第2話
巻き付いた鎖が鳴らす音だけが、静かな森の中に響いていた。
少し動くだけで、足首に激痛が走る。
その一方で、胸の黒い痕がじわじわと熱を持っている感じがした。
視界が狭くなり、色も薄れていく。
まるで景色が雑に色を塗った絵みたいに見えてくる。
葉の緑も、土の茶も、男たちの服の色も、全部が塗り潰したようだった。
『鎖……落と……せ』
鎖を落とせ? この鎖を壊して逃げろということか。
先ほど、無意識に鎖の一部の色を変えた。
それを自分の意思でやる――もちろん、やり方の説明なんてない。
「おい⋯⋯こいつ、何か隠してるぞ」
大男が前に出て、腰の剣に手を伸ばす。表情は笑っているのに、眼光だけが鋭い。
「面倒になる前に――」
「――ちょっと待て」
鎖男が制した。大男よりやや立場が上なのかもしれない。
ただし、鎖男の目は情けも優しさも何もなかった。
損得と値札だけで僕を見ている。
人の命の価値を測っている目だった。
「こいつは『紋崩れ』で未覚醒だ。未覚醒を殺るとかなり面倒なことになるのは知ってるだろ」
鎖男が吐き捨てるように言う。
「紋章が崩れていても普通ならだいたい分かるものだ。しかし、こいつの紋章はそれ自体、俺は見たことがない。不明紋だとしたら、不吉の象徴だ」
「ふん……じゃあどうする?」
大男は答えを待たず、こちらへ向き直ると全身に力を入れた。その途端、大男の背中がぞわりと逆立ち、二回り以上膨れ上がったように見える。
そのとき――森の奥から別の足音が近づいてきた。
目の前の二人の荒っぽい足取りとは異なる。
音は少ないのに、空気の重苦しさがこちらまで押し寄せてくる。
まだここからは遠いはずだが、言い表せない圧だけが先に届いていた。
『……逃……ろ……!』
電光のように鳴り響いた内側の声はとても低かった。その低さが危険を教えてくれている。
数秒後、木々の隙間から現れたのは人じゃなかった。
いや、人の形はしている。
だが、背中から肩にかけたラインが獣を思わせるほど力強い。肩口には薄い黄毛のような揺らぎが見え、目の奥には金色の光が灯っていた。
――まるで野生の獣だ。
その男の右目は顔の外側から口の端にかけて、爪跡のような黒い線が三本走っている。その傷のせいで、無表情でも口元が少しだけ吊り上がって見えた。
髪は短めで少し薄暗い黄――濡れた毛皮のような色。
革の装備は体にしっかりと密着していて、肩だけはさらに違う色の革で補強してある。
両手には黒鉄の小手がはめられ、その先には鋭い爪状の武器が見えた。
大男が急に姿勢を正した。
それに遅れず、鎖男も口元を引き締めて直立する。
二人とも先ほどまでの粗雑さが一切なくなっていた。獲物を見る目から主人を見る目――従順さと恐怖が混じった目へと変わっている。
獣そのものの威圧感を纏うその存在は、僕の胸から見えていた紋章を一瞥する。
「⋯⋯『紋崩れ』か。……だが、何だお前は……?」
空気そのものが震えた。
男はただ立っているだけなのに、それだけで呼吸が止まりそうになる。野生の狂獣と相対したときの恐怖が、理屈抜きで胸を押し潰してくる。
「俺は⋯⋯虎紋が一人、レンだ」
名乗りは短いのに、場の空気一帯がレンのものになったかのようだった。
「お前ら、未覚醒の『紋崩れ』を拾って喜んでいたのか?」
レンが二人の男を見下ろす。鎖男は即座に首を振りかけて、慌てて言葉を探した。
「いえ、このガキは俺の鎖を……一瞬だけ鈍らせました。まだ覚醒すらしてないガキですが――」
「――黙れ」
短く、鋭い声。
鎖男が言葉を飲み込み、大男も笑みを消した。
「次の計画まで遊んでいる暇はない。必要なのはすぐに使える強者のみ。そう言ったよな⋯⋯?」
金色の瞳が、男たちを真正面から捉える。
