第5話 病院は抜け出すもの
結羽が怪我をしてから一週間が経過していた。ベッドで横になっている結羽は病室の窓から外を見て、ため息をついた。
「……暇だなぁ」
ここでは、することがほとんどない。夕方に病室に寄ってくれる未來が、授業のノートを見せてくれるが、それを写したらもう、やることがなくなる。怪我人だからしょうがないのだろうけど、何も出来ない時間が辛い。
傷の痛みは心美のおかげでほぼない。昨日、早めに退院させてくれないかと心美に頼んだのだが、傷痕を残したくないから駄目だと言われてしまった。それでもあと一週間もベッドで横になり続けるのは嫌だ。
どうしようかと結羽は考えを巡らせる。
心美が病室に来るのは包帯を替える朝と、三食の食事の時間。未來が来るのは学校が終わった後の夕方。朝食からしばらくは、この病室に誰も来ない。そして、ここは一階だ。
「……よし」
明日、病院を抜け出そう。
翌日、結羽は朝食を食べた後に病院から抜け出そうとしていた。朝食を食べ終えて、心美が病室から出る。今だ。結羽はハンガーにかかっている制服に手を伸ばす。
「あっ。結羽ちゃん、ちょっといい?」
心美の声が聞こえ、病室の扉が開けられる。結羽は慌てて制服から手を放して、ベッドに戻る。
「は、はい。いいですよ」
心美が話している中、結羽は病院を抜け出そうとしたことが気づかれずに済んで、心の中で安堵した。
その翌日、結羽は今度こそ病院を抜け出そうとしていた。
朝食を食べ終えて、心美が病室から出ていく。結羽は病室の扉の近くまで行って、耳を澄ます。心美の足音が遠のき、何の音も聞こえなくなる。
そこで結羽は急いで制服に着替えて、右手にカバンを持ち、左手にはローファーを持つ。出来るだけ足音を立てずに窓まで進み、窓を開けて外に出た。ローファーを履いた結羽は、心美に気づかれていないか確認して、学校へと駆け出した。
学校に着き、教室に入ると、まだホームルームが始まる前でほっとする。そして、結羽に気づいたクラスメイト達が彼女に声をかける。
「おはよう! もう怪我は大丈夫なの?」
「大怪我したって聞いたけど」
クラスメイト達の温かさに結羽は嬉しくなる。みんな本当に優しい。
「うん! もう平気!」
そう微笑んで、結羽もクラスメイト達の輪の中に入って会話をし始める。話をしている中、結羽が視線を感じて後ろを振り向くと、拓士と目が合った。軽く手を振ると、拓士はすぐに目を逸らした。最近やっと分かってきたのだが、拓士が目を逸らすのは、ただの照れ隠しだ。
そしてその数分後、教室に先生が来て、ホームルームが始まる。結羽は、久しぶりの学校がとても楽しみだった。
それからしばらく時間が経って、十時を少し過ぎた頃、心美は用事を思い出して、結羽がいる病室の前まで来ていた。
「結羽ちゃん、ちょっといい?」
心美が扉の前で声をかけるが、返事はない。
「結羽ちゃん? ……寝ているのかしら? 入るわよー」
心美が病室の扉を開けると、そこに結羽はいなかった。心美が慌てて結羽を探していると、ベッドの横のサイドテーブルに、書き置きが残されていた。
怪我を治していただき、ありがとうございました。 胡蝶蘭結羽
心美は結羽が病院から抜け出したことを悟ると、すぐにポケットに入れていたスマートフォンを取り出すと、未來にメッセージを送った。
授業と授業の間の、十分休憩の時間、未來は通知に気づいてスマートフォンをポケットから取り出す。母からメッセージが届いている。メッセージにはこう書かれていた。
結羽ちゃんが病院から脱走。学校にいると思われます。すぐに連れ戻して!
