第53話:天才義弟の憂鬱と、星を繋ぐ数式
アステリア地球連邦が誇る最高学府、アステリア大学。
その中心部にある特別研究棟の最上階で、十三歳になったばかりのタロウは、膨大な数式と格闘していた。
かつて大和皇国の路地裏で泥にまみれていた孤児は、今や地球環境工学部の首席研究生である。
彼が開発した大気浄化用ナノマシンは、旧世界が残した環境汚染を驚異的な速度で無害化し続けていた。
しかし、タロウの瞳に満足の光はない。
ホログラムモニターに投影されているのは、大気浄化の次のステップ。
すなわち、軌道エレベーター建設に向けた、カーボンナノチューブの量産化アルゴリズムだ。
「……だめだ。分子結合の臨界点において、どうしても強度が三パーセント不足する」
タロウは焦燥感に駆られながら、端末のキーを乱暴に叩いた。
彼がここまで生き急ぐように研究に没頭しているのには、明確な理由がある。
義兄となる男、リヒト・フォン・アステリアの存在だ。
タロウにとって、リヒトは命の恩人であり、絶対的な神であり、同時に一生かけても超えられないかもしれない巨大な壁だった。
六年前、大和の団子屋に現れたあの少年を、タロウは今でも鮮明に覚えている。
当時のタロウは、リヒトが持ってきたゼンマイ仕掛けの自動車を「魔法の道具」だと信じて疑わなかった。
だが、この学府で狂ったように知識を吸収した今のタロウには理解できる。
この世界に魔法など存在しない。
リヒトが成し遂げたのは、魔法という曖昧な幻想に逃げることなく、冷徹な物理法則と圧倒的な資本、そして人間の行動心理すら計算に入れた「究極の合理性」による世界再編だった。
旧教国の「魔術」と恐れられていた現象すら、軌道上からの太陽光収束兵器や超音波兵器という科学の産物で完膚なきまでに叩き潰してみせたのだ。
「タロウ君、行き詰まっているようだな」
不意に、研究室のスピーカーから聞き慣れた声が響いた。
通信の主は、大和皇国で隠居生活を送っているはずの前大統領、リヒトだ。
「リヒト兄ちゃん! 通信繋いでたの?」
「アテナからの報告でね。君のバイタルサインがストレス過多を示していた。……画面を共有してごらん」
タロウは慌ててホログラムのデータを暗号化通信に乗せて送信した。
数秒の沈黙の後、スピーカー越しにリヒトの微かな溜息が聞こえた。
「タロウ君、君は触媒の温度管理を線形計算で処理しているね。ナノスケールでの熱伝導は非線形だ。……第七式の変数を、量子揺らぎの補正値で置き換えてみたまえ」
言われた通りに数式を書き換えた瞬間、エラーを吐き出し続けていたシミュレーターが、鮮やかな緑色の「成功」を点灯させた。
強度が規定値をクリアし、完璧な分子構造がホログラム上で組み上がっていく。
「……うわ、本当にできた。……相変わらず、リヒト兄ちゃんは凄いや」
タロウは感嘆の声を漏らしつつも、内心では悔しさに唇を噛んだ。
最先端の設備とAIを駆使して何日も悩んだ問題を、畑仕事の合間の片手間で解決されてしまったのだから。
「落ち込むことはない。君のアプローチ自体は極めて優秀だ。ただ、私は前世という名の『カンニングペーパー』を持っているに過ぎないからね」
「そんなの言い訳にならないよ。僕だって、いつか絶対に兄ちゃんを超えてみせるんだから」
「頼もしいな。……ああ、そうだ。サクラから伝言がある。『あまり根を詰めすぎないように。今度、手作りのよもぎ団子を送るからちゃんと食べてね』とのことだ」
姉のサクラの名前が出た瞬間、タロウの表情がふわりと緩んだ。
世界で一番優しくて、そして世界で一番強い人。
あんなに恐ろしい思考回路を持つリヒトを、ただの「少し不器用な青年」に変えてしまったのは、姉の持つ絶対的な愛情だった。
「わかった、姉ちゃんにありがとうって伝えて。……ねえ、リヒト兄ちゃん」
「なんだい?」
「兄ちゃんが作ったこの平和な地球は、僕が必ず守り抜いてみせるよ。……だから、兄ちゃんは姉ちゃんと一緒に、ずっと笑っててね」
通信の向こう側で、リヒトが言葉を失ったのが気配でわかった。
「……ああ。頼りにしているよ、タロウ君。地球の未来は、君たち新世代のものだ」
通信が切れ、研究室には再びサーバーの駆動音だけが残された。
タロウは大きく背伸びをすると、窓の外に広がる青い空を見上げた。
軌道エレベーターが完成すれば、人類は本格的に宇宙への進出を始める。
リヒトが強引に押し上げた文明のバトンを受け取り、それをさらに先の星空へと繋ぐのが、自分に課せられた使命だとタロウは確信していた。
「待っててよ、兄ちゃん、姉ちゃん。……僕がいつか、宇宙旅行をプレゼントしてあげるからね」
天才少年は決意を新たに、再び無限の数式が広がるホログラムの海へとダイブしていった。




