第23話
シヴァの短い声が落ちた。
さっきまでの遊びも、試すような響きも、もう含まれていない。
言い終えるより早く、シヴァは僕たちの前へ出ていた。
敵へ踏み込むためではなく、自らが壁になるための位置だ。
カスミの影が僕たちの足元へ広がる。
黒い幕のような影が、膝下を包み込んだ。
「動かないで。貴方たちは必ず逃がす」
その声で喉が詰まった。
逃がす。戦うでも援護でもない。
今の僕たちは、この場の戦力として数えられていない。
この距離、この圧、この広間ごと動くような気配の前では、僕たちの一手は遅すぎる。
広間の入口側でも太い根が動いた。
逃げ道が、ぎしぎしと狭まっていく。
「カスミ」
「分かってる。でも、影の出口まで根が潜ってきてる」
声が硬い。
カスミの『影』ですら逃がすことが簡単ではない。
奥の緑層がさらに持ち上がった。
それは樹木ではなかった。
魔獣でもなかった。
太い根が何本も束になり、アッシュタイガの骨と毛皮を巻き込みながら、一つの頭のような形を作っている。
魔獣の骨が飾りみたいに刺さり、潰れた金色の目が根の隙間にぶら下がっていた。
根の表面には古い樹皮のような裂け目があり、その奥から緑に濁った光が滲んでいる。
まるで大樹が死んだまま動いている。
「……樹骸……か?」
シヴァが低く呟いた。
その中央に、黒く濁った魔核の光があった。
心臓のように脈打っている。
光るたび、周囲の根が遅れて震え、広間の石床まで小さく鳴った。
「あれは……魔物、なのか」
「おそらく。ただ、魔核はあるけれど、普通の個体じゃないわ」
カスミが低く答える。
「根が魔核を持っているのか、魔核が根を集めているのか分からない。どちらにしても、ただの樹骸じゃない」
その巨大な体のような形を動かして、こちらを向く。
赤く光っている部分が、あれは目ではない。
だが、相手に気付かれたと直感的に分かってしまった。
リナの鎖が小さく鳴った。
震えではない。握る手に力が入りすぎている音だった。
「アーテル……」
「ああ、今は見ることしかできない」
シヴァの足元に雷が走る。
だが、派手に爆ぜない。
細く、低く、地面へ押しつけるような雷だった。
攻撃ではなく、敵を後ろへ通さないための雷だ。
「あいつから来る圧でだいたい分かる。ありゃAクラス相当だ」
Aクラス相当。
その言葉だけで、息が詰まった。
僕がこれまで見た中で、本気で死を感じた魔物はリンドリウムで見たグリムアッシュタイガだ。
近くにいるだけで体が動かなくなり、戦うという考えすら潰された。
だが、あれでもBクラスだった。
目の前のこれは、そのさらに上ということ。
「お前らは下がることだけ考えろ」
シヴァが言う。
「でも――」
リナが言いかけた瞬間、シヴァが振り返らずに遮った。
「いいから聞け。今のお前らが前に出たら、守る手が一つ余計に増える」
きつい言葉だった。
だが、見下した色はない。
――守ると、最初からそう言っている。
カスミも僕たちの横へ影を伸ばしながら続ける。
「生きて帰ることが貴方たちの仕事よ」
その瞬間、巨大な樹骸が動いた。
頭の形をした塊が、音もなく前へ傾く。
次いで、広間全体の根が一斉に起き上がった。
突然目の前の石床が割れ、地面や壁から根が噴き出す。
天井の草が千切れ、雨のように落ちる。
シヴァが長剣を抜いた。
刃が激しく雷を帯びている。
眩しいほどの光なのに、広がらず剣に集束していく。
雷は剣の周りだけに押し込められ、僕たちの前に一本の境目を作った。
「カスミ、3人を後ろへ。間に合わないなら、俺ごとやれ」
「馬鹿言わないで」
二人の声は短かったが、そのやり取りだけで分かった。
この二人は、もう勝ち方ではなく、僕たちを生かす手順を組んでいる。
胸の奥が熱くなる。
怖いのに、悔しいのに、その背中から目を離せなかった。
