第3話
暗い。湿った布の匂いに、獣舎みたいな生臭さが混じっている。
規則的に揺れる度に、振動が直に伝わってくる。
何かに乗っているような揺れだった。
はっきりと、目が覚めた。
体は鉛を詰め込まれたみたいに重い。床が揺れると、全身に鈍い痛みが走る。
瞼を開けようとしても、それすら筋肉が拒む。
悪い夢だと思いたかった。
だが、目覚めた先がこの状況なら、もう受け入れるしかない。――この世界を。
倒れた後のことは、まったく覚えていなかった。
虎紋のレンの仲間たちから逃げ切れたと信じたかった。
だが、現実は違った。
床の冷たさとこの暗がりが、僕に現実を突きつけてくる。
『外』『聞け』
内側の声が短く落ちた。さらに――この声。
やっぱり、夢ではない。
僕は息を浅くし、言われた通り耳だけで外の音を拾う。
車輪が石に乗り上げ、荷台が跳ねた。
木が大きく軋み、どこかの金具が不規則に鳴る。
外では蹄の音が定期的に聞こえ、段差の度に大きく揺れる。
意識を集中していると、男たちの声が分厚い布越しに微かに聞こえてきた。
「――拾いもんが増えたな」
「川辺に倒れていたから死んでるかと思ったが、出血も止まってる」
「生きてりゃ少しは金になるだろう
「それよりこの道、魔物は出ないのか?」
「ここは安全な道だから大丈夫だろ」
そんな会話が聞こえてきた。
胸の奥から何かが滲んで広がり、体温を奪っていく。
この状況に対して怒りよりも先に、無力感が湧き上がった。
――結局、捕まったままだ。
足首を動かそうとした瞬間、皮膚に何かが食い込んだ。
縄だ。手首も同じように縛られている。
鎖男にやられた足首の傷の上から、きつく締め付けられているため、かなり痛む。
意味がわからないまま転生させられて、追われて、起きたらまた運ばれている。
誰かの機嫌一つで人生が壊される――そんな今の状態にも、何もできない自分にも腹が立つ。
どうにかしなければ。
そのとき荷台の後方の布が、ふっと動いた。
一瞬、外の光が細い刃みたいに差し込む。
眩しさの中で、今いる場所の輪郭が少しずつ浮かび上がった。
手足を縄で縛られ、床に転がされるように置かれた自分。
鎖を壊せたのなら、この縄だって外せるかもしれない。
そう思ったときに、同時にわかっていた。
今、あの力を使えば、また意識が落ちてしまう。
ここで倒れたら終わりだ。
そのとき、反対側で小さく息を呑む音がした。
「⋯⋯起きてる?」
囁くような小さな声。
声の方へ体を捻ると、女の子が荷台の隅に身を寄せ、もたれかかっていた。
髪は肩あたりまであるが、汗と土でところどころ束になって頬に貼りついていた。
くすんだ金髪の隙間から覗く赤い瞳だけが、やけにまっすぐこちらを見ている。
唇は乾き、肌の色も悪い。
疲れだけが積み重なり、体の状態が悪くなっているのだとわかる。
「⋯⋯起きてる。あまり大丈夫ではないが――」
苦笑いで答えると、彼女も小さく笑った。
その笑顔は、この場所に似つかわしくないほど真っ直ぐなものだった。
荷台がもう一度大きく揺れた。
僕の身体が跳ね、そのまま頭をぶつけそうになる。
その瞬間、彼女が反射で身を寄せてきて、僕を自分の体で支えてくれた。
「⋯⋯危ない。私は慣れたけど、あなた、すでに怪我してるから余計に」
僕の足首から滲む血を見ている。
不安で押しつぶされそうなのに、僕のことを本気で心配してくれているのが伝わってくる。
なぜ、そんなことができるんだろう。この状況で。
僕は独りではない。それがわかっただけで、少し気持ちが軽くなった気がした。
「私たち、『競り場』っていうところに運ばれてるみたい。さっき外の男たちが言ってた」
競り場?
