第54話:不可視のテロリズムと、魔王の目覚め
大和皇国の穏やかな午後。
縁側に腰掛けたリヒトは、手元にある一冊の古書を捲っていた。
「……ふむ。過去の農業指導書か。経験則の羅列だが、統計データとして再構築すれば、土壌改良の歩留まりをあと五パーセントは引き上げられそうだな」
彼は誰に言うでもなく呟き、手元の端末に素早く計算式を打ち込んでいく。
隠居生活に入ってから数ヶ月。
彼が持ち込んだ圧倒的な技術力により、大和の農業生産力は既に旧世界の五倍に達していた。
それでもなお、彼の「合理性を求める渇き」は完全に癒えることはない。
「リヒトさん、お茶が入りましたよ。……また難しい顔をして」
サクラが、湯気の立つ急須と湯呑みを盆に乗せて現れた。
「ああ、ありがとう。……いや、難しい顔などしていないさ。ただの『趣味』の演算だ」
リヒトは端末を置き、サクラの淹れた茶を一口啜る。
心地よい苦味と香りが、彼の計算機のような頭脳を優しくクールダウンさせていく。
「……本当に、ここは良い場所だ」
リヒトは目を細め、手入れの行き届いた庭を眺めた。
血で血を洗う権力闘争も、国家の存亡を賭けた経済戦争もない。
彼がかつて夢見た、完璧に制御された「安全な箱庭」。
しかし、その完璧な静寂の底で、彼の本能が微かに警鐘を鳴らし始めていた。
(……平和すぎる。システムの最適化が完了した後の、この無風状態……。人間という変数が存在する以上、こんな絶対的な均衡が長く続くはずがない)
その予感は、茶を飲み干すよりも早く、現実のものとなった。
リヒトの腕に装着された生体端末が、甲高い警告音を発したのだ。
それは、地球連邦の中枢機能に直結した、最高レベルの緊急回線だった。
「……カイルか。私に直接通信を入れてくるなど、アテナの反乱でも起きたか?」
『……リヒト様。冗談を言っている余裕はありません』
ホログラムとして投影されたカイルの顔は、かつてないほどに蒼白だった。
彼の背後では、地球連邦の管制室が赤色の警告灯に染まり、オペレーターたちが怒号を交わしている。
『……第一から第四までの主要インフラ網が、同時にダウンしました。現在、連邦首都の三割がブラックアウトしています』
「なんだと? アテナの予測モデルに異常事態のフラグは立っていなかったはずだ」
リヒトの表情から、農夫の穏やかさが消え去り、かつての「魔王」の冷徹さが戻る。
『ええ。アテナは直前まで、システムは正常だと認識していました。……というより、今も異常を検知できていません』
「……物理攻撃か?」
『違います。ハッキングの痕跡もありません。……信じられないことですが、各インフラ施設の物理的な「基盤」そのものが、アナログな手法で同時に破壊されています。カメラの死角を突き、センサーの周波数を欺瞞し、警備ロボットの巡回ルートの数秒の隙を縫って……』
カイルの報告を聞きながら、リヒトの脳内で膨大なシミュレーションが高速展開されていく。
魔法など存在しないこの世界で、これほど完璧な同時多発テロを実行するには、アテナのアルゴリズムを完全に理解し、その「盲点」を突くしかない。
「……旧教国の残党か、あるいは帝国軍の元情報部隊か。……いや、単なる残党にそこまでの組織的演算能力はない」
『現場から、奇妙なメッセージが回収されました。……旧時代のアナログな紙の束です。暗号化もされていない、ただの印字テキストでした』
ホログラム上に、そのテキストが映し出される。
【完璧な牢獄に、人間の自由なき未来に、死を。我々は、非合理なる感情の神髄である。魔王よ、貴様の論理の限界を見せてやろう。――黒の歯車】
リヒトは、その古めかしい文面をじっと見つめた。
彼が世界に強いた「合理性」に反発する者たち。
感情や伝統といった、計算式に収まらない非合理な要素を信奉し、科学システムそのものを破壊しようとする者たち。
「……なるほど。彼らはアテナをハッキングしたのではない。アテナが『人間はそこまで非合理な行動(自爆に近いアナログ工作)を取らない』と予測する、その盲点を突いたのだ」
システムの完璧さゆえの脆弱性。
リヒトは、口元に手を当てた。
その唇が、微かに、そして確かに吊り上がっていることに、サクラだけが気づいていた。
「……リヒト、さん?」
サクラの不安げな声に、リヒトは我に返る。
彼はゆっくりと立ち上がり、カイルに向かって力強く命じた。
「カイル。アテナの警戒レベルを『フェーズ4・非論理的脅威対応モード』に移行させろ。私のアカウント権限を一時的にアクティブ化する」
『……よろしいのですか? あなたが再びシステムに介入すれば、隠居生活は終わりを告げることになりますよ』
「構わん。私の作った箱庭を、泥靴で荒らそうとする輩がいるのだ。……それに、少しばかり退屈していたところだ」
リヒトの瞳の奥で、冷たく青い知性の炎が、再び燃え上がっていた。
魔法使いも、聖女も、圧倒的な武力でねじ伏せてきた。
だが、次に彼を待ち受けているのは「人間の悪意と非合理」という、最も計算しづらい敵だ。
「サクラ。……少し、出張に行ってくる」
リヒトは振り返り、サクラにだけ見せる優しい声で言った。
「……夕飯までには、帰ってこられますか?」
サクラは、止めようとはしなかった。
彼女は知っている。リヒトのその瞳が、ただの「兵器」としての冷徹さではなく、彼女との生活を守るための強い決意に満ちていることを。
「……夕飯は無理かもしれない。だが、明日の朝食の味噌汁には必ず間に合わせよう」
リヒトはサクラの髪を撫でると、隠し持っていた生体認証キーを作動させた。
大和皇国の片隅で眠っていた、最高速のステルス輸送機が、地響きを立ててその姿を現す。
「さあ、始めようか。非合理なるテロリスト諸君。……君たちの計算違いを、物理法則と経済の力で、完膚なきまでに証明してやろう」
合理主義の魔王が、再び玉座へと歩み出した瞬間だった。




