第59話 桜の約束と、終わらない世界
完璧に管理された世界において、最大のノイズとは常に「人間の感情」である。
私が前世で過労死するまで信奉していた経営学や物理法則は、決して嘘をつかない。
1と1を足せば必ず2になる。エネルギー保存の法則は絶対であり、需要と供給のバランスは常に最適解へと向かう。
だからこそ、私はこの異世界に転生してからというもの、ひたすらに世界を「合理化」し続けてきた。
不採算な戦争を力で捻じ伏せ、非効率な身分制度を解体し、AI『アテナ』による絶対的な管理社会を構築した。
誰も飢えず、誰も理不尽に殺されない、完璧なユートピア。地球連邦という巨大なシステムは、私の設計通りに寸分の狂いもなく稼働し始めたはずだった。
しかし――。
「……地球連邦・最高裁判所の決定により、今回の同時多発テロに関与した主犯格および同調者、計二万一千四百五十名に対する『最終処遇』の承認を求めます」
大和皇国、海沿いに建つ別邸の地下通信室。
薄暗い部屋の空中に投影された立体ホログラムモニターの中で、地球連邦初代首席事務総長であるカイルが、疲労の色を隠せない生真面目な顔で報告を上げていた。
「世論の八割は、彼らに対する『極刑』を望んでいます。平和な世界を脅かした罪は重い、と。……リヒト様、いかがなさいますか」
カイルの問いに、私は革張りのチェアに深く腰掛けたまま、冷たいコーヒーを一口飲んだ。
今回のテロの首謀者たちは、旧王制の残党でも、宗教的な過激派でもなかった。
私が創り上げた、この「完璧に平和で、すべてがAIに最適化された社会」で生まれ育った、新世代の若者たちだったのだ。
彼らは飢えていたわけではない。
ただ、システムに人生の正解を決められ、リスクを冒して失敗する権利すら奪われたこの「ゆりかご」の息苦しさに耐えられなかった。
マズローの欲求階層の最上位――「自己実現」の欲求をこじらせた結果が、あの稚拙で非合理的なサイバーテロだったというわけだ。
「……極刑、か。愚かしいことだ」
私は静かに、だがモニター越しのカイルを射抜くような声で言った。
「彼らは高度な教育を受けた優秀な頭脳だ。それを単なる報復感情で殺処分するなど、地球規模のヒューマンリソースの重大な損失に他ならない。不採算にもほどがある」
「では、再教育プログラムへ?」
「いや。それでは根本的な解決にならない。彼らはこの『管理された地球』という檻そのものを嫌悪したのだからな。……カイル」
「はい」
「彼らが望んだのは、自らの命を懸けるべき未知のリスクと、己の力を試すフロンティアだ。ならば――与えてやればいい」
私は端末を操作し、ひとつの計画書をカイルのモニターへ転送した。
「彼ら全員の国籍を剥奪し、地球連邦からの『永久追放』とする」
「追放……? しかし、この地球上のどこに――」
「地球上ではない。上を見ろ」
私はモニター越しに、天井、いやその遥か上空を指差した。
「月面開拓都市の第一フェーズ、および、火星テラフォーミング計画の先遣隊だ」
「なっ……!?」
常に冷静なカイルが、息を呑むのがわかった。
「過酷な無重力環境。放射線。マイナス百度の極寒。そして、すべてを一から創り上げなければならない圧倒的な不自由。……彼らが望んだ『ヒリつくような生の実感』がそこには無限にある」
私は薄く笑った。
「地球というゆりかごが退屈だというのなら、荒野へ放り出してやるのが親心というものだろう? ……もちろん、生存のための最低限の物資とプラントは与えるがね。せいぜい、月や火星で己の力を証明してみせろ、と通達しろ」
沈黙が落ちた。
カイルは手元の資料に視線を落とし、何度か瞬きをした後、深く息を吐き出した。
「……相変わらず、悪魔のように合理的で、神のように傲慢な裁定ですね」
