表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/80

第3話

  

 暗い。湿った布の匂いに、獣舎みたいな生臭さが混じっている。

 床板が規則的に震えるたびに、振動がじかに伝わってくる。この揺れは、運ばれている揺れだ。


 体は鉛を詰め込まれたみたいに重い。床が揺れると、全身に鈍い痛みが走る。

 瞼を開けようとしても、それすら筋肉が拒む。

 悪い夢だと思いたかった。

 だが、目覚めた先がこの状況なら、もう受け入れるしかない。この世界を。


 倒れた後のことは、まったく覚えていない。

 虎紋のレン一派から逃げ切れたと信じたかった。

 森の闇に紛れて、息が続く限り走って、最後は倒れて⋯⋯それでも『生き延びた』と思いたかった。


 だが現実は違った。

 床板の冷たさとこの暗がりが、現実を突きつけてくる。


『外』『聞け』


 内側の声が短く落ちた。――この声。

 やっぱり、夢じゃないか。


 僕は息を浅くし、耳だけで外の音を拾う。


 車輪が石に乗り上げ、荷台が跳ねた。

 木が大きく軋み、どこかの金具が不規則に鳴る。外では動物が歩く音が定期的に聞こえ、蹄が地面を踏むたび、その震えが床板を通して背中へ伝わってきた。


 意識を集中していると、男たちの声が分厚い布越しに聞こえてくる。


「――拾いもんが増えたな」


「川辺に倒れていたから死んでるかと思ったが、出血も止まってる。運がよかったな」


「生きてりゃ少しは金になるだろ」


 逃げた子ども。金になる。

 その言葉が頭の中で黒く、重く沈殿していく。


 胸の奥から何かが滲んで広がり、体温を奪っていくような感覚が強くなる。

 怒りより先に、無力感が湧き上がった。結局、捕まったままだ。


 足首を動かそうとした瞬間、皮膚に何かが食い込んだ。縄だ。手首も同じように縛られている。

 鎖男にやられた足首の傷の上から、縄がきつく締め付けられていた。


 意味がわからないまま転生して、追われて、起きたらまた運ばれている。

 誰かの機嫌ひとつで人生を壊される――そんな今の状態に、何もできない自分に腹が立つ。


 どうにかしなければ。


 そのとき荷台の後方の布が、ふっと動いた。

 一瞬、外の光が細い刃みたいに差し込む。

 眩しさの中で、今いる場所の輪郭が少しずつ浮かび上がった。床に転がされるように置かれた自分。手足を拘束する縄は、あのときの鎖みたいな重さはない。

 (あれ)を壊せたのなら、この縄だって外せるかもしれない。


 そう思った瞬間、同時にわかってしまう。

 今、あの力を使えば、また意識が落ちる。


 ここで倒れたら終わりだ。逃げられないなら⋯⋯殺されないための理由を考えろ。

 そのとき、反対側で小さく息を呑む音がした。


「⋯⋯起きてる?」


 囁くような小さな声。

 声の方へ目だけ向けると、女の子が荷台の隅に身を寄せ、もたれかかっていた。

 髪は肩甲骨あたりまで伸び、汗と土でところどころ束になって頬に貼りついていた。

 そのくすんだ金髪の隙間から覗く赤い瞳だけが、やけにまっすぐこちらを見ている。唇は乾き、肌の色も悪い。疲れだけが積み重なり、体の状態が悪くなっている。


「⋯⋯起きてる。あまり大丈夫ではないが――」


 苦笑いで答えると、彼女も小さく笑った。

 その笑顔は、この場所に似つかわしくないほどまっすぐだった。


 荷台がもう一度大きく揺れた。

 僕の身体が跳ね、そのまま頭をぶつけそうになる。


 その瞬間、彼女が反射で身を寄せてきて、僕の肩を自分の体で支えた。頭が当たらないように、受け止めてくれた。


「⋯⋯危ない。私は慣れたけど、あなた、すでにいろいろケガしてる」


 不安に押しつぶされそうなのに、僕のことを本気で心配してくれているのが伝わってくる。

 なぜ、そんなことができるんだろう。この状況で。


 独りじゃない。それだけで気持ちが少し軽くなった気がした。


「私たち、競り場っていうところに運ばれてるみたい。さっき外の男たちが言ってた」


 競り場?