何かを競るところ⋯⋯いや、この状況で『競る』のは――。
「⋯⋯あなたは⋯⋯珍しい紋章?」
その言葉を聞いたとき、胸の黒痕が疼いた。
僕が黙っていると、彼女は無理に踏み込まず、僕を安心させるみたいに自分の話を始めた。
「私はリナ。ローイン村出身。紋章はまだ何かわからない。⋯⋯隣町の市場に行った帰りに捕まった。途中までは逃げたけど、追いつかれて⋯⋯」
淡々と話すが、最後の一言だけわずかに揺れた。
『逃げた』という言葉の中に、恐怖と悔しさが詰まっているのがわかる。
そこでリナは一瞬だけ迷う顔をした。
それから意を決したように、縛られた手をうまく動かし、自分の首元――服の隙間から何か小さなものを引き出した。
紐に繋がった木片。親指ほどの大きさのもの。
「⋯⋯これ。私の村の印。村では御守りみたいなもの」
彼女はそれを、縛られた僕の掌の中に押し込んだ。
少し冷たくて軽かった。だが、これだけは落とせない重さがあった。
「お願い。⋯⋯もし、あなたが生き残ったら、お父さんに伝えてほしい。これは私がここにいたっていう証にもなるから」
息が止まる。
――彼女は、僕に御守りを託すという選択をした。
「⋯⋯なんで、僕に」
「見てたら⋯⋯なんとなく。たぶん、あなたは強い。それに、誰かを見捨てない」
何も返せなかった。
僕はすごい人ではない。
善人ぶるつもりもないし、今の自分はそんな余裕もない。
だが、受け取ったこの御守りが、掌のなかで少し温度を持った気がした。
荷台が再び揺れ、縄が手足に食い込み、刺すような痛みが走る。
苦痛に歪む僕の顔を見て、リナが少しだけ身を寄せた。僕の足首の結び目を見る。
「足の怪我、このままだともっとひどくなる⋯⋯これ、緩められるかやってみる」
自分も縛られているのに、リナは動かせる指先だけで器用に僕の足首の縄に触れた――そのとき。
麻縄の茶色が一瞬だけ薄くなった。
見間違いと言われたら言い返せないほど短い一瞬。
それでも僕たちの目には、はっきり揺らぎとして見えた。
結び目がわずかに緩んだ気もする。
リナが縛られた自分の手を見つめた。
「え⋯⋯今の、何?」
驚きと困惑を噛み殺すように呟く。
縄が解けた⋯⋯? ここから逃げられる?
そんな未来が——一瞬だけ現実になりかける。
だが、彼女の力はまだ曖昧だった。
意思すら伴っていない、微弱なもの。
「私⋯⋯わからない。だって、今までも何もできなかった⋯⋯から」
リナは唇を噛み、胸元を押さえた。そこにどのような紋章があるのか、僕にはわからない。
ただ、力の片鱗だけは確かに見えた。
荷馬車が勢いよく止まり、外の男の笑い声が一段大きくなった。
「さぁ着いたぞ!」
「今日は間引きの前夜だから客が増えてきているぞ」
後方の布の隙間から外が少し見えた。
石壁と黒と赤の旗。
門には明かりが灯り、それが連続して流れていく。
その空間にはざわめきとも歓声とも取れる声に満ちていた。
血と酒と恐怖の匂いが混ざり合い、肌にまとわりつく。
遠くで泣き声が上がり、すぐ掻き消えた。
また荷馬車が動き出す。
ここは息を吸うだけで汚れる気がする。
人が値札で並べられ、気まぐれで消えていく場所――競り場。
僕は悟る。ここからが、本当の地獄だ。
そして地獄だとしても、僕にできるのは逃げることだけなのかもしれない。
今ここから逃げることは、生き延びることだ。
生きるためには、確実に逃げ道を作らなければならない。
勝つためじゃない。負けないためでもない。
僕の決意に気づいたのか、リナが小さく――それでもはっきり言った。
「⋯⋯私、足手まといにはならないようにする。だから、もしあなたが何かするなら⋯⋯手伝う」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
答える言葉は見つからない。だが、僕は縄の結び目にできた小さな隙間を確かめてから、大きく頷いた。
あのとき、解ける未来は、確かに見えた。
また荷馬車が止まる。
後方の布が乱暴に剥がされ、今度は一気に光が流れ込んできた。
光の向こうで騒がしく聞こえてくるのは、人間に値札をつける声だった。