「最高の褒め言葉として受け取っておこう」
「承知いたしました。直ちに連盟本部に手配させます。彼らも、ただ処刑されるよりは、宇宙で足掻く方を選ぶでしょう。……これで、ようやく」
カイルの表情が、わずかに緩んだ。
「リヒト様も、真の意味で『日常』にお戻りになれますね」
「ああ。君には苦労をかけるがね。あとはアテナと上手くやってくれ」
「ええ。サクラ様によろしくお伝えください。結婚式には、何があっても駆けつけますので」
ピッ、と乾いた電子音が鳴り、ホログラムが消失した。
私は背もたれに体重を預け、目を閉じた。
これで、本当にすべてが終わった。
私が前世の記憶に目覚め、没落寸前の借金貴族の嫡男としてこの世界を再構築し始めてから十数年。
長かったような、一瞬だったような、目まぐるしい日々だった。
――さて。
私は立ち上がり、首を鳴らした。
世界を救う仕事は終わった。ここからは、一人の青年としての「重労働」が待っている。
「……これは、何の冗談だ」
地下室から一階のリビングへと上がった私は、目の前の光景に絶句した。
広いリビングルームの半分が、見上げるような「贈り物の山」によって占拠されていたのだ。
金糸で彩られた巨大な箱、宝石が散りばめられた宝箱、さらには厳重にロックされたジュラルミンケースまで。
来週に迫った、私とサクラの結婚式。
世界中から届く祝電と贈り物は、すでに別邸の倉庫をパンクさせ、ついに居住スペースにまで侵食し始めていた。
「あ、リヒトさん。お疲れ様です。通信、終わりましたか?」
贈り物の山の陰から、白いエプロン姿のサクラがひょっこりと顔を出した。
彼女の黒髪が、差し込む午後の陽光を反射して柔らかく光る。
「ああ……。しかし、昨日よりまた増えていないか?」
「ふふっ、今朝も特別便がたくさん届いたんです」
サクラは困ったように笑いながら、手元のリストボードを見せてきた。
「ええと……、セシリア様からは『月面の静かの海の土地の権利書・百エーカー分。新婚旅行の別荘用地にどうぞ』だそうです」
「……あいつ、さっき私がテロリストを月に送ると決めたのをもう知っているのか。嫌味なプレゼントだ」
「エリザベート様からは『南太平洋の独立国家の王冠と、終身名誉国王の権利』。ニーナ様からは『建設中の軌道エレベーターの、リヒトさん専用プライベートカプセル(装甲付き)』……だそうです」
「……」
私は深々と頭を抱えた。
あいつらは、揃いも揃って私へのプレゼントの基準が「国家予算レベル」で狂っている。
いや、私が彼女たちをそう育ててしまったのだから、自業自得なのだが。
「皆さん、本当にお祝いのスケールが違いますね」
サクラは嫌味でも嫉妬でもなく、ただ純粋に感心したようにクスクスと笑った。
セシリアの無限の富も、エリザベートの絶大な権力も、ニーナの天才的な頭脳も、この大和の団子屋で育った少女の前では、ただの「すごいお祝い」という認識でしかない。
その圧倒的なまでの『普通さ』が、私にとってはどれほど救いになっていることか。
「……サクラ、すまない。これの整理は業者に任せよう。君が手を煩わせる必要はない」
「大丈夫ですよ。仕分けをするのも、なんだかお祭りみたいで楽しいですから」
サクラはそう言うと、キッチンからお盆を持ってきた。
そこには、淹れたての温かい緑茶と、彼女が試作したという桜色の和菓子が乗っていた。
「少し、お茶にしましょう? 難しい顔、してますよ」
「……ああ。そうだな」
私はソファの空いているスペースに腰を下ろし、サクラが淹れてくれたお茶を啜った。
ほのかな苦味と、豊かな香りが、張り詰めていた神経を優しく解きほぐしていく。和菓子の素朴な甘さが、疲れた脳の糖分を補ってくれる。
エリザベートは、私に「世界を支配する玉座」を約束した。
