揺らぐ輪郭
部屋のバルコニーに出ると、冷たい空気があたりを包み込んだ。
室内との温度差に、思わず肩がこわばる。
それでも、この冷たさは、混乱した思考を鎮めるのにちょうどよかった。
バルコニーの手すりに手をかけ、公爵邸の庭を見渡す。
あたりは真っ暗だが……相変わらず、広すぎる。
これだから貴族というのは──
と、私の中の前世の記憶が、思わず悪態をついた。
ゆっくりと息を吐くと、外気の冷たさに触れて、白く濁った吐息が宙に溶ける。
今はまだ冬だ。だが、この寒さが緩む頃には、学園の卒業式が控えている。
明後日は久しぶりに学園へ行く予定だ。
すでに単位はすべて取得しており、通わなくとも卒業はできる。
それでも、生徒会の引き継ぎをはじめ、「古代の神」の討伐によって学園を留守にしていた期間を思えば、やるべきことは多い。
……そうやって。
無理やり思考を別の方向へ逸らそうとしている自分に気づき、私はもう一度、深く息を吐いた。
脳裏には、先ほど耳にした、父とルークの会話が蘇ってきていた。
「なんで抗議しなかったんだよ」
祝勝の宴を終えて帰宅した父とルークが、玄関先で言い争っている声が聞こえてきた。
階段の上から様子を窺うと、ルークが父を鋭く睨みつけている。
その視線を正面から受け止めながら、父は冷たい眼差しで言葉を返した。
「……言葉遣いを改めなさい」
「──だから、ここまで黙ってただろ!」
ルークの罵声が飛ぶ。
それは、押し殺してきた感情が、ついに堰を切ったかのようだった。
抑え込んでいた怒りを、そのまま父へと叩きつける。
「なんでガルストンにいいようにさせてるんだよ……父さんが発言すれば、あの場は収まっただろう!?」
ルークは、私のために怒ってくれている。
そして、あの場でガルストンに抗議しなかった父に、その怒りをぶつけている。
けれど──
「ガルストンの言い分は、間違っていない」
父は──私の父であると同時に、この国の宰相だ。
常にこの国にとって、この国の未来にとって、最善を選ぶ。
その父が、ガルストンの提案を肯定するということは──
……そういうことなのだ。
おそらく、理屈ではルークも理解しているのだろう。
それでも感情が追いつかず、言葉を止めることができない。
「あいつは……自分が宰相になれなかったから……父さんのことを恨んでて、それで……!」
「──ルーク」
父の鋭い声が、ルークの言葉を断ち切った。
その冷たさに、ルークは続く言葉を飲み込む。
父の視線は──感情を映さない。
「ガルストンは、大局を見られる男だ。……私情で物事を判断するようでは、お前をエヴァレット家の後継者として認めることはできない」
「……っ!」
今のルークには、あまりにも厳しい言葉だろう。
彼自身、自分の行動の矛盾には気づいている。父に指摘されるまでもなく。
だが、こうして突きつけられたことで、ルークの矜持は深く傷ついたはずだ。
それ以上言葉を紡げなくなったルークは、黙り込む。
父はそんな彼を一瞥すると、背を向け、階段を上り始めた。
その途中、階段の先に立つ私の存在に気づき、父はわずかに眉を寄せる。
父も私も、表情の起伏は少ない。
だからこそ、ほんのわずかな変化にも、互いに気づいてしまう。
薄い青紫の瞳が、私を射抜いた。
祝勝の宴を欠席したことを、咎められるだろうか──
そう思い、背筋を伸ばした、そのとき。
「……お前の未来は、お前が決めなさい」
父の口からこぼれたのは、予想もしない言葉だった。
私は何も返すことができず、そのまま自室へと戻っていく父の背中を、ただ見送ることしかできなかった。
父の言葉の真意は、わからない。
私の意思を尊重してくれているようにも思えるし、別の見方をすれば──手は貸さない、自分の力でどうにかしろと、突き放されたようにも聞こえた。
──お前が決めなさい。
……私は、今まで本当に、自分で何かを決めてきただろうか。
完璧な公爵令嬢になるための努力はしてきた。
完璧な公爵令嬢であるための選択も、してきた。
前世の記憶を取り戻してからは──
この世界の破滅を回避するために。
リナを完璧なヒロインに育てるために。
私は、ただひたすら、力を尽くしてきた。
けれど。
それらはすべて、私が“選んだ”ものだったのだろうか。
私の意思で決めたというより、周囲の状況が、私をそう動かしてきただけではなかったか。
私はただ、与えられた役割を、完璧にこなそうとしていただけなのでは──
唐突に、自身の存在が不安定なものに思えてきて、思わず体を抱きしめる。
外気の冷たさよりも、内から込み上げてくる恐怖が、私の身体を強張らせていた。
前世の私。
今世の私。
そして、守護者としての私。
どれも、輪郭が曖昧で。
どれも、自分自身ではないような気がして。
──怖い。
こんな感情を覚えたのは、初めてだった。
眼前に広がる闇に、自分がそのまま呑み込まれてしまうような錯覚に襲われ、私は思わず部屋へと踵を返す。
窓を閉めた、その瞬間。
部屋の扉がノックされ、びくりと肩が跳ねた。
もう夜も遅い。
こんな時間に、一体誰が──
「……クラリス様」
扉の向こうから聞こえた、囁くような声に。
私は考えるよりも先に、扉へと駆け寄り、勢いよく開けていた。
「わっ!」
小さな悲鳴が、耳に飛び込んでくる。
──あのときと、同じだ。
学園祭の初日。
私が勢いよく扉を開けた、その先にいた人物。
「……リナ?」
掠れた声で名を呼ぶ。
彼女は、あのときと同じように、扉にぶつけてしまったのだろう鼻を押さえながら、それでも小さく微笑んだ。
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次回は2月20日(金) 19:00更新予定です。
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