第51話:氷の女帝の、非合理な計算違い
旧教国、その象徴であった大聖堂は、今や「アステリア世界中央銀行」へとその姿を変えていた。
かつて神への祈りが捧げられていた高い天井の下、現在は数千台のサーバーが発する微かな駆動音と、世界中の取引データが電子の奔流となって駆け巡っている。
その心臓部。
かつての法皇が座していた場所には、一台の無機質なデスクと、世界経済をホログラムで投影するコンソールが置かれていた。
セシリア・メルクリウスは、そのデスクに深く背を預け、冷めた紅茶を一口啜った。
「……理解できませんわ。本当に、全くもって、非合理的です」
彼女の目の前には、リヒトから届いた最新の「私信」が表示されている。
そこには、大和皇国の地方で、リヒトとサクラが仲睦まじく畑を耕し、収穫した野菜で団子汁を作ったという、極めて平和で、極めて「生産性の低い」内容が記されていた。
セシリアは、そのホログラムを苛立ちまぎれに指先で弾いた。
「リヒト様。あなたが開発した『複式簿記による信用創造』と『アルゴリズム取引』によって、この世界の富は今や私の指先一つで再定義されるまでになりました。……それなのに、なぜあなたは、土を弄るなどという原始的な労働に満足していらっしゃるのですか?」
彼女の傍らで控えていた秘書が、困ったように微笑む。
「セシリア様。それはきっと、リヒト様がようやく『数字』ではない、実体のある幸せを掴まれたということではないでしょうか」
「実体? 笑わせないでください。この世で最も実体のあるものは『信用』と『金利』ですわ。愛などという、定義もあやふやな変数に人生のポートフォリオを全振りするなど、ギャンブルにもほどがあります」
セシリアは立ち上がり、窓の外を見下ろした。
眼下には、アステリア基準のインフラが整備され、かつての貧困が嘘のように消え去った街並みが広がっている。
彼女は、リヒトが蒔いた「近代」という名の種を、金融という肥料を使って育て上げ、世界を一つの巨大な市場へと統合した。
それは、リヒト・フォン・アステリアという男が望んだ世界の完成形のはずだった。
「……私は、待っていたのです。あなたが世界を征服し、その玉座の隣で、最も効率的に世界を管理するパートナーとして指名されるのを」
セシリアの脳裏に、かつての記憶が蘇る。
アステリアの領地で出会った、あの傲慢で、冷徹で、誰よりも賢明だった子供。
彼が見せた「未来の設計図」に、彼女は自分の全人生を、全財産を投資した。
それは彼女にとって、生涯最大の投資であり、生涯唯一の情熱だった。
(一番近くで、あなたと同じ景色を見ていたのは、私でしたのに……)
サクラ・シノノメ。
あの少女には、リヒトの語る「ナノメートル単位の微細加工」も、「デリバティブ取引の連鎖倒産リスク」も、何一つ理解できないだろう。
彼女はただ、リヒトが疲れた時に団子を差し出し、微笑むだけだ。
セシリアからすれば、それはあまりにも「安い」貢献だった。
「……ですが、リヒト様。あなたが選んだのがあの少女だという事実こそが、あなたの唯一の『計算違い』であることを、私が証明して差し上げますわ」
セシリアは不敵な笑みを浮かべ、コンソールを高速で操作し始めた。
「セシリア様? 何をされるのですか」
「リヒト様へ、緊急の『経営状況視察報告書』を送ります。……あ、それと。大和皇国に輸出される予定の『最高級肥料』の流通経路を、少しだけ、本当に少しだけ複雑にしておきましょう。……物流のエラーですわ。決して私情ではありません」
彼女は、サクラに宛てて、嫌味なほど巨大な、教国伝来のダイヤモンドが埋め込まれた髪飾りを「お祝い」として送る手配をした。
「サクラさん。これを付けて、泥にまみれて働きなさいな。……私の選んだ最高級の宝石が、あなたの土臭い日常にどれほど不釣り合いか、リヒト様に見せつけてあげるのです」
セシリアは、再び冷めた紅茶を啜り、暗い室内に浮かび上がる青白いデータを見つめた。
彼女の嫉妬は、冷たく、鋭い。
リヒトを愛しているからこそ、彼が自分を「便利な道具」としてしか見ていなかったことが、何よりも許せなかった。
だが、彼女は知っている。
リヒトが作ったこの世界を、誰よりも理解し、誰よりも完璧に回し続けられるのは、自分だけなのだということを。
「……いつか、退屈に耐えられなくなって戻ってくるその日まで。……私は、あなたの資産を、あなたの世界を、誰の手も届かないほど高みに押し上げておきますわ」
窓の外では、アステリア製の飛行機が、夜の帳を切り裂いて飛んでいく。
セシリア・メルクリウス。
新世界の裏の支配者は、今日もまた、誰よりも合理的な孤独の中で、愛という名の「損失」を抱えながら微笑んでいた。




