第22話
僕たちが大穴を越えた瞬間、周囲の空気が一気に変わった。
ルルレーダンの迷宮の壁の冷たさが背中へ遠ざかり、代わりに濡れた草と土の匂いが鼻の奥へ入り込んでくる。
まだ足元は石床が続いている。
だが、その上を薄い苔と根が覆い、目先には僕の腰ほどもある草が密に生えていた。
振り返ると、さっき通ってきた大穴の縁に太い根が絡みついていく。
灰白の壁石を砕きながら、何本もの根がルルレーダンの迷宮へ繋がる大穴を塞いでいく。
「やはり、戻り道を潰されたわ」
カスミの声は静かだった。
だが、軽い状況ではないことだけは一瞬で分かる。
シヴァは前を見たまま、紫の肩掛けを揺らして一歩出た。
「ここで止まるな。敵から押し込まれてるなら、押され切る前に場所を取るぞ」
「どこに行く?」
リナが聞く。
「生きて動ける場所だ」
「何かかっこいいけど、ちょっと雑……」
「正確だろ」
シヴァはそう言って笑う。
草むらの奥で、金色の目がいくつも開いた。
アッシュタイガの群れが、僕たちの周囲をゆっくり囲うように位置を取っている。
リナが鎖へ触れ、イスカも細剣の柄に手を置いた。
だが、それを見たカスミがすぐに言う。
「群れを貴方たちで相手にする必要はないわ」
その一言で、少しだけ息が通った。
「シヴァと私で群れを押さえる。あなたたちは抜け道を作って。倒そうとしなくていい。一瞬、通れる形にするの」
「倒さなくていいんだな?」
僕が確認すると、シヴァが口の端を上げた。
「倒せるなら倒してもいいが、今はそこじゃない。こういう異常事態で大事なのは、勝ち切ることより死なないことだ」
その言い方は妙に腹に落ちた。
勝つためではない。
生き残って進むための一手。
正面の草が揺れた。
1頭のアッシュタイガが低く飛び出す。それと同時に、右側から別の2頭が回り込んだ。
瞬時にシヴァが動いた。
雷が地面を走る。右へ回った2頭の足元が弾け、アッシュタイガが吠えながら草の奥へ跳ね戻された。
追わない。
追えば、正面の1頭が僕たちへ届くからだ。
カスミの影が足元を薄く覆った。
冷たい影が、左へ抜ける場所だけを示すように広がっている。
「正面、来る!」
リナの声と同時に、アッシュタイガが跳んだ。
鎖が鳴る。
リナは敵を縛ろうとはしなかった。飛び込む幅を削るように、草の上を横切らせる。
「右へ!」
僕はその先へ意識を落とした。
「――《留黒》」
黒が草の下の石床に落ちる。
アッシュタイガの前脚がそこへ乗った瞬間、勢いがわずかに乱れた。
止まらない。
Cランクの重さは今の僕の『黒』を押し切ってくる。
だが、乗った前脚は低く落ちた。
その一瞬に、イスカの突きが相手に向かう。
細剣の奥に沈んだ翠脈石が、草の緑を受けて細く光っていた。
踏み込みは深い。
昨日の訓練場で見た模擬剣の動きとは違う。
本物の細剣が、イスカの体と一緒に前へ伸びている。
「――《一閃・破鋼》」
硬い毛と筋肉の下へ、刃が入った。
首ではない。
前脚の動きを殺す場所だ。
アッシュタイガは唸り声のような悲鳴を上げ、倒れるように転がった。
だが、それだけで僕たちが通れる穴ができた。
「今!」
カスミの声が飛ぶ。
僕たちはその脇を抜けた。
倒すための一撃じゃない。
通るための一撃。
それでも、今の一瞬は確かに三人で作ったものだった。
「悪くない」
シヴァの声が背中から来る。
その直後、雷がまた弾けた。
別のアッシュタイガが飛びかかる前に、足元を撃たれて草むらへ転がる。
だが、安心する暇はなかった。
さっきイスカが前脚を貫いたアッシュタイガの体に、地面から伸びた太い根が絡みついた。
獣が吠える。
次の瞬間、その体が地面へ叩きつけられた。
嫌な音がした。
アッシュタイガの首が、力任せに押し潰されている。
爪でも牙でもない。根によって。
アッシュタイガを捕まえた根が、まるで獲物を締める大蛇のように絡み、さらに奥の草むらへ引きずっていく。
リナの顔から血の気が引いた。
「……アッシュタイガが……襲われてる?」
「ありゃ、餌扱いだな」
