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アリスとアンジェイの幼い約束②


 三重天寵の騒動が一段落した頃、アリスは、祖父の私室に呼びつけられた。

 そして、三重天寵の力よりはるかに重大な秘密(アリスにはそう思われた)を打ち明けられたのだった。


「これは、アリスと私だけの秘密だ。誰も知らない。アンジェイのことだ」

 大人用の椅子にちょこんと座ったアリスにそう前置きをして、彼は語り始めた。

「私がアンジェイと彼の母親に出会ったのは、ヒュペルオイアス帝国との戦いの後処理のために入ったヒュペルオイアスの帝宮の一角だった。帝宮には広い敷地内に多くの建物があったんだが、その中に比較的小さくて古い館があってな。……戦の勝敗は決していた。皇帝は既に討たれていた。帝宮を守っていた兵のほとんどが投降か逃亡したあとだった。その小さな館も既に無人になっているだろうと、私は思っていた」



 館の中は静かだった。部下の兵たちを主殿に向かわせ、二代目イース伯爵(フランコルム王国軍内では、イース少将)は一人で館の中に入っていった。そこで、彼は年端もいかない男の子と、その母親らしき女性を見付けたのである。

 床に崩れ落ちかけている女性と、その女性が倒れないように抱き支えてる幼い少年に。

「逃げ遅れたのか? 女子どもを見捨てて、自分たちだけ我先に逃げ出すとは、帝国軍の兵は情けない者ばかりだ」

 答えを期待せず、独り言のつもりで、イース少将は呟いた。

 少年が、敵軍の将を睨みつける。

「逃げ遅れたのでも見捨てられたのでもない。館の使用人たちは、母が逃がしたのだ。罪は、他国への侵略を始めた皇帝にある。その命令に逆らえる立場になかっただけの者たちは、皇帝に連座させられる必要はないとおっしゃって――」

「他の者は逃がし、息子だけを道連れにしようと考えたのか?」

 蔑む口調になったのは、初めての孫の誕生を控えたイース少将の中に、小さな命こそを大事に思う心があったからだった。

「母は、僕にも逃げるように言った! しかし、母も皇帝の命令に逆らえる立場になかった者の一人にすぎない。母だけを死なせるわけにはいかないと考え、戻ってきたのだ!」

 花崗岩の床に崩れていた母を支えていた少年が、敵将を睨んだまま立ち上がろうとする。

「アンジェイ……!」

 母親は、我が子の手を引いて、彼を押しとどめた。そして、イース少将の顔を見上げ、身悶えするように訴えた。

「道理も分別もわきまえていない子どもの言うことです。閣下、どうかこの子を見逃してください」

「見た目の歳にしては道理も分別もわきまえているようだが」

 母親は、あちこちが破れてはいるが、上等な仕立てのドレスを着ていた。母を庇っている少年は粗末な服を着ていて、下働きの子どもに見える。おそらく、貴族であることを隠すために、大人の使用人の服の袖や裾を切って、慌てて着せたのだろう。彼女は――。


「彼女は、どうあっても我が子に生き延びてほしかったのだろうな」

「それで、お優しいお祖父様は、アンジェイとアンジェイのお母様を助けてあげたのね!」

 アリスが、弾んだ声で祖父を賛美する。イース伯爵は、縦にとも横にともなく首を振った。

「私は優しかったわけではない。ただ、アンジェイの母が気高く強い心の持ち主だということは疑いようがなかったので、身分も地位も尋ねずに、秘密裏に領地に連れ帰ったんだ。副官にだけ『まもなく初めての孫が生まれる。そんな時に、子どもの命を奪うのは、孫の人生に不吉の影を落とす。二人は、孫の世話係と遊び相手にする』と告げて」

