アリスとアンジェイの幼い約束④
それから十数年、アリスは天寵の力を封印していた。使うのは、力の結果に耐えられる大人になってからにしようと考えたのだ。
三歳の衝撃から十五歳で成人するまでの間に、力を使ったのは一度だけ。祖父の死から三年後にアンジェイの母が病を得て、数週間ほど寝込み、そのまま帰らぬ人となった時だけだった。
三年前と同じことを問われた九歳のアンジェイの答えは「アリスと旦那様」に変わっていた。アンジェイの命以上に大切な人は、たった二人になっていた。
なぜそんなことになってしまったのか。
切なくて――アリスは、アンジェイに気付かれぬよう、自室で一人、泣いたのだった。
アリスが『ラウル・デシャン』が何者なのかを知ったのは、社交界デビューを控え、アンジェイのものと同じデザインの指輪を父にねだった時だった。突然、父が、静かな穏やかな声で、アリスに語り出したのだ。
アリスの母には、イース伯爵家に嫁いでくる前に愛していた人がいたこと。相手は平民の青年で貧しく、二人は身分違いで引き裂かれてしまったこと。アリスが生まれた時、「これで二人の仲は安泰」と考えたらしい義母から、その事実を初めて知らされたこと――。
「無知は罪だ」
つらそうに、アリスの父は呟いた。
父は、どういうつもりでその話をしてくれたのか――。
アンジェイとのことを懸念して? 困難な恋を思いとどまるように? あるいは、後悔せぬようにしろと? もしかすると、娘を見ようとしない母を責めるなと?
肩を落としている父に、アリスは確かめることができなかった。
そんな父に、アリスは天寵の力を使ったことはない。
父が「エルフィフ」と答えるようなことがあったなら、悲しすぎると思うから。
アリスは社交界デビューに当たって、“三重天寵の力を笠に着た我儘で明るく幸せなお嬢様”になる決意をした。
それで、自分の命以上に自分を大切に思っている人たちの心が安らぐだろうと思ったのだ。
その我儘の手始めが、アリスの呼び方問題だった。
「アンジェイったら、私の社交界デビューに合わせて、私を呼ぶ時に『様』をつけるべきなんじゃないかなんて言い出したのよ。今更、何を言ってるのかしら。お父様も何か言ってやって」
「人前や公式行事の場で、私がアリスお嬢様を呼び捨てにすることなど、許されるわけがありません」
「公の場でないなら平気でしょ」
「アリスが平気でも、旦那様にはイース伯爵としての立場が」
「身分や立場に関わらず、私にはそれが必要なの!」
アンジェイが側にいてくれないと、人を信じられないニヒリストになってしまう。アリスは、父のためにも、そんなものになるわけにはいかなかった。
「構わないでしょう、お父様」
「アンジェイが聡明で賢明なことは承知している。寵に甘え、分をわきまえずに思い上がるようなことはしないと確信してもいる。しかし、アンジェイの懸念ももっともなことだ」
「アンジェイは私の侍衛よ。たとえば私が暴漢に襲われた時、『アリスタクセンシアお嬢様、お逃げください』と言われるより、『アリス、逃げろ』と言われる方が、私の安全が担保されるでしょう」
「それはそうだが……」
「私も、『名誉あるイース伯爵家令嬢付き終身侍衛アンジェイ・ピャスト。その務めを果たしなさい』なんて、仰々しい命令を言ってられないわ」
「アリスからの命令がなくとも、私は私の職務を果たすぞ」
「余計なことは言わない!」
「アリスタクセンシアお嬢様からのご下命がなくとも、私はアリスタクセンシアお嬢様をお守りいたしますが」
まわりくどい言い方が、いい皮肉になっている。誰に対しての皮肉なのかは、この際どうでもいいと、アリスは思った。
「三重天寵受者の父にして、第三代イース伯爵ユーグ・ドゥ・イース。可愛い娘の願いをきいてくださらないの」
「ぐ……」
第三代イース伯爵ユーグ・ドゥ・イースが、喉の奥から変な音を出す。それから彼は、僅かに眉根を寄せた。
「その……おまえたちはもう幼い子どもではないのだ。下卑た勘繰りをする者がいないとも――」
「アリスタクセンシア様は私の主君です」
「わかっている。そうはいっても、おまえたちは美しすぎて」
「私はただの侍衛です」
「私の生涯の友よ」
『今はそうだろうが』と声には出さず、父の目が娘の身を案じていた。
そういえば、祖父は父にアンジェイのことを知らせていたのだろうか?
アリスの中に、ふとそんな疑念が浮かんでくる。しかし、アリスはすぐにその考えを振り払った。今はそんなことより、翌日に迫った(アンジェイと二人の)社交界デビューの方が喫緊の課題なのだから。
実際、美しすぎる平民の侍衛を従えたアリスのデビューは、フランコルム王国の王宮舞踏会に一大センセーションを巻き起こした。デビューから三年が経った今でも、それは続いている。
今年、アリスは十八歳になった。もう十八歳にもなったのに――。
父とアンジェイがいてくれればいいと思いつつ、母にも愛されたいと願ってしまう。
(私のこの力は……)
「人を操ることはできるけど、人の心を変えることはできないのね……」
「アリスは私の心を変えたぞ」
「アンジェイも私の心を変えたわ」
生涯の友でありたいと願う二人の間にも秘密はある。
今年のりんごの花の季節が終わろうとしていた。




