【ライオネル】壁がない世界で
十年以上顔を見せなかった不肖の弟子に、師匠が向ける視線は優しかった。
「……成長したな、ライオネル」
当時、俺と師匠の視線は同じ高さにあった。
師匠は年齢を重ねても、その体躯に衰えを見せず、元々体格に恵まれていた俺と比べても遜色はなかった。
しかし、今日。
久しぶりに見た師匠の顔は、俺の視線より少し下にあった。
そして、昔よりも皺は深くなり、どこか少しだけ小さくなったように見えた。
全身を覆う隙のなさは相変わらずだったが、会えなかった年月は確実に彼に老いを刻んでいた。
俺が内心で後悔に襲われていることも、察していたのだろう。
師匠は、しわがれた手で優しく俺の腕を叩き、小さく微笑んだ。
俺がエリューシア学園に入学することに、師匠は最後まで反対していた。
ヴィンセント団長の説得でようやく許しを得たものの、俺が旅立つ日、見送りに集まった道場のみんなの中に、師匠の姿はなかった。
しかし、俺がヴィンセント団長たち──当時は分隊長だったが──とともに、転移魔法陣で王都へ向かうとき。
転移魔法陣の設置された祠を見下ろせる丘の上に、師匠は立っていた。
自らの剣を縦に構え、まっすぐにこちらを見据えて。
俺は込み上げる涙を、唇を噛んでこらえ──師匠から餞別代わりにもらった剣を、同じように構えて応えた。
あれから、十年以上が過ぎた。
師匠は昔と変わらず、俺を受け入れてくれたが──
「貴族に跨がせる敷居はない」
……そう言って、クラリス殿が道場に入るのを拒んだ。
師匠の貴族嫌いは承知していた。
王都で剣術指南をしていたとは聞いていたが、具体的に何をしていたのかは知らない。
王都で暮らすようになってから、それとなく師匠の痕跡を探したこともある。
だが、何も見つけることはできなかった。
ヴィンセント団長に尋ねても、答えてはくれなかった。
隠しているというより、師匠に口止めされているように見えた。
口の軽い団長だが、師匠との約束だけは律儀に守っている。
それだけ、彼にとって師匠の存在は大きいのだろう。
俺も平民出身の騎士として、不当な扱いを受けることはあった。
だが、だからといって師匠ほど貴族に嫌悪感を抱いてはいない。
……俺の想像以上に、不快な思いをしてきたのだろう。
クラリス殿は、師匠の失礼な態度にも冷静に対応し、自ら宿へ戻ることで場を収めた。
ただ──
彼女の紫紺の瞳に、ほんのわずか寂しげな色が浮かんだように見えたのは……俺の、勘違いだったのだろうか。
クラリス殿を宿まで送り届け、戻ってきた俺を、師匠は道場の入口で迎えてくれた。
団長とリナ殿は、すでに中に入っているらしい。
師匠は俺の目をじっと見つめ、静かに言った。
「……あの娘はやめておけ」
──その言葉に、息が止まりそうになる。
先ほどのリナ殿や団長の冗談を、真に受けたのかもしれない。
「……俺とクラリス殿は、そういう関係では──」
「あの娘を好いているのだろう?」
あまりにも直球な問いに、俺は完全に言葉を失った。
師匠の鋼色の瞳は、俺の内心などすべてお見通しだと言わんばかりに、まっすぐ射抜いてくる。
否定しようと口を開く。
だが、漏れたのは小さなうめき声だけだった。
──そのとおりだ。
俺は……彼女を、クラリス殿を……一人の女性として、慕っている。
ずっと、自分の感情を押し殺してきた。
しかし、彼女が「古代の神」と対峙し、その刃に倒れたのを目にしたとき──
俺は、二度と彼女から離れないと。
彼女の手を離さないと、そう決めた。
……だが、俺も馬鹿ではない。
彼女は、貴族で。
俺は、ただの平民だ。
一代限りの騎士爵など、筆頭公爵家と並べるはずもない。
そして彼女は──アレクシス殿下の婚約者だ。
俺にできることは、彼女のそばにいて、彼女を守ることだけだ。
……そう、自分に言い聞かせている。
俺の中の感情が暴走しないように。
彼女を傷つけないように。
「……所詮、あの娘は貴族だ。最後に傷つくのは、お前だ」
俺の心を読んだかのように、師匠が呟いた。
俺たちの間に、重い沈黙が落ちた。
何も言葉を返せない俺を一瞥すると、師匠はそのまま道場へ入っていく。
一人取り残された俺は、ただ静かに拳を握りしめた。
俺たちがノクスウッドを訪れた理由を説明すると、師匠は顎を撫で、考え込む仕草をした。
「古代の神」の情報は国家機密だ。
だが、この地にその本体が存在するとわかっていても、それだけでは動きようがない。
ノクスウッドの森は深い。
騎士団の遠征で遭遇するような強力な魔物が生息している。
むやみに歩き回り、クラリス殿やリナ殿を危険に晒すわけにはいかなかった。
……もう二度と、彼女が傷つく姿を見たくはない。
俺は団長と相談し、「古代の神」の本体へとつながる情報を得るため、師匠に事情を話すことにした。
「その『古代の神』というやつの本体が、ノクスウッドにいると……」
