちらへ進んできていた。
「……来るぞ。しっかり見ろ。三体くらいは俺が引く。残りはお前らでやれ」
ドーレマンの声が落ちた瞬間、手前のスパインローチが速度を上げた。
それに合わせて後ろに続いていた別のスパインローチも一斉に散るように動く。
言葉通り、三体だけをうまく引き付けたドーレマンは、広間の奥へ引いていった。
――残り二体を僕らで倒し切る。
僕は真正面から来た一体へ朧差を振るった。
黒の殻の繫ぎ目へ刃を押し込む。
――だが、その横をもう一体のスパインローチが跳び掛かってきたため、真横に避けた。
それをカバーするように、リナの鎖が床を鳴らして絡みついた。
リナは跳んできた二体目にも届くように鎖の長さを調整し、まとめて脚を払う。
イスカの細剣が先頭のスパインローチの前脚を斬ったときには、『黒』を溜め終えた僕は踏み込んでいた。
「一気に倒す。《黒穿》!」
一体目の体節が二つに分かれて吹き飛んだ。
だが、もう一体のスパインローチは壁の奥へ戻ろうとしていた。やはり逃げが早い。
逃がせばまた壁の奥へ潜って、他の個体を引き連れてくるかもしれない。
そのとき、奥からドーレマンが戻ってきた。
平然とした顔で、装備にも衣類にも塵一つ付いていなかった。
「あと一体か」
イスカが《閃駆》で一歩先へ入って、逃げかけていたスパインローチの進路を切る。
僕の刃とイスカの細剣が同時に敵の頭へ落ちた後、ようやく二体目が動きを止めた。
僕たち三人で倒した二体のスパインローチから、すぐに魔核を抜き取る。
迷宮での戦いに、少しずつ慣れてきているような気がした。
それがただの慣れなのか、慣れも含めて強くなっているのかはまだ実感がない。
だが、立ち回りや動きは前よりはっきり見えてきていた。
リナはぼんやりと地面に転がっていた残骸を見て、その場で止まっている。
「……あまり気にするな。迷宮とはそういうところだ」
ドーレマンは短く返し、散らばった道具と壁の塊を見た。
「運んでる最中に襲われたんだろうな。着ている装備を見ても分かるが、戦闘員ではなさそうだ」
足元の石塊に目を向ける。かなり大きいし、量もある。
商人たちが使うような高級な《魔道鞄》を何個も揃えるより、使い潰せる人間を突っ込ませた方が早いと見たんだろう。
かなり嫌な話だったが、競り場の裏の連中ならやりかねない。
ドーレマンは地面に落ちていた石塊を一つだけ選び、布へ包んで僕たちの《魔道鞄》へ入れさせた。
「まだほとんど入っていないだろ。鞄に入れられるものがあれば入れておけ」
リナは壁の穴を見て眉を寄せた。
「この魔物たちって、壁の中にいるの?」
「そうか、この石に寄ってきているだけなのか、そもそも壁の中にこいつらが元からいたのか――そこはまだ分からないな」
僕の呟きにドーレマンが反応する。
「面白い線だな。一度考える余地はある。――そろそろ休憩できそうなところを探すぞ」
「どこで寝るのがいい?」
リナが聞くと、ドーレマンはすぐ奥の通路へ目を向けた。
「これより先には引き摺った痕がない。競り場もここまでしか来ていないのかもしれない。休憩場所の条件は三つだ。壁が掘られていないこと。地面や天井に割れ目がないこと。行き止まりであること。寝る場所は広さより守りやすさが要る」
僕たちは頷き、また奥へ進んだ。
―――――
しばらく進んでいくと、また下りの通路に差しかかった。
迷宮の深いところへ、どんどん潜っていっている感覚があった。踏破されていない迷宮は、どこまで続いているのか誰にも分からない。
このルルレーダンの迷宮も、本当はどれほど大きいのか。
そんなことを考えながら下っていくと、途中に少し広めの横穴のような場所があった。
床は乾いていて、壁の抉れも少ない。入口は人が二人並ぶのがやっとで、奥はそれほど広くはないが、四人が休むだけなら十分だった。
「……ここだな。休めるうちに休むぞ」
ドーレマンが決める。
そこからは早かった。
入口の壁へ白石で印をつける。
魔灯は一つだけ低い位置に置き、もう一つはすぐ点けられるよう少し離して置く。
荷は奥の壁際へまとめ、武器は手を伸ばせば届く位置に揃えた。
食べる分だけ干し肉や芋と飲み物を出し、残りは臭いが漏れにくい《魔道鞄》へしまっておく。
「靴は脱ぐな。布は敷いてもいいが、寝る時もすぐ立てる姿勢で休め。見張りは交代で回す。俺、イスカ、アーテル、最後にリナだ。何か対処しきれないことがあれば、すぐ起こせ」
「……迷宮で寝るの初めて」
リナが簡易寝具を敷きながら言った。
「私もです」
「え、イスカも?」
「私は基本的にソロだったので、こんなに奥まで迷宮に潜ったことはないんです。それにルルレーダンの迷宮は、元から知られていた浅瀬までしか来たことがありません。翠緑の迷宮も、浅瀬までしか行ったことがないです」