シヴァの笑みが消えた。
その顔を見て、背中が冷えた。
Aランク冒険者のシヴァが笑わなくなった。
「群れが僕たちを囲っていたんじゃない」
口に出してから、気づく。
アッシュタイガたちは僕たちを追っていた。
だが同時に、何かから逃げてもいた。
カスミが影を広げたまま頷く。
「追われた魔物は、弱いものを前へ押し出すことがあるわ。今の群れもそう。私たちを襲いながら、奥へ行かせようとしている」
「迷宮の方が道を選ばせてるってこと?」
リナの声が低くなる。
「そう見えるわ」
カスミが短く答えた。
通路だったはずの場所は、もう草と根で半分ふさがっている。
灰白の石壁が内側から割れ、そこから緑が溢れていた。
シヴァが剣の柄に手をかける。
「やっぱり、焼き斬るか」
「少し待って」
カスミが即座に止めた。
「じゃあどうする? 面倒だな」
「面倒でも今は崩さないで」
シヴァは舌打ちしたが、剣は抜かなかった。
その代わり、足元へ細い雷を落とす。
雷は草を焼き払うほど大きくない。
根の表面だけを焦がし、伸びようとする先端を止める。
派手ではない。
だが、これだけ細かく雷を扱えること自体が異常だった。
「進むぞ」
シヴァが言う。
僕たちは草の薄い方へ走る。
リナは《解読》で周囲を見ながら進む。
「右の方、嫌な動きしてる。根がこっちを先回りしてる」
「じゃあ左か?」
「左は草が濃すぎるわ。足を取られる」
すぐにカスミが返す。
「正面の低い岩を越えるわ。そこだけ根が浅い」
影が岩場へ伸びる。
僕たちはその上を踏んで進んだ。
背後でアッシュタイガが吠える。
群れはまだ追ってくる。
だが、さっきまでのように飛び込んではこない。
周囲の根を恐れている。
それが分かるだけで、アッシュタイガより奥にいる何かの大きさが見えた気がした。
岩を越えた先で、突然視界が開けた。
そこは草地ではなかった。
半分は石の広間。半分は植物の巣。
灰白の石床が広がっているのに、その上を太い根が網のように覆っている。
壁の片側はルルレーダンの灰白石の層が見えている。
反対側は、土と緑の層がむき出しになっていた。
まるで、二つの迷宮の壁が途中で無理やり貼り合わされているようだった。
「……これ」
リナが言葉を失う。
僕も同じだった。
灰白の石壁に、翠緑の根が食い込んでいる。
そういう状態だと思っていた。
違う。
ここでは、灰白の壁そのものが途中で終わっている。
その向こうに、別の迷宮の空間が広がっている。
カスミが静かに息を吐く。
「ルルレーダンの奥に、別の迷宮が入り込んでいる……というより」
「もともと一つだったものが、こっちで顔を出した」
僕が言うと、カスミはこちらを見た。
「その可能性が高くなったわ」
シヴァは広間の中央へ進み、足元へ落ちていたものを拾った。
小さな金属製の板だった。
土と錆で汚れている。だが、表面に刻まれた文字はまだ読めた。
シヴァはそれをカスミへ投げる。
カスミが受け取り、親指で土を落とした瞬間、目がわずかに細くなった。
「……翠緑の迷宮、中層調査班」
その言葉で、全員の動きが止まった。
翠緑の迷宮。
ここはルルレーダンの真の入口から入った場所だ。
なのに、翠緑の迷宮の中層で使われていたらしいものが落ちている。
リナが小さく呟く。
「本当に……一つだったってこと?」
そのときだった。
広間の奥で、緑層が大きく波打った。
風ではない。
魔物の足音でもない。
地面そのものが息を吸ったみたいに、草が一斉に倒れ、太い根が左右へ割れていく。
さっきアッシュタイガを潰した根とは違った。
あれは獲物を捕らえる腕だった。
今、奥で動いているものは、もっと大きい。
通路の壁が内側から押され、灰白の石がバキバキと音を鳴らして裂けた。
割れた隙間から湿った緑が膨れ上がり、土と獣の血の匂いが一気に濃くなる。
低い息遣いが聞こえた。
獣のものではない。
喉も肺もないものが、無理やり呼吸の真似をしているような音だった。
シヴァの笑みが消えた。
「……下がれ」




