第4話
血と酒。
獣と人。
濡れた藁と錆びた檻。
古びた鉄や腐った匂いが混ざり合う。
息を吸うと、この汚れた空気が喉に貼りつくようだった。
どこかで歓声のような笑い声がした。
どこかで誰かが泣いている声がした。
僕は伸びてきた手に捕まれ、荷台からゴミのように引きずり出された。
手首の縄は短く締められ、足の縄は少しだけ伸ばされる。
自力で歩けるように――ただし逃げられない長さだ。
「⋯⋯起きてるな。不安と恐怖の混じったいい顔だ」
笑いながらそう言われて、僕は背中を押される。
隣ではリナも無理やり立たされている。
リナの方が長い間荷台に乗せられていたからだろう。足元がふらついている。
リナはそれを歯を食いしばって耐えていた。
それを見て、僕は拳の中のものを落とさないよう力を入れた。
――角の欠けた木札。
リナが渡してくれたローイン村の御守り。
『見ろ……』
胸の奥で内側の声が短く落ちる。
敵を見ろ。状況を見ろ。逃げ道になりそうな場所を見ろ。
そう言われているのがわかった。
僕たちが歩かされている通路の先には、小さな木の台が置かれていた。
粗末な木製の台に、布切れを敷いただけの簡素な台だ。
捕まえられた人たちが、順番にその台に乗せられる。
そこで胸元の紋章を見られ、鑑定の結果——札を首から掛けられていた。
家畜の値付けそのものだった。
札を掛けられた後は、周りの視線が変わる。
――その瞬間から『商品』になる。
強く使える『紋章』なら高く、弱く使えない『紋章』はゴミとされる。
「次。ガキが2人か、台の上に行け」
背中を蹴られ、僕とリナは前に出された。
目の前の男が、僕の胸元を乱暴に引き裂く。
胸の黒痕紋章が露わになった瞬間、周囲の視線が一斉にこちらへ集まった。好奇でも哀れみでもない。
値踏みの目だ。
鑑定役の男は僕の紋章を覗き込み、眉をひそめた。
「ガキなのに濃い——だが、こいつは『紋崩れ』だ! ところどころ黒くつぶれてやがる。クソが!」
男の指先が紋の縁をなぞってから怒りをあらわにする。
「仕方ねえ、一応形もみておくか。生物紋、物体紋でもねぇ。事象紋の線も薄い⋯⋯」
聞き慣れないはずの言葉なのに、まるで昔から知ってる知識のように入ってくる。
「紋崩れじゃなかったとしても、属性紋みてえな希少紋でもない。⋯⋯該当しそうなものがない⋯⋯まさか⋯⋯不明紋か?」
周囲がざわめいた。
「不明紋って過去にいたか?」
「俺は聞いたことない。不明紋は災いの元だ」
「そもそも『紋崩れ』は客が嫌がるっていうのに、さらに災いってどういうことだ?」
「商品としての価値がないのなら、さっさと破棄しろ」
「待て、未覚醒のガキは殺すと神への冒涜となるだろ。ゴミを拾ってきたやつは誰だ?」
数人の連中が口々に話し、台の脇に唾を吐いている。
「じゃあ覚醒するまで奴隷として使うか、すぐに売るかだな」
「そもそも『紋崩れ』や『紋無し』は奴隷落ちってのが相場だろ」
――『紋崩れ』
――価値がない。
――ゴミ。
――奴隷。
それらの言葉が胸の奥に沈んで、冷たく広がっていく。
この世界じゃ、珍しいだけでは価値にならない。
次に、リナが前へ引き出される。
「一緒に来たこっちの娘はどうだ?」
汚れた手が遠慮なくリナの胸元をこじ開けた。
リナの肩が跳ねる。息を呑む音が近くで聞こえた。
僕は反射で一歩踏み出しかけたが、足の縄に引かれて止まる。
鑑定役の男はリナの紋章を見て、口元を歪めた。
「こいつは⋯⋯物体紋寄りか。線の出方が『鍵』の筋に近い。⋯⋯だが薄い。ガキだから仕方ねえ」
「じゃあ、育てる価値はあるか?」
「あぁ。鍵系は当たればデカい。金庫、扉、宝箱⋯⋯鍵が要る場所じゃ引く手数多だ」
男たちが下品な笑いをこぼした。
「それなら高くつきそうだな」
リナは唇を噛んだまま耐えている。目の奥の光が、少しだけ揺れる。
「値札を掛けろ。男は『不明紋疑い』・『紋崩れ』のゴミ。娘は『物体紋』寄り・推定『鍵』で価値ありだ、どっちも一旦檻に入れておけ」
鑑定役が札を放り、面倒くさそうに続ける。
「明日は間引きの日だ。覚醒済みの売れ残りを見に来る客が多い。『紋崩れ』のゴミでも、物好きな変態野郎なら来るかもしれん」
