第5話
昨日のうちに迷宮遠征に向けて、水や保存食、携帯型の魔灯、そして簡易寝具などを揃えた。
これまでの報酬もあって、《魔道鞄》の購入も考えてみた。
《魔道鞄》は、決められた容量までの物を入れることができる魔道具だ。
値段としては『100㎏収納タイプ』の《魔道鞄》で金貨百五十枚――つまり白金貨十五枚もする。
ギルドから結構な額の報酬金を貰った後ではあるが、この値段帯の魔道具をぽんと買えるほど財政状況が良いわけではない。借家や引っ越し後の消耗品、今回の準備にも金を使ったばかりだからだ。
その隣に『10kg収納タイプ』も売っていて、こちらは一つで金貨三十枚ほどだった。
位階1以上の僕たちにとって、10㎏程度の荷物ならそこまで重荷にはならない。
だが、迷宮探索で手に入れた物を持ち帰るにはちょうど良さそうだったので、みんなで金を出し合って一つだけ買っておいた。
「……大きい方は、もうしばらく我慢だな」
今日は昨日の大広間より先へ進み、競り場の動向だけでなく、僕たち自身の位階も少しずつ押し上げていくつもりだ。
金はいくらあっても足りない。売れそうな希少品や持ち帰れる素材があれば、それも拾っていきたい。
ルルレーダンの迷宮の入口に着いた時には、もうドーレマンが腕を組んで立っていた。
「時間通りだな。まずはこれからだ」
ドーレマンは足元の革袋を持ち上げた。
中から出てきたのは、液体の入った二本の小瓶だった。
「昨夜抽出した《紋滓》だ」
瓶の中で色のついた液体が揺れる。
片方はドレッドボアのもので、色は濃い緑。
もう片方は黒茶色に濁っていた。
――見ただけで、どちらがスパインローチの《紋滓》か分かってしまう。
レトルファングの分は昨日のうちに抽出し、それぞれもう飲んでいる。
「じゃあ、ドレッドボアはアーテルだ」
ドーレマンは僕に向かって小瓶を放った。
慌てて受け取る。
「……なぜ?」
「前へ出る時間が一番長い。昨日もドレッドボアの突進を受け切れなかっただろ」
何も言い返せなかった。
「他の二人にも《紋滓》は必要だ。だが、この三人の形だと要はお前だ。……お前が決め切れなくなった時、このパーティは崩れる」
僕はまだ『黒』の連続行使に慣れていない。
いや、慣れという言い方は少し違うか。
――もし僕の体に数値のようなものがあるなら、『黒』を撃つための力が足りていないまま、無理やり技を使っているような状態なのだと思う。
Eランクのドレッドボアの紋滓は、Fランクのレトルファングのものより量が少なかった。
しかし、かなり色も濃く、液体の粘り気も強い。
僕は一度リナとイスカを見てから頷き、そのまま一気に喉へ流し込む。
直後、何とも言えない味と熱が喉を通った。
胸あたりが一度だけ強く脈を打つ。
足元がぶれそうになったが、その場で踏みとどまった。
ドーレマンは次の一本――スパインローチの方の瓶を持ち上げた。
中身は黒茶色に濁っていて、底に何か沈んでいるようにも見える。
「Dランクのスパインローチだ。このランクの魔核だから希少性は高めだぞ」
「……その見た目の時点で嫌なんだけど」
リナが眉を寄せて即答する。
イスカも少し間を置いてから言った。
「……これから迷宮へ入る前に飲みたいものではないです」
僕も完全に同意だった。
あの《紋滓》の色を見ると、鈍く光る黒茶色の姿が頭に浮かぶ。
ドーレマンは僕たちの反応を見て鼻で笑い、その小瓶を今度は僕ではなくリナへ渡した。
「まあいい。そいつは誰かが持って帰ってから飲め」
リナは一瞬だけ嫌そうな顔をしたが、小瓶を受け取って袋へしまった。
「Dランクの《紋滓》なんざ、買うなら金貨一、二枚はする」
「――私がもらう。だけど、飲むのは帰ってから。今は無理」
強くなりたい気持ちと、金貨の価値への惜しさの両方が、たぶんリナの心を動かした。
その後、ドーレマンは僕たちの荷を一度見回してから言う。
「今日から俺もついて潜るが、基本はお前ら三人で動け。俺は危ない時だけ手を貸す」
「分かった」
僕が返すと、イスカも短く頷く。
「まずは昨日の大部屋まで行く。昨日との違いも含めて確認しながら奥へ進むぞ」
「了解」
二人も続けて返した。
僕たちはもう見慣れた遺跡の入口へ進む。
二本の石柱の間を抜け、昨日と同じ階段を下っていく。
昨日と同じで、相変わらず空気は少し湿っている。
荷が増えた分だけ、下る足音も昨日よりわずかに重かった。
しばらく四人で黙って進んでいると、昨日戦った大部屋が見えてきた。
大広間の壁に残っていた灰白の層も、床に残った血の跡もそのままだった。
ドーレマンが声を低く落とす。
「ここからは、まず場所を見る。広さや逃げ道、入ってきた向き、暗がりの深さ。暗い場所なら魔灯を置くならどこか。探索はそのあとだ」
昨日は大広間へ入った途端、戦闘になった。
今日も同じことが起きるかもしれない。そう思いながら、僕は朧差へ手をかけ直す。
大広間は幾重にも石柱が立ち、その影が重なって奥が見えない。
天井も高く、昨日よりなぜか広く感じる。
僕たちは息を殺したまま、そのまま大部屋へ足を踏み入れる。
ドーレマンは視線を一周させてから、広間の右奥を指した。
「あそこだ。あの見えている右手の壁を一時的な拠点にする」
言われて見ると、その一角は背後に抜け道がない。
後ろを気にしなくていい。正面を見ていれば済む形だ。
僕たちはそこを目指して進むが、かなり静かだった。
魔物がいない静けさじゃない。どこかへ潜んで、こちらを待っているかのような静けさだった。
リナが小さく息を止める。
「……嫌な感じ」
「昨日と違って、静かすぎます」
周囲に目を配りながら進んでいく。
「迷宮では周囲だけじゃない。上も見ろ」
ドーレマンの低い声に、僕たちは一斉に見上げた。
白っぽい天井のあちこちに、崩れた石片みたいなものが張りついているが、大広間の天井は高いため、よく見えない。
その一つの端が、ほんのわずかに動いた気がした。
――天井の一部ではない?
石のようなものから脚が生える。
天井の繫ぎ目から一本だけほどけるように動いた。
同時に、前方の暗がりでも、何かが低く揺れた気配がした。
――前からも何かが来る。
ドーレマンの声がさらに低くなった。
「止まらずに右奥へ寄れ。まずは三人で受ける形をすぐに作れ」
その瞬間、天井に張りついていた影が一斉に脚を開いた。
音もなく、大量の影が落ちてくる。
さらに前方の石柱の影からも、何かがこちらへ向かってくる音が聞こえてきた。




