【ライオネル】静かな誓い 1
謁見の間で、アレクシス殿下がクラリス殿との結婚を望まれたとき──
俺の胸に広がった感情は、驚くほど静かなものだった。
もちろん、心の奥底では、確かに何かが軋むような痛みを覚えていた。
だがそれと同時に、安堵もあった。
──殿下であれば、きっとクラリス殿を幸せにしてくれる。
もともと婚約者同士のお二人だ。
俺の出る幕など、最初からなかった。
そう、わかっていた。
だからこそ、その結果を、俺は静かに受け止めることができたのだ。
──それなのに。
リナ殿の護衛として彼女の部屋の前に立ちながら、俺はすでに沈めたはずの感情の波を必死に抑え込んでいた。
ガルストン様の提言に、貴族たちは揺れていた。
謁見の間に渦巻く、様々な思惑の中で見たクラリス殿の横顔は、どこか儚げに映った。
その後、祝勝の宴に彼女が姿を見せなかったことで、一部の貴族たちは囁き始めた。
ガルストン様の提案通り、クラリス殿は身を引き、リナ殿に婚約者の座を譲ったのだ、と。
──馬鹿な話だ。
今まで二人を見守ってきた俺には、彼女たちが婚約者の座を巡って争うなど、あり得ないと断言できる。
リナ殿の表情にあったのは、困惑だけだった。
そして、クラリス殿は──
アレクシス殿下の求婚を受けた、その瞬間の彼女の表情が、今も脳裏に焼き付いている。
あれは……
ただ“綺麗”という言葉で済ませていいものではなかった。
息を呑むほど、尊く。
誰のものでもない、彼女自身の選択を映し出した表情だった。
あの瞬間を見て、俺は──
ようやく、自分の感情に区切りをつけることができたはずだった。
けれど。
胸の内から広がってくる悔しさに、俺は思わず拳を握りしめた。
自分には、何の力もない。
王立騎士団に入り、騎士爵を得たとはいえ、出自はただの平民だ。
貴族社会の中では、発言権など持ち合わせていない。
俺では、彼女の助けにはなれない。
その事実が、鉛のように体中にのしかかる。
それでも──
彼女の力になりたかった。
彼女が困っているのなら、たとえ自分のすべてを投げ打つことになったとしても、その力に──
そこまで考えたところで、部屋の扉が静かに開く音に思考を止めた。
反射的に視線を向けると、扉の隙間から、リナ殿がそっと顔をのぞかせている。
周囲を確かめるように視線を巡らせ──俺の姿を見つけた瞬間、安堵したように肩を落とした。
「──リナ殿……?」
外はすでに夜だ。
この時間に、彼女が部屋を出る理由などないはずで。
戸惑う俺の前まで歩み寄り、リナ殿は立ち止まる。
そして、まっすぐに俺を見上げ、真剣な声音で口を開いた。
「ライオネル先生──お願いが、あります」
その瞳には。
逃げでも甘えでもない、何かを守ろうとする強い意志が宿っていた。
──そのことに気づいた瞬間。
俺は、葛藤しながらも動こうとしなかった自分を、心の底から恥じた。
そして、彼女の視線から逃げることなく。
そのエメラルドグリーンの瞳を、まっすぐに見つめ返し──
俺は、小さく頷いた。
リナ殿の願いは、予想通り──クラリス殿に会いに行きたい、というものだった。
想像はしていた。
だが、それは簡単に叶えられる願いではない。
俺は彼女の護衛として、ここにいる。
その俺が、夜更けに彼女を連れ出すなど、許されるはずもなかった。
しかも、リナ殿は今や渦中の人物だ。
男と二人きりで夜の城内を歩いているなどと知られれば、彼女の名誉に傷がつく。
──なにか、手はないのか。
思案に沈んだ、その背後から。
「よう。困ってるみてぇじゃねぇか」
聞き慣れた声が、軽い調子で投げかけられた。
リナ殿が、俺の背後をのぞき込むようにしてその人物を見つけ、ぱっと顔を輝かせる。
「師匠!」
……夏休みに稽古をつけてもらって以来、なぜかリナ殿は彼をそう呼ぶようになった。
俺は振り返り、声の主──ヴィンセント団長を視界に収める。
その表情は、どう見ても楽しそうで。
いたずらを思いついた子どものように、妙に輝いている。
……嫌な予感しかしない。
「お前ら、クラリスの嬢ちゃんのところに行きたいんだろ?」
開口一番、目的を言い当てられ、思わず言葉を失う。
ヴィンセント団長は、訳知り顔で俺の肩をぽんと叩くと、そのまま手をひらひらと振った。
「ついてこいよ。いいモン見せてやる」
俺たちの返事を待つこともなく、さっさと歩き出す。
残された俺とリナ殿は、思わず顔を見合わせた。
詳しい事情はわからない。
だが──団長は、俺たちの目的を理解した上で、協力するつもりらしい。
俺は小さくリナ殿に頷きかけると、彼女と並んで、団長の背中を追った。
団長に連れられて辿り着いたのは、城の地下だった。
おそらく、王国の中枢にいる者しか立ち入ることのできない場所だ。
そう理解した瞬間、背中を嫌な汗が伝った。
「団長、ここは……」
「気にすんな。俺がいりゃ文句は言われねぇよ」
……それは、まあ、そうだろう。
だが、だからといって部外者を連れ込んでいい場所ではない。
ちらりと横を見ると、リナ殿は物珍しそうに周囲を見渡していた。
こういうとき、何も知らないというのは、ある意味で幸せなのだと実感する。
「ついたぞ」
団長が開いた扉の先を目にした瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
──転移魔法陣。
床一面に描かれた複数の魔法陣が、暗い室内で淡く光を放っている。
転移魔法陣を見るのは初めてではない。
王城には公式に設置された魔法陣があり、遠方の都市と城を結んでいる。
それらはすべて、シリル師団長が構築した極めて高度な魔法陣だ。
現在の技術では彼にしか扱えず、数も限られている。
その上、使用には王の許可が必要とされている。
だが──
ここにある魔法陣は、俺の知るものよりも明らかに小規模だった。
遠方への転移に使うようなものではない。
まさか。
「ほれ。あっちの魔法陣が、エドの屋敷につながってる」
……やはり、そういうことか。
俺はヴィンセント団長に視線を向けた。
今の俺は、苦虫を噛み潰したような顔をしていると思う。
おそらくここは、国の非常事態にのみ使われる脱出路──
あるいは、それに準じる役割を持つ場所なのだろう。
それほどの重要機密が眠る場所に。
どうしてこの人は、近場の酒場に行くような感覚で、人を連れてくるのか。
ダリオ副団長がここにいたら、胃薬は何袋あっても足りないだろう。
……俺も、一袋欲しい。
「魔法陣をくぐると、屋敷の地下に出るはずだ。そこからは──お前たちで何とかするんだな」
何とかって……
屋敷の地下からクラリス殿の部屋にたどり着くまで、誰にも見つからずに済むとは思えない。
見つかった時点で、一発でアウトだ。
「はい! ありがとうございます、師匠!」
わかっているのか、いないのか。
リナ殿は元気いっぱいに返事をし、団長はそれを満足げに眺めている。
……考えても、無駄か。
俺は諦めを含んだため息を一つつき、腹を括るように、ゆっくりと顔を上げた。
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次回は2月24日(火) 19:00更新予定です。
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