樹骸が低く息のような嫌な空気を吐いた。
次の瞬間、広間の地面から何十本もの根が槍のように突き上がった。
「伏せろ!」
シヴァの雷が横へ一気に走る。
根の槍がまとめて弾け、焦げた匂いが広間に散った。
だが、焼けた根の下から、次から次へと凄まじい速度で根が伸びてくる。
灰白の石を砕き、緑の泥を撒き散らしながら、まるで広間そのものが僕たちを掴もうとしているみたいだった。
カスミの影が僕たちの体を包む。
足元が沈む。世界の音が遠くなる。
――《影帳》。
だが、すぐに影の膜が歪んだ。
根が影の外側を叩いたわけではない。
影の出口そのものへ、壁の内側から根が伸びている。
「っ……出口を潰してくる」
カスミの声に、初めて焦りが混じった。
その一言が一番怖かった。
カスミの《影帳》でも、簡単には逃げられない。
Aランクパーティの二人がいても、僕たちはまだ安全ではない。
樹骸の魔核が強く光った。
広間の奥で、アッシュタイガの死骸が根に巻き取られていく。
骨が砕け、毛皮が沈み、緑の魔核の光が一瞬だけ濃くなる。
「た、食べてる……?」
リナの声が震えた。
魔物の死骸を餌にしている。いや、死骸だけじゃない。
魔核ごと取り込んで、根を増やしている。
シヴァが低く舌打ちした。
「長引かせると不利だな」
「分かってる。でも、ここで大きく撃てば通路が落ちるかもしれないわ」
「なら、小さくいくか」
シヴァの剣先が下がる。
雷が細く束になり、刃の根元へ集まった。
次に踏み込めば、広間ごと裂ける。
そう思った瞬間、カスミが僕たちの肩を影で押した。
「後ろへいって」
僕たちは動いた。動くしかなかった。
リナが鎖で伸びる根を払う。
イスカが細剣で足元の根を即座に切っていく。
僕は《瞬纏》や通り道の石床へ《留黒》を置き、突き上がる根の勢いを一瞬だけ遅らせた。
戦っているわけじゃない。
逃げるための一瞬を作っているだけだ。
それでも、その一瞬をカスミは逃さなかった。
影が僕たちの足元を引き、体が後ろへ滑る。
だが、樹骸の反応も速かった。
広間の奥にある魔核が脈打つ。
次の瞬間、僕たちの石床が下から盛り上がった。
太い根が弓のようにしなり、こちらへ打ち込まれる。
「アーテル!」
リナの声。
イスカの踏み込み。
カスミの影。
全部が同時に動いた
僕は反射的に『黒』を置く。それも空中に展開していた。
根の先端がその黒に触れた瞬間、向きが落ちる。
そのずれた先を、イスカの細剣が貫いた。
翠脈石の細い光が一瞬だけ走り、根の表面を裂く。
リナの鎖が裂け目へ絡み、横へ引いた。
根の軌道が外れる。
だが、完全には止まらない。
太い根の腹が僕たちの横を掠め、風圧だけで体が持っていかれた。
カスミの影が受け止める。
それがなければ、壁へ叩きつけられていた。
そこへ、雷が広間を横切った。
派手な爆発ではない。
細く絞った雷が、根の束だけを正確に焼き切っていく。
樹骸の頭が揺れた。
緑の魔核が一瞬だけ露出する。
カスミの影がそこへ伸びる。
刃のように細くなった影が、魔核の周りの根を縫い留めた。
「今――」
「――分かってる」
シヴァの長剣が雷を纏う。その光が、広間の緑を白く焼いた。
だが、樹骸の方が先に動いた。
自分の頭を構成していた根を自ら千切り、魔核ごと後ろへ沈む。
シヴァの一撃は根の塊を割ったが、魔核までは届かない。
砕けた根の隙間から、緑の光が奥へ逃げようとする。
「逃げるのか?」
「違う」
カスミが即座に否定した。
「この広間を捨ててる?」
その意味を理解する前に、足元が沈んだ。
周辺の石床が大きく割れる。
広間の中央が、根に引きずられるように崩れていく。
僕はリナの腕を掴んだ。
リナは反対の手でイスカを咄嗟に掴む。
カスミの影が僕たちを包もうとした。
だが、割れた石床の下から伸びた根が、影の下へ潜り込んでくる。
