イース伯爵邸の子守歌と恋歌④
目を開けると、アリスは自分の部屋にいた。寝台の上に、ドレスを着たまま、横になっていた。
リボンやオーバースカートが取り除かれていることに気付いてぎょっとしたが、それはアリスの呼吸を楽にするために侍女たちがしてくれたことだったらしい。
アリスが目覚めたことに気付いた侍女二人が、りんごの実を差し出されたウサギのように目を輝かせて、アリスの枕元に飛びついてきた。
「お嬢様、大丈夫ですか。アンジェイ様が、気を失ったお嬢様を抱きかかえて運んでいらした時には、いったい何があったのかとびっくりしましたよ!」
「アンジェイが?」
「ええ。また、何か、無茶なことをなさったんですか? お嬢様が目を覚ましたら、『あんなことはもうしないように』と伝えておくように言われました」
「アンジェイ様、いつもの冷静沈着ぶりを忘れたように、お顔を強張らせていらして――アンジェイ様でも、あんなお顔をなさるんですね。アンジェイ様にご心配をおかけしちゃいけませんよ、お嬢様」
侍女たちは、滅多に見られないアンジェイの取り乱した様子に興奮しているらしい。
彼女等の気持ちは、アリスにもわからないではなかった。
アンジェイのできすぎた彫刻のように端整な顔は、冷静に取り澄ましている時より、ほんの少し歪められた時の方が、生身であることを感じさせて、見る者の胸にくるのだ。
が、それはともかく。
(アンジェイに心配……って、どうして私が注意されなきゃならないのよ! 悪いのはアンジェイの方なのに!)
理不尽だと思うが、まさか、アンジェイにキスされて気を失ったのだと、本当のことを言うわけにもいかない。
(そうよ。悪いのはアンジェイの方。急にキスしてきて――あんなキスしてきて……そもそも、どうしてアンジェイにあんなキスができるの! そこからして……そこからして……あんなキス)
思い起こした途端、アリスは、心臓から全身にどっと血が流れだしたような錯覚に襲われた。
アンジェイなら、至極真面目に資料を調べ、“勉強”した可能性もあるが、実習なしにあんなことができるものだろうか。
アンジェイの三重天寵の力が、女たらしの力だということもありえなくはない。
(三重天寵なんて大層な名目を与えられてるから、帝国再興の力だの建国の力だのと誤解されて、過大評価されてるのかもしれないわ。実際、私の三重天寵の力は、ちょっと人の心を覗けるくらいのものだし……)
部屋に誰もいなかったなら、アリスはベッドの上で大声をあげ、手足を振り回して、自身の心と体を揺るがす力を体外に発散したかった。
「もう絶対にアンジェイを許さない。キスで気を失うなんて、私にこんなみっともないことをさせて!」という大きな横波と「アンジェイとあんなキスをしてしまった……」という縦波がアリスの中で交錯し、嵐を生んでいるようだった。
心配顔の侍女たちに、
「大丈夫よ。ちょっと……そう、ちょっと、いつもの無茶をしただけ」
と、結局自分に非があったことにして、寝台から起き上がる。
幸い、寝台脇のティーテーブルの上に、気を紛らせられるものが置いてあった。
手紙が二通。どちらもイース伯爵家宛てではなくアリス宛て。
一通はエムリー・レイリスからのものだった。
『親愛なるアリス。
元気でいることと思う。
先日は、いろいろとやり込めてくれてありがとう。
君たちが王都に帰ってから、父さんと腹を割って話し合ったよ。
君の父君がレイリス組合と俺たちに向けてくれた厚意への感謝と、アンジェイ・ピャストへの完全降伏の意を示すため、何より、君に誤解される事態を避けるため、この手紙を書くことを父に勧められた。
君がどこまで把握しているのかは知らないが、俺が知っていることと俺がしでかしたことを全部、この手紙で白状する。
俺は、俺の命の恩人である父さんを壊れた古道具みたいに捨ててくれた(と思っていた)フランコルム王国の貴族社会とイース伯爵に復讐するため、その弱みを握ろうとして、イース伯爵家の周辺を調べていたんだ。
アンジェイがヒュペルオイアス帝国の人間だってことは、ヒュペルオイアス防衛戦時に先代イース伯爵の副官だったレブリエ男爵から聞き出した。アンジェイがヒュペルオイアス帝国の第一血統親王だってことは、レブリエ男爵邸に出入りしていた帝国の旧廷臣から。
フランコルム王国に帰順した振りをして生き延びているヒュペルオイアス帝国の旧臣は結構多いんだよ。北方には特に。
奴等は、アンジェイが三重天寵の受者だってことを知ってて、その力は帝国を復興させる力だと信じてる。アンジェイを旗頭にフランコルム王国への反逆というか、独立戦争を仕掛ける気でいるんだ。
ちなみに、帝国の残党は、現在、親世代と子世代の二つの勢力に分かれてる。
親世代は、いずれ自然にアンジェイの三重天寵の力が発揮される流れがくると信じていて、イース伯爵家でアンジェイが成人するのを静かに待っていた。
その息子世代は、悠長な親への反発もあって、かなり性急で過激だ。過去に帝国の重臣として栄華を極めた親世代と違い、生まれてこの方、一度もいい目を見ていないせいか、自分たちの不遇の責任はアンジェイにあると考えて、アンジェイを恨んでさえいる。親たちが帝国復興のことしか考えていないせいで、そのために生きる以外の道を選ぶことが許されなかった子世代は、自由を与えられなかった自分の人生にうんざりしてるんだよ。
俺は、アンジェイの三重天寵の力は、帝国再建とかじゃなく、人たらしの能力なんじゃないかと思ってるんだけどな。
女たちが、あの顔で紳士的に話しかけられて、ぽーっとなるのはわかるが、男たちまでが――いや、あの顔の持ち主に、対抗意識を抱けない気持ちはわかるんだが。
そのあたりのことは、同じ三重天寵持ちのアリスの方が、的確な推測ができるだろう。
アンジェイは、(多分)権力への野心は全くなくて、一生アリスの侍衛でいるつもりで、自分の出自も力のことも隠しているようだから、その意思を尊重するけど、何というか――恋多き男の俺としては、生涯ただ一人の恋人を思い続けるタイプの男の気持ちは理解できないところがある。
誠実と天才のハイブリッド? 無欲と執着の彼岸? 俺には理解不能だ。
ついでにいうと、俺は、政治家や官僚、軍人のこともよくわからん。関わりたくないと思っている。
レイリス組合が資金援助をやめることは通達したから、反乱分子共は焦って何かしてしまうかもしれない。特に、子世代は無謀な実力行使に出ないとも限らないから、注意してくれ。
と、俺が知っていることとしでかしたことは、これで全部だ。
可愛いアリス。
逆恨みして、本当にごめん。
そして、ありがとう。父君によろしく伝えてくれ。
追伸。
父さんがアンジェイの肖像画を描きだした。なんか、腹立つな!』
エムリーからの手紙は、アンジェイへの憎まれ口で終わっていた。
アリスは今日ばかりは、心からエムリーの意見に賛同できたのである。
アリスの唇には、自然に笑みが浮かんできた。