 何かを競るところ⋯⋯いや、この状況で『競る』のは――。


「⋯⋯あなたは⋯⋯珍しい紋章?」


 その言葉を聞いたとき、胸の黒痕が疼いた。

 僕が黙っていると、彼女は無理に踏み込まず、僕を安心させるみたいに自分の話を始めた。


「私はリナ。ローイン村出身。紋章はまだ何かわからない。⋯⋯隣町の市場に行った帰りに捕まった。途中までは逃げたんだけど、追いつかれて⋯⋯」


 淡々と話すが、最後の一言だけわずかに揺れた。『逃げた』という言葉の中に、恐怖と悔しさが詰まっているのがわかる。


 そこでリナは、ほんの一瞬だけ迷う顔をした。

 それから意を決したように、縛られた手をうまく動かし、自分の首元――服の隙間から何か小さなものを引き出した。


 紐に繋がった木片。親指ほどの木札だ。


「⋯⋯これ。私の村の印。お守りみたいなもの」


 彼女はそれを、僕の掌の中に押し込んだ。少し冷たくて軽い。

 なのに、これだけは落とせない重さがあった。


「お願い。⋯⋯もし、あなたが生き残ったら、お父さんに伝えてほしい。私がここにいたっていう証を」


 息が止まる。

 ――彼女は、僕に託すという選択をした。


「⋯⋯なんで、僕に」


「見てたら⋯⋯なんとなく。たぶんあなたは――強い。あと、誰かを見捨てない」


 僕は何も返せなかった。僕はすごい人ではない。

 善人ぶるつもりもないし、そんな余裕もない。

 だが、受け取った木片が、掌のなかで少し温度を持った気がした。


 荷台が再び揺れ、縄が手足に食い込み、刺すような痛みが走る。視界が一瞬白くなる。

 苦痛に歪む僕の顔を見て、リナが少しだけ身を寄せた。僕の足首の結び目を見る。


「足の怪我、このままだともっとひどくなる⋯⋯緩められるかやってみる」


 自分も縛られているのに、リナは動かせる指先だけで器用に僕の足首の縄に触れた――そのとき。


 麻縄の茶色が、一瞬だけ薄くなった。見間違いと言われたら言い返せないほど短い。

 それでも僕の目には、はっきり揺らぎとして見えた。結び目が、わずかに緩んだ気がする。


 リナも気づいたのか、指を引っ込め、自分の手を見つめた。


「え⋯⋯今の、なに?」


 驚きと困惑を噛み殺すように呟く。


 縄が(ほど)けた⋯⋯? 逃げられる?


 そんな未来が、一瞬だけ現実になりかける。

 だが、彼女の力はまだ曖昧だった。意思すら伴っていない、微弱なもの。


「私⋯⋯わからない。だって、今までも何もできなかった⋯⋯」


 リナは唇を噛み、胸元を押さえた。そこにどんな紋章があるのか、僕にはわからない。

 ただ、力の片鱗だけは確かに見えた。


 荷馬車が勢いよく止まり、外の男の笑い声が一段大きくなった。


「さぁ着いたぞ」


「今日は間引きの前夜だから客が多いぞ。売れ残りの覚醒者は処分で回る。ハズレでも捌けるだろう」


 後方の布の隙間から外が見える。

 石壁と黒い旗。

 門には明かりが灯り、それが連続して流れていく。

 ざわめきとも歓声とも取れる声が辺りを満たしていた。血と酒と恐怖の匂いが混ざり合い、肌にまとわりつく。

 遠くで泣き声が上がり、すぐ掻き消えた。


 鉄が軋む音と、何かが動く音。

 荷馬車が動き出すと、空気の密度が変わった。森の空気とは別物だ。人の体温と汗と酒と血が渦になり、息を吸うだけで汚れる気がする。


 人が値札で並べられ、支配者の気まぐれで消えていく場所――競り場。


 僕は悟る。ここからが、本当の地獄だ。

 そして地獄だとしても、僕にできるのは逃げることだけなのかもしれない。

 逃げることは、生き延びることだ。

 小さく、確実に逃げ道を作る。

 勝つためじゃない。負けないためでもない。


 僕の決意に気づいたのか、リナが小さく――それでもはっきり言った。


「⋯⋯私、足手まといにはならないようにする。だから、もしあなたが何かするなら⋯⋯手伝う」


 胸の奥が、ぎゅっと引き締まった。

 答える言葉は見つからない。だが、僕は縄の結び目にできた小さな隙間を確かめてから、大きく頷いた。


 (ほど)ける未来は、確かに見えた。


 また荷馬車が止まる。

 後方の布が乱暴に剥がされ、光が一気に流れ込んだ。

 その光の向こうで聞こえてくるのは、人間の価値に、値札をつける声だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紋章/能力バトル/ファンタジー/逃亡劇/神話/成長/レベルアップ/属性
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