セシリアは、私に「無限の富と経済の支配権」を捧げた。
ニーナは、私に「知性の限界を超える力」を提供した。
だが、私が最後に辿り着きたかったのは、ただの淹れたてのお茶と、手作りの和菓子。
そして、隣でただ微笑んでくれる彼女の存在だった。
「美味しいか?」
「はい。完璧だ。……世界一美味しい」
「ふふっ、大げさですね」
サクラは嬉しそうに目を細め、私に寄り添うように座った。
彼女から、ほのかな桜の香りと、日向のような温もりが伝わってくる。
その日の夜。
私たちは別邸の木造テラスに出て、並んで夜空を見上げていた。
波の音が、規則正しく穏やかなリズムを刻んでいる。
見上げれば、澄み切った大気の中に、満天の星と、ぽっかりと浮かぶ白い月が見えた。
「……あの月に、彼らが送られるのですね」
サクラが、ポツリと呟いた。
彼女は、昼間のテロリストたちの処遇についてのニュースを見たのだろう。
「同情するか?」
「いいえ」
サクラは静かに首を振った。
「リヒトさんが決めたことです。それに……彼らが本当に居場所を探していたのなら、それはきっと、必要な試練なのだと思います」
「……」
「ただ、少しだけ怖くなります。リヒトさんが作ったこの平和な世界でも、人の心は同じようにはいかないんだなって」
サクラの言葉に、私は自嘲気味に笑った。
「その通りだ。私は世界を合理化し、計算し尽くしたつもりだった。だが、人間の感情というものは、どれだけシステムを最適化しても、必ずどこかで『バグ』を生み出す」
夜風が吹き抜け、サクラの黒髪をふわりと揺らした。
「これからも、新たなバグは生まれるだろう。私が創ったシステムに対する反発も、計算外の出来事も、きっと終わることはない」
「終わらない……」
「ああ。永遠の平和など、ただの幻想だ。維持し続けるためのメンテナンスが永遠に続く、それが現実だ」
私がそう言うと、サクラは少しだけ身を乗り出し、私の右手を両手でそっと包み込んだ。
少しひんやりとした彼女の手が、私の体温と混ざり合う。
「でも、リヒトさんは逃げなかった。……だから、世界は今日も明日も、続いていくんですよね」
「……サクラ」
「世界が終わらないなら、私たちの明日も、終わらないということです。……なんだか、楽しみになってきました」
彼女のその言葉の強さに、私は息を呑んだ。
どんな非合理も、どんな予測不能な未来も、彼女は恐れずに受け入れようとしている。
前世で、すべてを完璧にコントロールしなければ気が済まなかった私が、この世界で唯一コントロールできなかった存在。
それが、彼女への「愛」だった。
「……結婚式、緊張するか?」
私は話題を変えるように、彼女の手を優しく握り返した。
「はい。すごく。だって、世界中のすごい人たちが見てるんですよ? 私なんかでいいのかなって、たまに不安になります」
「馬鹿を言え」
私はサクラの肩を引き寄せ、その小さな頭を私の肩に乗せた。
「君以外にあり得ない。……私をただの『リヒト』として見てくれるのは、世界広しといえど、君だけだ」
サクラは少し照れたように笑い、私の胸に顔を埋めた。
「……約束します、リヒトさん」
「何をだ?」
「世界がこれからどう変わっても。新しい国ができても、人がお星さまに行っても。……私だけは、ずっとリヒトさんの味方で、一番近くにいます」
「……ああ」
私は静かに目を閉じ、彼女の髪にそっとキスを落とした。
「私も誓おう。君のその笑顔だけは、どんな計算を狂わせてでも、私が守り抜く」
波の音だけが、優しく二人を包み込んでいた。
合理的な再構築の果てに辿り着いた、この非合理で、たまらなく愛おしい世界。
終わらない日々の幕開けを祝福するように、月はただ静かに、青い海を照らし続けていた。