「お祖父様は正しいことをなさったわ。アンジェイはとても綺麗で優しくて賢くて勇敢だもの」

 三歳になったばかりのアリスには、アンジェイの出自も身分も――誰の身分も地位も、深い意味を持つものではなかった。

「その時、二人には、帝国のものをすべて捨てさせた。アンジェイが右手の親指にはめていた指輪以外は。あれは、持ち主にしか外せない術がかけられていたようで――」

 アリスも、アンジェイが右手の親指にはめている金と銀と青銅の指輪のことは知っていた。アンジェイの成長に合わせて大きさが変わる特別製の指輪である。

「あの指輪には、イース家のアイリスの紋章が彫られているだろう? あれは、この館に来てしばらく経ったころ、アンジェイが自分で彫ったんだ。私の厚情への感謝の印だと言って。それが嘘だったとは思わないが、本意は、イース家への忠誠を示してみせることで、母の立場と命を守ろうとしたのだろう」

 アンジェイの母は、家事使用人としては全く使い物にならなかったが、イース伯爵家を追い出されることはなかった。生まれたばかりの赤ん坊だったアリスが、アンジェイ母子がイース伯爵家を去ることを許さなかったのだ。

 泣くのが赤ん坊の仕事とはいえ、それにしてもアリスはよく泣く赤ん坊だった。ほんの些細なきっかけで、火がついたように、喉が焼きちぎれてしまうのではないかと心配になるほど大きな声で泣き続け、誰があやしても泣きやまない。

 そのアリスを一瞬で泣きやませることのできる唯一の人間がアンジェイだったのだ。

 どんなに泣いていても、アンジェイの顔を見るなり、ぴたりと泣きやむアリス。

 アリスが泣き出すたびに、使用人用住居にいるアンジェイを本館の子ども部屋まで呼び出す作業に疲れたアリスの乳母たちが、アリスのベッドをアンジェイ母子の部屋に置くことを提案するほどだった。

 伯爵家の一人娘のベッドを使用人の部屋に置くことができるわけもなく――結局、アンジェイ母子は伯爵家本館にある家族用の部屋に住まうことになったのである。

 アンジェイがアリスの側にいてくれさえすれば、イース伯爵邸の平穏が保たれるのだ。他の使用人たちから、待遇が不公平だと不満が出ることもなかった。

「一歳になる前からこんなに面食いでは、成長後が思いやられる」と心配する者は多くいたが。

 ともあれ、生まれたばかりで世界に敵のいない赤ん坊の威光とイース伯爵家当主の後ろ盾によって、アンジェイと彼の母親は、イース伯爵家での特別な立ち位置を獲得したのだった。


「アリス。アリスの三重天寵は、私がアンジェイの命を救ったことに神が報いてくれたのだと、私は思っている。そうとでも考えなければ、さして家格も高くない、成り上がりも同然の新興伯爵家の子女に、王族にも与えられない祝福が授けられるとは思えないんだ。私が正しいことをしたと、神がお認めくださったのだとでも考えなければ」

「もちろんよ! お祖父様は正しいことをなさったに決まってるわ!」

 アリスはアンジェイが大好きだった。本当の兄のように慕っていた。

 確信に満ちているアリスの眼差しに、アリスの祖父が頷く。そして、彼は声を潜めて告げた。

「このことは誰にも言ってはいけない。アリスと私だけの秘密だ」

「秘密?」

「ああ。ヒュペルオイアス帝国がフランコルム王国に対して行なった侵略の傷は深く大きい。帝国人を、帝国生まれだというだけで、当人の資質も見ずに恨み憎む者は多い。けれど、アンジェイには何の罪もない。たまたま帝国に生まれたというだけの理由で、アンジェイが他者に憎まれたり侮られたりするのはかわいそうだ。アリスもそう思うだろう?」

「安心して、お祖父様。私がアンジェイを守るわ!」

「ああ。おそらく、アンジェイはアリスの守護騎士のようなものだ。きっとアリスに幸福をもたらしてくれる」

「ええ、きっと」

「アリス。三重天寵にふさわしい気高い心の持ち主になってくれ」

「約束するわ」

 アリスは真剣な目をして約束した。が、それでもやはり、アリスには三重天寵の力がそれほどのものとは思えなかったのである。

 アンジェイを守るために、もちろん祖父との約束は絶対に守るつもりではいたのだが、アリスは、「三重天寵の力は悪いことに使わなければいい」程度に思っていたのだ。否、むしろ、アリスは「三重天寵の力は悪いことに使えない力だ」と思っていた。

 第二代イース伯爵が亡くなったのは、その半年後のことだった。



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