「はい。もし最近、この周辺で何か異変があれば、教えていただけると助かります」
師匠は俺に視線をよこすと、一瞬、何かをためらうように眉根を寄せた。
しかし、大きく息を吐き、口を開く。
「……少し前に、冒険者が重傷を負って戻ってきたことがあった」
話によると、長くノクスウッドを拠点としていた冒険者で、実力もあり、森にも明るい人物だったらしい。
森に迷ったわけでもなく、奥地へ踏み入ったわけでもない。
子どもでも行ける範囲で、彼は強大な魔物に襲われた。
命からがら戻ってきた彼は、医者に運ばれる途中、朦朧とした意識の中で口にしていたという。
“青い獣”に襲われた、と──
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に赤い光景が蘇る。
俺と弟の前に立ちはだかった、全身を青い毛で覆われた獣。
鋭い鉤爪。
飛び散る鮮血。
弟の──エリアスの、叫び声──
「──それから森は、一時的に封鎖されている」
師匠の声に、俺の意識は現実へ引き戻された。
その拍子に一瞬、肩が揺れる。
だが、師匠はこちらを見ない。
……気づいていても、見なかったことにしてくれたのだろう。
背筋を伝う嫌な汗を感じながら、俺は再び師匠の言葉に耳を傾けた。
「複数の冒険者でパーティを組み、青い獣を狩ろうとしているが、今のところ見つかっておらん」
「青い獣ねぇ……ノクスウッドは本当に、いろんな魔物がいるな……」
団長は心底面白そうに頷いている。
この人は強い魔物と戦うのが何より好きだ。
できれば手合わせしたいとでも思っているのだろう。
一方で、眉を下げ、青ざめているのはリナ殿だ。
「ま、まさかそれが……『古代の神』の本体なんでしょうか……」
彼女にとっては、これから自らが「封印の鍵」の持ち主として封じに行かなければならない相手だ。
それが得体の知れない強大な魔物だと思えば、気が気ではないのだろう。
……リナ殿の隣には、いつもクラリス殿がいた。
その彼女がいないこともあり、余計に心細いのかもしれない。
「まだそうだと決まったわけではありませんが、他に手がかりがないのであれば、一度調べてみたほうがいいかもしれません」
俺の言葉に、師匠が目を細める。
「森は封鎖されていると言っただろう」
「危険だから封鎖されているんでしょう? だったら、俺たち騎士団が討伐に向かい、脅威を排除すべきじゃないですかね」
団長がニヤニヤしながら腕を回している。
口ではもっともらしいことを言っているが、体が疼いて仕方ないといった様子だ。
そんな団長を苦い顔で見ていた師匠も、やがて諦めたようにため息をついた。
「そうだったな。お前はそういう男だった」
「お褒めに預かり光栄です!」
「褒めておらん」
……この二人は、昔からこうだったのだろう。
団長はたまに師匠を訪ねていたようだが、それほど頻繁ではなかったはずだ。
それでもこの気心の知れたやり取りは、元々の関係の深さがそうさせているのかもしれない。
師匠は言っても無駄だと判断したのか、団長から俺へ視線を移した。
「……お前は行くのか」
鋼色の瞳には、俺を案じる色が見えた。
自分の中の感情がようやく落ち着いてきたことを冷静に観察し、俺はその目を見返す。
「はい。……俺は、そのためにここへ来ました」
クラリス殿やリナ殿が背負っている責任は重い。
それに比べれば、俺はただの騎士だ。
せめて彼女たちの盾となり、少しでも負担を減らしてやりたい。
そう思って、俺は彼女たちに同行することを志願した。
……ヴィンセント団長が同行に名乗りを上げたのも、きっと俺と同じ気持ちだったのだと思う。
俺の視線から決意を汲み取ってくれたのか、師匠はもう一度ため息をつき、顔をそらした。
「わかった。……では、わしも行こう」
「え?」
その一言に、俺は思わず声を上げた。
師匠はこちらを見ないまま、言葉を続ける。
「森に明るい人間が必要だろう。十年以上も前の記憶では、迷子になるのがオチだ」
ぶっきらぼうな物言いだったが、その言葉に込められた優しさが伝わり、俺は思わず苦笑した。
「ありがとうございます、師匠の師匠──いえ、大師匠!」
「大……?」
「まったく、師匠は相変わらず照れ屋なんですから!」
「背中を叩くでない、馬鹿力め!」
リナ殿と団長に挟まれ、師匠は困ったように顔をしかめている。
しかし、嫌がっているようには見えなかった。
──この中に、彼女もいたら。
平民と貴族という壁がない世界で、こうして彼女と笑い合えたなら。
それが叶わないとわかっていても、そう願わずにはいられなかった。
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次回は4月28日(火) 19:00更新予定です。
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