「こんなガキを一人狩っても何の意味もねえ。ガキは育ててから使うか、あるいは殺すか――だ」
レンの目が金色に光る。
「――いや、もう一つあったな。ただ、玩具にするかか」
レンから一気に殺気が噴き出した。
僕の体を死の恐怖が襲い、吐き気が喉をせり上がった。
「い、いやだ……」
声が掠れる。
「や、や、やめろぉおおお……!!」
大男が腹を抱えて笑った。
「はーはっはっ!! やめろぉーだってよぉー!」
鎖男が鎖を大きく引く。足首が引きちぎれそうになる。
痛みで涙が滲みそうなのに、泣いたらもっと笑われる気がして歯を食いしばった。
怖い。
身体が震える。
情けない。
悔しい。
それでも息を吸った。肺が悲鳴を上げる。吸わなき、次の大きな一歩が出ない。
視界の端から全体が一気に色を失っていく。
森の色が塗られたものとして見えた。
鎖の銀色も、男たちの赤茶も、レンの金色の目さえ、ただの塗料みたいに感じる。
『鎖』『一点』『黒』『足』『紋』
『――潰せ』
周囲の音が消え、内側の声だけが頭を占めた。
僕は混乱の中で、生きるために足首の鎖へ意識を向ける。これさえなくなれば、逃げられるかもしれないのだ。
鎖の一番邪魔な一点を探す。
欲張るな。全部を消そうとするな。
ここを外せば、逃げられる――その一点のみを壊せ。
胸の黒痕が強く滲む。
指先が冷たくなる。体温がどんどん奪われていく。
鎖に向けて凝縮された『黒』を――落とす。
狙った鎖の要の部分が色を失い、黒く沈んだ。
最初から無かったみたいに、バキリと砕け散った。
「――っ!?」
鎖男が目を見開く。
その瞬間、足首を拘束していた感覚が消え、一気に解放される。
だが、同時に痛みが押し寄せた。
脚に力を入れると足首から血が噴き出していた。
それでも、僕は走った。
膝が崩れそうになる。視界が揺れる。
それでもここから逃げるためには走るしかない。
「……おもしれぇ。おい、あのガキを捕まえた方には褒美をやる。――早く行け」
森が揺れる。背後で枝が無造作に折れる音が連続で追ってくる。
『左……斜面⋯⋯へ』
内側の声は冷静に指示を飛ばしてくる。
僕は言われるがまま方向転換し、木々の間を縫って走った。
呼吸が持たない。喉が焼ける。
足首の激痛で頭が狂いそうになる。
背後で空気を裂く音がした。
――鎖だ。
鎖が空間を切断する刃のように鋭い一閃で飛んできた。
避けた先の大木が縦に削られ、樹皮と枝葉が爆散する。破片が頬を掠めて散っていった。
痛みより先に、恐怖が来る。
あれに当たれば――間違いなく命が終わる。
『連……ぞく、やめ……ろ』
それは僕自身も分かっていた。
あの力を使うと、一気に意識が遠のく。
今の僕には、まともに扱える力ではないのだろう。
だが――背後の殺気が近い。
僕は逃げの一歩を踏み出したとき、地面の泥に滑り、前方へ転びかけた。
視界が白くなる。次の瞬間、背筋がぞわっと寒くなった。
――来る。
反射的に防御姿勢をとる。
何かがものすごい衝撃で両腕にぶつかった。
あの大男の腕。振り向くと、やつは笑っていた。勝ち誇った顔で。
「捕まえ――」
言い切らせなかった。
僕は掴まれた大男の腕を見る。
その一点だけに『黒』を落とした。
「…………………………は?」
次の瞬間、大男の前腕のど真ん中が――最初からこの世界に存在しなかったみたいに消滅したいた。
遅れて血が噴水みたいに吹き出し、悲鳴が森を裂いた。
「ギ、ギャァァぁぁあああッッ――――!!!」
大男が怯んだその一瞬が、僕の命を繋いだ。
無我夢中で走った。走って、走って、走って――。
足がもう限界を迎えたところで、視界が暗転した。
暗闇の底で、何か声が聞こえた気がした。
それが現実なのか、錯覚なのか――僕には分からなかった。