「なるほど、もし不明紋なら……」
「あぁ。レアはレアだ。こんなゴミでも高く売れるかもしれんぞ」
「――っははははははは! そりゃいい!」
そうして首に掛けられた札は、木片に数字と短い文言が焼き付けられていた。
――名前ではない値札。
その後、鑑定を受けた僕たちは列に並ばされ、石造りの通路を歩かされる。
両脇にはたくさん檻が並び、内側から手が伸び、泣き声が漏れていた。
定期的に置かれている電灯のような明かり。
その光の周りで人が体を動かす度に、影が壁を這う。
今、自分が立っている世界が、薄い塗料の層に沈むみたいに落ちていくような気がした。
――無力だ。
逃げることすらできない自分に、腹が立つ。
その思考を裂くみたいに、別の一角からざわめきが沸き起こった。
人垣の向こうには、台の上に縄で縛られた男が一人立たされている。
殴られて腫れた顔。
首元には小さな木札が揺れていた。
見覚えのある印――ローイン村の御守り。
僕の拳の中の小さな木札と同じだ。
二つを合わせればちょうど噛み合いそうな欠けも似ていた。
リナが息を止めた。
目が——その男の首元に吸い寄せられる。
「え⋯⋯⋯⋯お、お父さん⋯⋯?」
声が震えていた。
次の瞬間、台の上の男が顔を上げた。殴られて腫れた瞼の隙間からこちらを見た。
視線がリナを捉える。
口が動く。名前を呼ぼうとして――
「リ――⋯⋯――ッ!」
最後まで声を出せなかった。
笑いながら顎を乱暴に掴んだのは、通路の先で客を煽っていたこの区画の責任者だ。
腰には大振りの斧が下がり、刃の根元には黒ずんだ染みが何層も残っている。
「おっと。まさか家族か? 紋狩りのつもりだったが、こいつの娘っていうなら、覚醒前の起こし方にはちょうどいいじゃねえか! ひひひ」
勢いよく斧を抜いた責任者の男は、笑いながら頭上に掲げた。
「覚醒には感情を壊すのが一番早い! 泣け、喚け! 紋章がその隙間から目覚めるぞオオ!」
責任者の男は「ひひひ!」と大声で笑ってから、斧の柄で父親の首を反らせる。
リナの父親の首にかかっている金属製の首輪が一瞬だけ鈍く光り、その表面を溶かした。
「――っぐっぎぎぎ、ぁああああ!」
金属が焦げるような匂いが流れてくる。
それと同時に、父親の首の周りの皮も一緒に溶けていく。
責任者の男は舌を鳴らし、客席へ手を広げて言った。
「おめえら、今日のショータイムの始まりだァア! ひひひ」
ショー。
これが見世物だというのか。
リナの父親は必死に首を振って、何かを叫んでいた。
「や、やめて⋯⋯やめてぇぇぇぇえええええ!!」
リナの叫びはちゃんと届いていた。
だからこそ、連中は笑う。
「ほら反応した! 早く紋章を起こせ!」
「泣けよ、泣き足りねえぞ! 壊れろ、壊れろ!」
罵声が飛び交う。
人の心を弄ぶのが作業になっている場所だった。僕の拳の中の木札がさらに掌の中に食い込む。
「待って、私、やるから、起こすから!」
責任者の男が斧を持ち上げる。
光を弾いて一瞬だけ白く跳ねた。
だが、刃は勢いよく振り下ろされない。男はわざと刃先を父親の首元へ当てるだけにする。
再び溶けるような音がした。その瞬間、叫び声が響いた。
「ぐっ、ぐぁあぁああああ!!」
「ほら、もっと叫べ。娘の前だぞオ? ひひひ」
父親の体がびくりと跳ね、喉から声にならない吐息がさらに漏れた。
責任者の男はそれを見て笑いながら、それでも首から斧の刃を離さない。
父親の首筋はどんどん溶けていき、燃えたような異臭とともに白煙を上げていく。
そのとき、溶けて飴のようになった金属の首輪が転がった。
「グ、ググゥゥウアアああああ――!」
「あー、そろそろ我慢できねえ。もういいだろオ? 男の悲鳴はうるせえだけだ。ひひひ」
――ドスン。
次に聞こえたのは鈍い音とざわめきの波だった。
父親が首にかけていた御守りが宙を舞う。
ローイン村の護符。
端が欠けた木札が床に転がり、誰かの靴に蹴られて消えていった。
台の上の男の体が音を立てて崩れ落ちた。
歓声が上がる。
唾を吐く音がする。
笑い声が重なる。
――そして、わざとらしく誰かが叫んだ。
「拾えよ! ローイン村の護符だ! 縁起でも担いでみろ!」
