【ライオネル】その背中が語るもの
ノクスウッドの森は深い。
自分の実力を試すために多くの冒険者たちが挑むが、その大半は奥地まで足を踏み入れることなく、撤退を余儀なくされる。
奥へ進むにつれ、魔物の凶暴性は増し、よほどの実力者でなければ踏破できない領域となっていた。
その代わり、森の入口近くは比較的、初心者が力試しをするにはちょうどいい場所だった。
森にはところどころに「神の泉」と呼ばれる休息地があり、そこには魔物も寄り付かない。
まとわりつくような森の湿気も嘘のように消え、清らかな空気がただよう場所だった。
魔素を感じ取れる者の話によると、魔素の濃度が薄いらしい。
俺にはそれはわからないが、魔物がいないということは、そういうことなのだろう。
入口近くの「神の泉」にまで遊びに来る子供たちもいる。森には豊かな恵みもあり、泉の近くで果物にかぶりつく子どもたちの姿も、よく見かけた。
ノクスウッドの町に住む者にとって、森は生活の一部なのだ。
……だから俺は、エリアスが森に入ることを止めなかったし、あのような危険な魔物に遭遇するとは考えもしなかった。
胸に暗い影が落ちる。
俺はそれをできるだけ表に出さないよう、顔を上げた。
ちょうど、「神の泉」の近く──冒険者たちが休息所としている場所にたどり着いていた。
ここからは泉は見えないが、少し開けた場所になっているため、冒険者たちの野営によく使われている。だが、最近は森が閉鎖されているからか、しばらく人の出入りがないように見えた。
「なんだかここは空気が綺麗ですね!」
リナ殿が休息所に足を踏み入れると、顔を輝かせた。
「はい。ここは魔物も出ませんから、少し休みましょう」
俺や団長、師匠は森歩きに慣れているが、リナ殿やクラリス殿には大変な道程だったかもしれない。リナ殿の顔には、わずかに疲れが見えた。
クラリス殿は……いつも通り表情の変化は見られない。疲れていないわけではないだろうが、それよりもリナ殿の様子が気になるらしく、彼女をじっと見つめている。
「……リナ。水筒を貸しなさい」
「え?」
リナ殿がきょとんとした顔でクラリス殿に水筒を渡す。
そういえばリナ殿は、森の中で頻繁に水分をとっているようだった。この暑さなら喉が渇くのも無理はないが、すでに水筒の水がなくなっていたのかもしれない。
それを軽く振って中身を確かめると、クラリス殿は自分の水筒をリナ殿に手渡した。
「わたくしの水は余っているから、こちらを飲みなさい。わたくしは水を汲みに行ってまいります」
クラリス殿から渡された水筒をまじまじと見たかと思うと、次の瞬間、リナ殿の顔が真っ赤に染まった。
「え、えっ!? だって、これ、クラリス様が飲んでた……」
「まだ残っているわ」
「そっ、そうじゃなくて……えっと……」
動揺するリナ殿に、クラリス殿は首を傾げている。
俺は苦笑しながら、クラリス殿に手を差し出した。
「俺が汲みに行ってきますよ、クラリス殿」
俺の言葉に、彼女の紫紺の瞳がこちらを見上げてきた。
……昨日、家族の墓の前で。
彼女に抱きしめられて。
彼女の体温を感じて。
──あのときの感覚が、蘇る。
俺は奥歯を噛みしめることで、体の奥から湧き上がってくる感情を押し留めた。
先ほどのように、自分の感情を制御できず、彼女たちから目を離すようなことがあってはならない。
リナ殿をかばおうとして、クラリス殿は魔物の前に立ちはだかった。
もし、師匠がいなかったら──
学園祭で、血に染まった彼女の姿を思い出し、背筋が凍る。
俺はまた、同じ過ちを犯すところだった。
彼女の手を離さないと、誓ったのに。
「甘やかすな。自分のことは自分でさせろ」
背後から、師匠の突き放すような言葉が飛んでくる。
「師匠……!」
俺は振り向き、抗議の視線を師匠に向ける。
