これからも 1
王都とつながるローザルディアの転移魔法陣は、街を見渡せる小高い丘に建てられた祠にある。
ローザルディアは王家の直轄地であり、この国の食料庫とも言える豊かな土地だ。
ここから見える街並みも、王都に引けを取らぬほど美しい。
──とはいえ、何の問題もないわけではない。
「……クラリス様。転移の準備が整いました」
祠の中で魔法陣の最終確認をしていたエミリアが、街を眺める私の背に声をかける。
私は小さく礼を述べ、祠へと歩みを進めた。
──私たちは昨日から、この街を歩き回っていた。
今回は公式訪問ではない。
完全なお忍びだ。
そのため、元々は一人で来るつもりだった。
だが、公爵令嬢が単身で街を歩くなど許されるはずもない。
平民の装いに身を包み、侍女のエミリアと二人で、この地に降り立った。
それでも女性二人。
許可が下りたのは、ひとえにエミリアの力量ゆえだ。
“スーパー侍女”の名に恥じず、彼女は身の回りの世話のみならず、旅の心得、さらには武術の心得まで備えている。
公爵邸では披露する機会もなく、宝の持ち腐れだと思っていたが──今回は、その実力に幾度も救われた。
平民の姿とはいえ、私の容姿はどうしても目立つ。
当然のように、厄介な輩に声をかけられることもあった。
だが、私が動くよりも早く。
エミリアが、静かに、そして確実に始末──もとい、事態を収めていた。
……優秀すぎて、ちょっと引くレベルだ。
すました顔で横を歩く彼女をそっと窺い、私は小さく息をつく。
「──何か、得るものはございましたか?」
エミリアは前を向いたまま、淡々と問いかける。
私は視線を街へ戻し、静かに頷いた。
「古代の神」の影響で落ち込んでいた収穫量は、徐々に回復しつつある。
だが、完全に元へ戻るには、まだ時間がかかる。
需要は供給に追いつかず、住民たちは物価の高騰に苦しんでいた。
前回の訪問では、街を歩き回る余裕などなかった。
そのため、私たちはこの現実に気づけなかった。
たった一晩。
それだけでも、これほどの情報が得られる。
机上の報告書では、決して見えてこないものがある。
──私たちがすべきなのは、形だけの“平等”を示すことではない。
本当に平民に寄り添うというのなら。
その声を、直に聞かなければならない。
王都にいたままでは、それはできない。
だから、私は──
「転移魔法陣を、自由に使う許可……?」
私の願いを聞いた陛下は、心底理解できないといった顔で眉を寄せた。
私は王家の私室で、宰相である父とともに、陛下、そして王妃殿下と秘密裏に話をする機会をもらった。
そして、私は自らの希望を伝えた。
「古代の神」を封印した功績に対する褒美として、私が願ったのは──転移魔法陣の使用許可だった。
もちろん、「世界各地を自由に旅したいから」などという、浮ついた理由ではない。
この乙女ゲーム世界の各地を巡り、聖地巡礼をしたい衝動がないわけではないが──今は我慢しておく。
「そんな願いでいいのか? たとえば、アレクシスと駆け落ちしたいとか──」
「アルフォンス様?」
「……あるいは、ガルストンをどうにかしてほしいとか。そういう願いではなくていいのか?」
調子に乗って、小学生男子の顔をのぞかせかけた陛下は、王妃殿下の冷えた声に射抜かれ、即座に軌道修正を図った。
……本当に、この人は。
心の中でひとつため息をつきつつ、私は静かに頷く。
「褒美とはいえ、陛下がそのような願いをお聞き届けになるとは、思っておりません」
王の権限でガルストンを排除することは、不可能ではないだろう。
けれど、それをすれば──この国の根幹に亀裂が入る。
理ではなく感情で動く王に、民はついてこない。
私の言葉に満足したのか、陛下は愉快そうに唇の端を上げた。
その目は、なおも私を試すように細められている。
……これが正解かどうかなんて、私にもわからない。
でも──やってみる価値は、ある。
「私は……国中を巡り、民の声を、直接聞きたいと思っています」
この国は、完全な王政だ。
視察として各地を訪れることはあっても、王家の人間が自由に王都を離れることはほとんどない。
貴族も同様だ。
王都の貴族が夏に避暑地へ滞在することはあっても、その土地の民と交わることは、まずない。
貴族と平民。
どちらも国を支える存在であるはずなのに──互いに、あまりにも遠い。
建国当初。
貴族も平民も、ともに国の危機を乗り越える仲間だったはずのその繋がりは、今は薄れている。
……ゲームのアレクシスルートで、ヒロインが王太子妃になったとき。
きっと平民は、彼女という存在を通して、王家を“近いもの”として感じることができただろう。
私には、その役割は果たせない。
果たせないのなら──
私たちのほうから、近づいていくしかない。
アレクシスがローザルディアで民と触れ合い、彼らの苦境を知ったように。
私たちは自ら中に入り、寄り添わなければならない。
「もし……アレクシス様がそれを許してくださるのなら、ですが……」
前世の私は、ただの一般人だった。
何者でもない、どこにでもいる一人の人間。
けれど、アレクシスは違う。
彼は、王太子だ。
国中を巡り、民と直接交わる──そんな考えを、彼がすぐに受け入れられるとは限らない。
もし私が、今世の記憶しか持たない公爵令嬢だったなら。
きっと同じように、戸惑いを覚えただろう。
それが、貴族としての“普通”なのだから。
だからこそ──私はまだ、彼には話していない。
まずは私自身で、この案が現実に足るものなのかを確かめたい。
理想論で終わらないと確信を持てたとき──初めて彼に、提案することができると思ったのだ。
最後の言葉には、わずかに不安が滲んでしまったかもしれない。
気づけば、視線が下へと落ちていた。
その視界の端に、影が差す。
影はゆっくりと近づき、私の前で止まると──そっと、抱きしめられた。
「──ありがとう、クラリス。あの子との未来を、諦めないでくれて」
それは妃殿下──リヴィアだった。
包み込むような腕のぬくもり。
決して強くはないのに、抗うことのできないあたたかさ。
「セレナに感謝するわ。……こんなに素晴らしい娘を遺してくれたのですもの」
亡き母の名を口にするその声音は、とても穏やかで──
かつて母に抱きしめられたときの感覚と、どこか似ていた。
胸の奥から、遠い昔に置いてきた感情が、静かに揺さぶられる。
涙は、こぼさない。
私はただ、彼女の胸に額を預けたまま、込み上げるものを必死に押しとどめた。
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次回は3月27日(金) 19:00更新予定です。
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