笑いが起こる。
護符を蹴る音や踏む音が耳につく。
僕の拳の中の木札が、焼けるみたいに熱くなっていた。
胸の奥が黒く、重く沈んでいく。
リナの瞳から光が消えたように見えた。
そして――リナの指が⋯⋯無意識に動いた。
手首の縄が一瞬、色を失った。
その結び目がわずかに緩み、皆の目の前で縄の繊維が解けていく。
周囲の連中は獣みたいに沸いた。
「かーっははははは!! 来たな!!」
「大成功ぉぉおおおー!!」
僕はリナを直視できなかった。
僕もまだ力はうまく使えない。
仮に使えても、今はどうすることもできなかった。
その後の見通しがない。
生きるにはここから逃げなくてはならない。
この世界へ転生してきたとき、森で虎紋のレンたちに追われたときと同じだ。
逃げても拾われる。
先が見えない。解決策がない。
無力感が押し寄せた。
逃げるなら、逃げ方そのものを作り直さなきゃいけない。
僕の掌の中にある御守りは、リナが「ここにいた証」と言って渡してくれたものだ。
父の御守りが目の前で蹴られ、踏みつけられている。
リナの家族が――リナの帰る場所が、ただの紋章の覚醒のための『演出』にされた。
捕まって荷台に載せられた僕を、少しでも安心させようと渡してくれた御守り。
僕よりも年下なのに――自分だって恐ろしくて仕方ないはずなのに、あのときの手は無条件で他人を支える手だった。
その手を――この場所は笑いながら潰した。
――受け入れたくない。
こんな理不尽が、世界のルールだなんて。
リナが震える唇で呟く。
「⋯⋯私⋯⋯ここで何でもするから。だ、⋯⋯だから、お父さんを、助けてぇぇええ⋯⋯!」
その言葉が、檻の鉄格子より重く、深く、僕の胸に落ちていった。
娘の叫びもむなしく、台の上の体はもうぴくりとも動かない。
僕は心に誓った。
いつになろうと、必ずやる。
無価値と言われようが、ゴミとして扱われようが構わない。
この力を使って――強くなって必ず復讐する。
それができる日まで、僕は絶対に死ねない。
■紋章について
・すべての人間は、神から授かる――とされている『紋章』を持って生まれる。
・紋章が覚醒するまでは、紋の色は薄く、能力がかなり制限されることもあり、鑑定士以外は正式な種別を確定できない。
・多くの子どもは正式に鑑定の儀を行うことで、種別が判明する。だいたい16歳以降くらいから、紋章が濃くなっていく中で、自然と覚醒が起こる。
・希少な紋章だからといって、使える紋章とは限らない。
・未覚醒を殺すとその紋章を授けた神への冒涜となり、災いが起きるとされている。
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〈紋章の種別について〉
【とても多い】:100人中、9割以上が次の2種類の内のどちらかとされる。
①生物に関する紋章=生物紋
動物・鳥・虫・魚など、生き物の特性や身体能力を引き出す紋章。
脚力、嗅覚、飛行補助、爪や牙、甲殻など、元になった生物の性質が力として現れる。
②物体に関する紋章=物体紋
鎖・盾・剣・鍵など、実在する「物」に関する紋章。
その物を扱うことに特化しており、具現・収納・操作・強化などを通して力を発揮する。
【少ない】:100人中、5〜6人くらい。
③現象や動作に関する紋章=事象紋
斬る、溶かす、解く、騙す、隠すなど、形のない『作用』や『動き』に関する紋章。
物そのものではなく、『何を起こすか』が力の中心になる。
【非常に少ない】:10,000人中、5〜6人くらい。
④元素や属性に関する紋章=属性紋
火・水・風・土・雷・氷など、世界を形作る元素や属性に関する紋章。
全22種類あると言われている。
属性には出力が高く、戦闘向きのものが多い一方で、扱いには強い練度や適性が必要。
【極めて稀】:上記以外の不明なものは全てここ。
⑤分類不明の紋章=不明紋
既存の分類では説明できない、極めて特異な紋章。
数が少なすぎて体系化されておらず、能力の性質も出力も個体差が大きい。
世界の理そのものに触れるような例外も含まれる。
※不明紋はかなり珍しいこともあり、災厄を呼ぶなどの伝承がある地域も多い。




