第58話:魔王の帰還と、世界で一番温かい朝食
大和皇国の東の空が、薄紫色から柔らかな茜色へと染まり始める頃。
音を置き去りにするステルス輸送機が、海沿いの秘密格納庫へと滑り込むように帰還した。
漆黒の機体から降り立ったリヒトは、小さく息を吐き、乱れたトレンチコートの襟を正した。
つい数時間前まで、彼は地球連邦の首都で冷酷な指揮を執っていた。
旧世界の残党による無軌道なテロリズムを、圧倒的な知略と包囲網で完璧に封じ込めたのだ。
エリザベートの政治力、セシリアの金融支配、ニーナの化学兵器、そしてマルクとカイルの献身。
かつての「神童」たちと共に戦った時間は、彼にとって懐かしく、そして確かに血湧き肉躍るものであった。
(……だが、やはり私には、もうあの玉座は冷たすぎるな)
リヒトは、まだ少し火薬と電子機器の匂いが染み付いているコートを脱ぎながら、別邸へと続く小道を歩いた。
早朝の澄んだ空気が、彼の中に残っていた「魔王」としての冷たい熱を、少しずつ冷ましていく。
家の前に着くと、換気扇から柔らかな白い湯気と共に、出汁の香りが漂ってきた。
その匂いを嗅いだ瞬間、リヒトの顔からすべての緊張が抜け落ちた。
どんな超技術の防壁よりも、どんな強力な軍隊よりも、彼を安心させる「匂い」。
玄関の扉をそっと開けると、台所から小気味よい包丁の音が聞こえてきた。
「……ただいま、サクラ」
リヒトが声をかけると、エプロン姿のサクラが振り返った。
彼女の表情が一瞬だけ驚きに丸くなり、次の瞬間、花が咲くような満面の笑みに変わる。
「おかえりなさい、リヒトさん! ……ふふ、本当に朝食に間に合わせてくれたんですね」
「ああ。約束は守る主義だからね。それに、君の味噌汁を逃すような非合理的なタイムスケジュールは組まないさ」
リヒトは苦笑しながら、台所へと近づく。
サクラは手を拭き、リヒトの顔をじっと見つめた。
その瞳には、彼が昨夜どれほどの修羅場を潜り抜けてきたかを、すべて察しているかのような深い慈愛が湛えられていた。
「……お疲れ様でした。怪我は、ありませんか?」
「私を誰だと思っている。安全な指令室から、チェスの駒を動かしていただけだ。……ただ、少しだけ、旧友たちの『過剰な愛情表現』に疲れたがね」
リヒトの冗談めかした言葉に、サクラはクスクスと笑った。
セシリアやエリザベート、ニーナたちの存在を、サクラは知っている。
世界で最も賢く、美しく、力を持つ女性たちが、リヒトにどれほどの想いを寄せているかも。
それでも、サクラの心に嫉妬や不安は微塵もなかった。
「皆さん、リヒトさんに会えて嬉しかったんでしょうね。……でも、最後に帰ってくるのは、私のところですから」
サクラは背伸びをして、リヒトの頬にそっと手を添えた。
彼女の手は、料理の支度で少し冷たかったが、リヒトの胸の奥をじんわりと温めてくれる。
(……ああ、そうだ。これなんだ)
リヒトは、サクラの手の上に自分の手を重ねながら、静かに目を閉じた。
エリザベートは、彼に「世界を支配する玉座」を約束した。
セシリアは、彼に「無限の富と経済の支配権」を捧げた。
ニーナは、彼に「知性の限界を超える力」を提供した。
だが、彼が本当に欲しかったものは、そのどれでもない。
前世で過労死し、この世界で血を吐くような努力で世界を再構築してきた彼が、最後に辿り着きたかった場所。
それは、この「何の見返りも求められない、ただ穏やかな日常」だった。
「……サクラ。君は、世界で一番強欲な簒奪者かもしれないな」
「え? どういうことですか?」
サクラが小首を傾げる。
「魔王と呼ばれた男の全存在を、ただの一杯の味噌汁と、その笑顔だけで独占しているのだから。……セシリアたちが知ったら、嫉妬で暴動が起きるぞ」
「もう、リヒトさんったら。すぐ大袈裟な言い方をするんですから」
サクラは照れ隠しのように微笑むと、リヒトの背中を軽くポンと叩いた。
「さあ、難しいお話はおしまいです。手を洗ってきてください。ちょうどお豆腐とワカメのお味噌汁ができたところですから」
「ああ。世界で一番価値のある朝食を、いただこう」
数分後。
小さな食卓には、炊き立ての白いご飯と、出汁の効いた味噌汁、そして大和の素朴な惣菜が並べられていた。
一口、味噌汁を啜る。
大豆の豊かな風味と、完璧な温度。
リヒトの全身の細胞に、平和という名の栄養が染み渡っていく。
「……美味しい。アテナに数万回の演算をさせても、この味の最適解は弾き出せないだろうな」
「ふふ、アテナさんには内緒の隠し味が入っていますから」
「隠し味?」
「はい。リヒトさんが無事に帰ってきますようにって、たくさん祈りながら作りました」
その言葉に、リヒトは箸を止め、サクラを真っ直ぐに見つめた。
魔法も神も存在しない、ただ物理法則だけが支配するこの世界。
祈りなどという非合理な行為には、何の効果もないはずだ。
だが、リヒトは今、その「非合理な祈り」こそが、自分の心を救い続けているのだと確信していた。
「……最高の隠し味だ。これ以上の最適解はない」
リヒトの優しい微笑みに、サクラも嬉しそうに頷き返す。
窓の外では、完全に夜が明け、大和の美しい朝陽が二人を包み込んでいた。
世界は今日も、彼が構築したシステムの上で、冷徹に、そして完璧に回り続けている。
だが、この小さな食卓だけは、そのシステムから切り離された、絶対不可侵の聖域だった。
合理主義の魔王は、愛する少女と共に、今日も不器用で幸福な一日を始める。