「イスカ、翠緑の迷宮も行ったことあるんだ」
「あっちはどんな迷宮なんだ?」
二人で興味津々に尋ねると、イスカは少しだけ考えてから口を開いた。
「そうですね、こちらとは全然違います。全体が森の中のように植物が多くて、川みたいに流れている場所もあるので、迷宮の中だと思えないくらいでした」
「え、楽しそう。翠緑の迷宮ってそんな感じなんだ」
リナが少しだけ身を乗り出す。
「はい。向こうは昆虫や植物系の魔物が多いですが、獣系もちらほら出ます。草や水があるせいか、あちらの方が生き物の住処に近い感じでしょうか。ただ、魔物はかなり強いです」
「一回は行ってみたい」
「同じ迷宮でも、中はかなり違うんだな」
横で聞いていたドーレマンが口を挟んだ。
「翠緑の迷宮は規模がかなり大きい。今知られている範囲でも、浅瀬はDクラス冒険者、中層はCクラス冒険者あたりじゃないと厳しい。そしてその先は、少なくとも一流と呼ばれるBクラス以上じゃないと話にならん。それゆえ、いまだ踏破されていない」
リナが目を丸くする。
「へえ、そんなに違うんだ」
「だからこそ、初心者から入れるルルレーダンの迷宮は貴重だった。迷宮の周りから浅瀬なら初心者でも行けたからな。それもあって、翠緑の迷宮との住み分けもできていた」
ドーレマンはそこで一度周囲へ目を向けた。
「――だが、今のこのルルレーダンは初心者用とは到底言えん。出てくる魔物もかなり奇妙だ。⋯⋯虫や獣だけではなく、植物まで混じってきている」
「うん、それに壁の中のあれも変」
リナが小さく言った。
「⋯⋯もしあの灰色の層に価値があると分かれば、競り場だけじゃない。他の勢力も一気に群がるかもしれない」
僕が引き継いで言う。
「ああ、その報告は慎重に回す」
ドーレマンは即座に言った。
「これはギルドだけで終わらせる話ではない。街側――領主にも通すが⋯⋯伝える先は絞らなくてはならん。下手に漏れたら、迷宮そのものを食い潰しかねん」
その言い方に、僕たちは黙って頷いた。
―――――
ルルレーダンの迷宮の天井には薄っすら光源があるため、迷宮内は全体的には魔灯がなくても動けるレベルの明るさだ。
だが、この横穴の天井にはそれがないらしく、かなり暗かった。
食事を終え、交代の順をもう一度確認してから、皆が少しずつ横になった。
最初の見張りはドーレマンだったが、しばらく経っても僕は眠れなかった。
壁に背を預けたまま朧差へ手を置いていると、入口の方から低い声が聞こえる。
「……アーテル。起きてるなら少し来い」
僕はリナとイスカを起こさないよう気をつけながら、入口の方へ寄った。
ドーレマンは胡座をかいたまま、暗い通路の先を見ている。
「一つ聞く」
その声は先ほどよりも低かった。
「ギルドの裏――諜報の連中から上がる話は、副支部長以上には少しは入ってくる。お前がリンドリウムで何をやったかもな」
思わず息が止まりかけた。
ドーレマンは僕の方を見ないまま続ける。
「言える範囲でいい。あの魔物を止めていた黒の技もそうだが、小太刀に黒い靄を纏わせて斬るあの技も、俺は見たことがない。普通の紋章の動きじゃない。あれは何だ?」
しばらく黙っていた。
嘘を考える時間はあった。だが、ドーレマン相手に半端なごまかしは意味がない気がした。
「僕の紋章は⋯⋯普通ではないんだと思う」
ドーレマンは何も挟まない。
「この世界に――いや、生まれた時から黒く潰れていた。競り場に攫われたとき、そこで『紋崩れ』と呼ばれ、価値がないゴミだと売られかけた。⋯⋯だからリナと逃げた」
そこまで言ってから、喉が少しだけ詰まる。
夜の迷宮は静かだった。静かだからこそ、少し前の記憶がゆっくり呼び起こされていく。
「この紋章について、自分でもよく分かってないんだ。競り場の連中にも分からなかったらしい。あいつらは⋯⋯《不明紋》と呼んでいた」
「……《不明紋》、なるほどな」
短い返事だった。
否定も驚きもなかった。
ドーレマンはそこでようやく僕の方を見た。
「わかった。お前が軽々しく話したがらない理由もな」
「……僕はどうすればいい?」
「それは俺にも分からん。だが、お前が思っている以上にその力は目立つし、強い可能性を秘めている」
そう言って、少しだけ口元を動かした。
「だから、知られ方次第ではさらに面倒は増えるだろう。競り場の裏のような連中が嗅ぎつけば、執拗に追い求めるかもしれん」
それを聞いて、リンドリウムで虎紋のレンが追いかけてきたことを思い出す。
「その黒い紋のことは内密に調べておく。俺が表で聞けることには限りがあるが、何も知らんまま抱えて進むには危ないだろう」
「……頼んでいいのか?」
「まぁ、お前たちには借りがある。それくらいは協力してやる」
ドーレマンは少し笑ってから、通路の先へ視線を戻した。




