【ゼノ】願うのは
深く、また深く。
その影は、彼らを見ていた。
「いい気味だこと」
壮年の女性は口元を扇で覆い、小さく笑いを漏らす。
口元は隠れていても、その下で表情が醜く歪んでいるであろうことは、容易に想像がついた。
女性──ヴィステリア公爵夫人は、城の一室、三代公爵家に与えられた私室で、優雅に椅子に腰掛けている。
その視線の先には、王家とヴィステリア公爵家の紋章が並んで掲げられたタペストリーがあった。
「なかなかの妙案だわ。あの忌々しいエヴァレット家の娘も、我が家をないがしろにする王家も……どちらも傷つけることができる、ね」
王家の紋章を睨みつけるように見たあと、夫人はすぐに微笑を浮かべ、机を挟んで向かいに座る男へと視線を移す。
その男──ガルストンは、ヴィステリア公爵夫人の視線を受けて、薄く笑った。
「さすがね、ガルストン。やはり、あなたは切れ者だわ」
夫人の媚びるような視線を受け流すかのように、ガルストンは顔を窓の外へ向けた。
外はすでに夜の帳が下りている。
こうして二人きりで密会していることは、公然の秘密だった。
彼らの間に特別な関係はない。夫人の側にその気があったとしても、ガルストンがそれに応えたことは一度もない。
だが、夜更けに二人きりで会っているという事実だけで、他の貴族たちにとっては十分だった。
噂は勝手に形を持ち、二人は“そういう関係”だと認識されている。
ヴィステリア公爵夫人としては、彼が自分になびかないことに多少の不満はあったものの、それ以上に、彼が自分の手駒として優秀であることに満足していた。
彼女の娘──ディアナは、クラリスと同い年で、かつて王太子の婚約者候補として名が挙がっていた。
しかし、最終的に選ばれたのはクラリスだった。
こともあろうに、ディアナは家格の落ちるグランセール侯爵家の嫡男、カイルと恋仲になり、卒業と同時に、彼が婿入りすることまで決まっている。
グランセール家は剣術の名門ではあるが、貴族社会において大した権力を持つ家ではない。
その家の息子が、ヴィステリア公爵家の跡取りになる──その事実は、夫人の誇りを深く傷つけていた。
娘の婚姻に対し、いくらかの抵抗は試みた。
だが、夫であるヴィステリア公爵は、ディアナ自身の意思を尊重し、夫人の訴えは退けられた。
これも。
すべて、王家と。
婚約者の座を奪っていったエヴァレット家のせいだと。
彼女の中で、そんな被害妄想は、静かに、しかし確実に広がっていった。
「王家に平民の血を入れば、それはやがて長く汚れた遺恨になるわ。そうなったとき、純粋で気高い貴族の血だけを受け継ぐ我が家こそが、この国で最も尊い存在になる──」
「──夫人」
うっとりとした口調で、反逆罪に問われかねない言葉を連ねる夫人に、ガルストンは静かに声をかけた。
「私は、ただ提案をしただけです。それを受け入れるかどうかは──彼らの選択だ」
熱を帯びた幻想に水を差すように、それでいて拒絶するでもなく、彼は穏やかに言葉を置く。
その声音に撫でられるように、夫人はさらに笑みを深めた。
「ええ……そうね。わたくしたちは、ただ待てばいい……」
満足げに頷く夫人を前に、ガルストンは微笑みを崩さぬまま、ゆっくりと立ち上がる。
彼女の傍らに膝を折り、その甲に恭しく口づけると、何の未練も残さぬように背を向け、部屋を後にした。
残されたのは、恍惚とした表情を浮かべるヴィステリア公爵夫人。
──その光景を最後に、私は影を消した。
学園の自室で。
私は椅子に深く腰を掛け、天を仰ぎ見た。
「王家の影」として、彼らの動向は逐一監視している。
ヴィステリア公爵夫人の不敬は、今に始まったことではない。これまでも彼女の行動は、黙認という形で見過ごされてきた。
ヴィステリア公爵家として幸いだったのは、公爵自身が優秀であったこと。
そして、娘のディアナが聡明で、婿として迎えるカイルもまた、問題のない人物だったことだ。
夫人がどう動こうと、それが直接、王家の問題に発展することはない。
そう判断され続けてきたからこそ、彼女の行動は放置されてきた。
しかし──
今回は、おそらくそういうわけにはいかない。
ガルストンの提案が通るにせよ、通らないにせよ。
彼女の行動は、王家にとって害悪と判断され、何らかの対応が取られるはずだ。
それを、宰相が見過ごすとは思えない。
私は、その点については確信していた。
……だが。
ガルストンの考えだけは、読みきれない。
彼ほどの人物であれば、ヴィステリア公爵夫人と通じることが、どれほど危険な行為か理解していないはずがない。
しかも今回の動きは、夫人の意図を汲んだものだと見る貴族もいる。
彼の提案が通り、リナを養子に迎え、王太子妃とすることが叶えば──
それは、彼にとって紛れもない成功だろう。
だが、逆の場合は──
……「王家の影」として、私は何度もガルストンを見てきた。
だからこそ、胸の内に浮かぶ仮説がある。
確信はない。
けれど、もしそれが真実ならば──
私は静かにまぶたを閉じる。
網膜の裏に、幼い頃の彼女と、美しく成長した彼女の姿が浮かんだ。
──どちらにせよ。
願うのは、ただひとつ。
彼女の幸せだけだった。
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次回は2月17日(火) 19:00更新予定です。
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