未來は了解、と返信すると、結羽を探し始めた。
結羽が次の授業をする教室に向かっている時、スマートフォンに通知が来る。メッセージの送り主は未來だ。
学校にいるのは分かっているよ。大人しく病院に戻ってほしいな
メッセージの内容から、結羽は未來がかなり怒っているのを察する。
「あー……、バレちゃったかぁ……」
だが、ここまで来たのだ。まだ捕まるわけにはいかない。
学校にいたい結羽と病院に戻したい未來の鬼ごっこが今、始まった。
仲のいいクラスメイトに、次の授業は休むと伝えて、結羽は未来に見つからないように、学校の中を逃げ回る。
確かに、病院から抜け出したのは悪いと思うが、別に影鬼と戦うわけではないし、ただ授業を受けるだけなのだから、傷にそこまで響くわけでもないと思うのだが。
ひとまず自分の教室は駄目だ。最初に探しに来る場所だ。
正直に言って、この鬼ごっこは結羽にはかなり不利だ。結羽はこの学校に高校から入学したが、未來は中等部からいる。人が隠れられる場所なんて、すぐに分かるはずだ。それでも結羽は、せめて昼休みまでは学校にいたかった。
空き教室などに隠れながら、結羽は数分おきに移動して、未來から見つからないようにしていた。だが、未來の方も仲のいい同級生に、結羽を見たら連絡するように言っているらしく、結羽は次第に追い詰められるのを感じた。
廊下の隅に身を隠しながら、結羽は決意する。
入り口が一つしかないので、出来れば行きたくはなかったのだが、他に思いつく場所がない。一か八か行ってみよう。
結羽は人目につかないように、こっそりと屋上に向かった。
屋上への扉を静かに開けて、すぐに閉める。どこかにちょうどいい隠れ場所がないか探していると、横になっている拓士と目が合った。
既に授業は始まっているはずなのに、どうしてここにいるのだろう。
結羽の顔からそんな疑問を察した拓士が素っ気なく答える。
「授業が自習になったからいるんだよ。……って、お前も一応同じクラスだろ?」
「あはは……」
未來から逃げ回っていて知らなかったとは言えず、苦笑で誤魔化す。そして結羽は、ちょうどいい隠れ場所を見つけて、拓士に手を合わせる。
「お願い! 未來ちゃんが来ても、私を見なかったことにして!」
拓士が一瞬、訝しげに結羽を見るが、すぐにため息をついた。
「……よく分からないけど、分かったよ」
「ありがとう!」
結羽は拓士に礼を言うと、ちょうどいいスペースに隠れる。そのすぐ後、未來が屋上にやってきて、拓士に尋ねた。
「拓士君、結羽ちゃん見なかった?」
「……いや、見てないけど」
「そっか。ありがとうね」
そんな短い会話の後、未來は屋上から出ていった。結羽は拓士が頼みを聞いてくれたことと、未來に見つからなかったことに深く息を吐きだした。隠れていた場所から出て、クラスメイトたちと合流しようと屋上の出入り口の扉に向かう。
結羽は拓士にもう一度礼を言おうと思ったが、スマートフォンをいじっていてこちらに気づいていないようだったので、そのまま扉を開けて、屋上から出ていった。
階段を下りて廊下を曲がると、何故か未來が待ち構えていた。結羽はすぐに逃げようとするが、この至近距離ではどう考えても無理だった。未來は結羽の手首を掴んで、にっこりと笑う。
「つっかまえた」
笑ってはいるのだが、かなり怒っているのが分かる。結羽の額から冷や汗が流れてくる。
「ど、どうして分かったの? 薊君が見てないって言っていたのに」
すると、屋上に繋がる扉が開き、拓士が階段から降りてくる。拓士が結羽に見せてきたスマートフォンの画面には、拓士と未來がメッセージアプリでやり取りしたことが残されていた。やり取りをした時刻は、数分前になっている。そこで結羽は気づいた。先程、拓士がスマートフォンをいじっていたのは、未來と連絡を取り合っていたのだ。つまり拓士は、最初から結羽が病院から抜け出したことを知っていたのだ。
結羽は急に恥ずかしくなって顔を赤くする。そんな結羽の手を引っ張って、未來は昇降口へ歩き出す。
「昼休みまでは、学校にいさせてくださーい!」
「だーめ! 病室に戻るよー!」
そんな二人の会話が、遠くで聞こえる中。
「……おかしな奴だな」
拓士は小さく笑った。
幼い頃から、模倣が得意な男がいた。
幼い頃は、何をするにしても大人たちに褒められたので、それが誇らしかった。
だが、成長するにしたがって、大人たちの褒め言葉に複雑な気持ちを抱くようになった。
すごい! 上手だね! ○○みたい!
そう。必ず最後に“○○みたい” と言われ、それが膿のように、心にずっと残り続けるようになり始めた。
中学、高校生になると、また大人たちの言葉は変化した。
確かにすごく上手だよ。だけど、君の個性が感じられないな。
分かっていた。上手いのは模倣だけで、そこに個性もオリジナリティも何もないことは。それでも、どうすればいいのか分からなかったし、個性を出す方法を教えてくれる人もいなかった。
だから最近、思うようになったのだ。
「……だったら最初から、得意じゃなかったらよかったのに」
そんな言葉が口から零れた時、男は影世界に引きずり込まれた。
次話は8月10日に投稿予定です。