「くっ……!」
カスミの声が弾けた。
シヴァがこちらへ振り返る。
初めて、その顔から余裕が消えていた。
「カスミ!」
「落とされる!」
次の瞬間、広間の底全体が抜けた。
足場が消えた。
体が宙へ投げ出され、石と根と土が、暗い穴の中へ一気に落ちていく。
僕はリナの腕を離さなかった。
リナもイスカを離していない。
カスミの影が空中で僕たちを包む。
シヴァの雷が頭上で弾け、落ちてくる石を砕いた。
だが、落下は止まらない。
崩れたところから、周りの壁がすごい速さで上へ流れていく。
灰白の石。
緑の根。
土の層。
それらが何度も何度も視界の端を過ぎた。
まだ地面に着かない。
かなりの距離を落ちている。
ただ足元が抜けたのではない。
迷宮の底へ、深く堕とされている。
耳の奥が痛む。風が喉を押し潰す。
落ちた石の音が、ずっと遅れて下から返ってきた。
暗闇のさらに奥で、巨大な緑の魔核が脈打っていた。
樹骸も下へ落ちている。
――いや、僕たちごと引きずり込んでいる。
「カスミ!」
「止めきれない!」
カスミの声が初めて強く揺れた。
影が僕たちの体を包み、落ちる速さを殺そうとする。
それでも足りない。
このまま落ちれば、まず助からない。
そう思った瞬間、暗闇の底から青白い光が走った。
一瞬、空気が凍ったような気がした。
落ちていた石が次々と氷に包まれ、壁際へ押し流されていく。
だが、僕たちの落ちる先に広がったのは硬い氷ではなかった。
――白く柔らかい雪。
暗闇の底に、分厚い雪が一気に膨れ上がる。
何層にも重ねたような粉のような雪。
「こっちで受ける」
聞き覚えのない、冷えた声が響いた。
次の瞬間、僕たちは雪の中へ沈み込んだ。
「っ……!」
全身が冷たい。
だが、硬い地面へ叩きつけられるような衝撃は来なかった。
雪が深く沈み、体を受け止めてくれている。
「アーテル!」
「大丈夫……リナは?」
「平気。イスカは?」
「……無事です」
イスカの声が近くから返った。
細剣を抱えるようにして、雪の中から体を起こしている。
かなり深く突き刺さったような形で、這いずり出るのに苦労していると、突然その周りの雪が流れるように崩れた。
溶けたというより制御されて退いた。
僕たちの体を押し潰していた雪だけがさらさらと横へ流れ、足元へ白い波を作る。
濡れるほどの水にはならない。
細かな雪のまま、必要な場所からだけ静かに消えていく。
「痛みはあるか?」
僕たちの体は柔らかく地面へ下ろされる。
「大丈夫です。この雪で助かりました」
「礼はあとでいい。まず息を整えろ」
男の声は短い。
だが、落ちてきた僕たちを見捨てる気はないことがわかる声だった。
頭上ではまだ石が落ちている。
青白い氷がそのたびに走り、危ない塊だけを空中で止めて壁際へ流していく。
人は雪で受ける。
石は氷で止める。
根だけは、届く前に凍らせて砕いていた。
それを、この一瞬で選び分けている凄まじい制御。
少し離れた場所に、淡い青灰色の髪を後ろでまとめた男が立っていた。
片手を軽く下げているだけなのに、その周囲では雪と氷が生き物みたいに動いている。
その隣には、淡い外套をまとった女もいる。
柔らかい雰囲気なのに、足元へ伸びた根は彼女へ触れる前に黒ずみ、力を失って萎れていく。
「レイナス、これは合流と言っていいのでしょうか」
女が穏やかに言った。
「落ちてきた側に聞け」
レイナスと呼ばれた男が冷たく返す。
そこへ、少し遅れてシヴァが地面へ降り立った。
カスミも影から抜けるように姿を現し、すぐ僕たちの前へ立つ。
「遅いぞ、レイナス。ミレア」
シヴァが剣を構えたまま、口の端だけを上げた。
ルルレーダン側へ入ったシヴァとカスミ。
翠緑側へ向かったはずのレイナスとミレア。
Aランクパーティの四人が、この迷宮の深い下層で揃っていた。