だが、師匠は冷たい視線をクラリス殿に向けていた。
クラリス殿はそれを真正面から受け止める。
表情は動かない。
師匠の言葉が当然であるかのように、彼女はゆっくりと頷いた。
「おっしゃるとおりです。わたくし一人で大丈夫です」
彼女も「神の泉」に関する知識を持っているのだろう。あるいは、魔素を感じられることで魔物が出ないことを理解しているのかもしれない。
それでも、師匠の言葉は必要以上に冷たいものに感じられた。
「わ、私も行きます!」
師匠に指し示された泉の方向へ歩き出したクラリス殿の後を、リナ殿が慌てて追う。
歩きながら「あなたは休みなさい」「私は大丈夫です!」などと言い合っていたが、最後にはクラリス殿が諦め、リナ殿の同行を受け入れたようだった。
俺はそんな二人を、黙って見送ることしかできなかった。
「いじわるですねぇ、師匠」
それまで黙って成り行きを見守っていた団長が、肩をすくめながらニヤニヤと笑っている。
再び師匠に顔を向けると──
どこか、バツの悪そうな表情をしていた。
「……あれは本当に公爵令嬢なのか」
その声は、かすかに戸惑いを含んでいるように聞こえた。
「俺は嬢ちゃんが生まれたときから知ってますけどね。間違いなくエドの子ですよ」
「あいつも相当おかしな男だったが、あれも相当おかしな娘だな」
どうやら師匠はクラリス殿の父君、エドワード宰相のことを知っているらしい。
団長を通じて交流があったのかもしれない。
師匠の中の貴族像とクラリス殿の人物像が一致せず、戸惑っているのがわかった。
確かに、普通の令嬢はこんなところまで来ないし、平民を身を呈して守るようなこともしないだろう。
けれど──それが、クラリス殿なのだ。
だから、俺は彼女を……
「──それでも、貴族は貴族だ」
迷いを断ち切るように言い切る師匠に、俺は反論しようと口を開く。
しかし、それよりも早く、団長が俺と師匠を遮るように間に立った。
「ねぇ師匠、覚えてます? 俺が今の嫁さんと出会って、師匠に相談に来たときのこと」
──初耳だった。
団長が十歳年下の奥方と結婚したのは十年以上前、俺と出会う前のことだ。
そのときも団長はこの町に来て、師匠に相談していたということだろうか。
「師匠はあのとき、俺の背中を押してくれたじゃないですか。──惚れた女がいて、そいつを幸せにできる自信があるなら、動かないでどうするってね」
師匠の顔が、まるで苦虫を噛み潰したように歪む。思い出したくない過去を掘り起こされたかのような表情だった。
ヴィンセント団長の奥方には、婚約者がいた。
そしてその婚約は、完全に家の都合によるものだった。
──貴族の婚姻は、本人同士の感情だけではどうにもならない。
それでも、団長は動いた。
彼女を──幸せにできる自信があったから。
そして、それを後押ししたのが……師匠だった。
その事実は、俺に衝撃を与えた。
「……ただの気まぐれだ」
俺の驚愕の視線を受け、師匠は気まずそうに顔を背ける。
「嬢ちゃんがリナのことを守ろうとしているのくらい、わかってるでしょう。嬢ちゃんは、師匠の嫌いな貴族とは、ちょっと違うんです」
最後は師匠ではなく俺へと視線を向け、団長はにやりと笑った。
……もしかして、団長は。
彼が、この旅についてきたのは──
かつて自分がそうであったように。
俺の、背中を押すためなのではないだろうか。
普段はふざけて俺をからかってばかりの団長の背を眺めながら、俺はそんなことを考えていた。
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次回は5月15日(金) 19:00更新予定です。
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