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イース伯爵邸の子守歌と恋歌③


「お母様は、望むなら、今からでも刺繍の手ほどきをしてもいいと言ってくださったんだけど、それは遠慮してきたわ」

 アンジェイは、北の庭の温室にいた。スチールガラスの温室は、夏場は南の庭のそれより北の庭のそれの方が人間にも植物にも快適。アンジェイは、イース伯爵の研究資料の整理中だった。

「そうか」

 温室ならではの時季遅れの純白のリラの花の横で、アンジェイが浅く頷く。この結果は、アンジェイの思惑通りだったのだろう。

「アンジェイ。ありがとう。お母様とあんなに和やかに話せる日がくるなんて……。ぜんぶ、アンジェイのおかげ。私、いつもアンジェイに助けられてばかりね」

 アリスの礼に、アンジェイは縦にも横にも首を振らなかった。代わりに、告げる。

「私が今、生きていられるのはアリスのおかげだ」

「赤ん坊だった私がアンジェイの顔を気に入ったから?」

「ああ」

 やっとアンジェイが笑ってくれた。

 アリスは数秒ためらい、それから思い切って言ってみたのである。

「顔だけじゃなく、私、アンジェイの全部が好きよ」

「私も、アリスのすべてを愛してるよ」

 全くためらいのない声音。幼い子どもに「可愛い」と言う口調に似ている。

 アリスはアンジェイの“愛”を疑ったことはなかった。一瞬たりとも、露ほども、疑ったことはない。

 その時間と労力、感情や思考まで、ほとんどすべてを、アンジェイはアリスのために使い、費やしてきた――費やしてくれている。

 だが、違うのだ。

 今ここで『そういう意味じゃなくて!』と大きな声で言い返せたなら、胸中のこの焦れったさは消えてくれるだろうか。

 一瞬そんなことを考えたが、アリスはその衝動をすんでのところで抑えきった。

「ありがとう」

 自分がアンジェイに女として見られていないと認めるのがいやで、アリスはアンジェイの冷静の理由を、無理に違う場所に求めた。

 三重天寵の力がアンジェイを抑制しているのではないか、ヒュペルオイアス帝国の残党がイース伯爵家に関わる事態を避けるためなのではないか――等々。ならば、私もいい子でいなくては。

 温室を出るために踵を返したアリスは、扉を開ける前に後ろを振り返った。


「アンジェイ、アンジェイは本当に……」

(え……?)

 白いリラの花の前で、アンジェイの端整な顔が苦しそうに歪んでいた。眼差しも、見えない剣を心臓に突き立てられているかのようにつらそうで――。

 その瞬間に、アリスは悟った。

 アンジェイの強靱な自己抑制にも限界はあるのだと。

 アンジェイがこんなにも苦しそうな目をしているのは、その理由は、アリスが苦しんでいることを、彼が知っているから。アリスを苦しめているのが彼自身だということを、アンジェイが知っているから。そして、知っていることを隠さなければならないから。

 そうに決まっていると、アリスは思った。自惚れではなく、そうでないはずがないと、アリスは思ったのだ。

 アリスに気付かれたことに、アンジェイも気付いたのだろう。もう隠せないと、彼は悟ったようだった。

 途端に、アンジェイが動き出す。アリスがためらいながら十歩もかけて歩いた距離を四歩で縮め、アンジェイはアリスの左の上腕を掴みあげた。そのまま、アリスの身体を引き寄せ、抱きしめて、唇を重ねてくる。

(え……あ、え、ええーっ!?)


 逃げたいわけではない。逃げたいわけではないのだが、アリスは反射的にアンジェイの唇から逃げようとした。

 だが、逃げられない。アンジェイの腕の力が強すぎて、動けない。

 唇が熱い、熱すぎる。息ができない。気が遠くなる。

 私の心臓? アンジェイの心臓? 右と左で離れているはずの二つの心臓が、区別がつかないくらい重なっている。速さも同じ、アンジェイの心臓がこんなに速く脈打つなんてことがあるの。

 嘘よね、嘘。

 アンジェイの唇がアリスの頬に移動して、瞼に、耳に、首筋に熱を注ぐ――。

 嘘。こんなの、夢だとしても突然すぎる。

 こんなに側にいるのに、アンジェイの顔が見れない。今、アンジェイの目を見たら、気が遠くなる。

 私……私は――。



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