イース伯爵邸の子守歌と恋歌②
「お母様、ごきげんよう」
アリスの母エルフィフは、リトルフ先生が帰ったあとも練習を続けていたのだろう。
譜面台に書きかけの楽譜とペンが立てかけられている。エルフィフは、手元にない子守歌の楽譜を作ろうとしているようだった。
視察先で写譜してくればよかったと思い、すぐ、その考えを放棄する。それは、母のこれまでの時間と労力を無駄にする行為だ。だから、アンジェイもそうしなかったのだろうと、アリスは察した。
「アリス……」
アリスの銀朱の髪は、母から受け継いだものである。
クラヴサンに向かって座っている母は、髪をやわらかく結い上げており、今日も完璧な淑女だった。
「お母様の演奏が聞こえてきたので……。お邪魔でしたら、出直しますが」
「いえ、平気よ。嬉しいわ。アリスの方から――」
エルフィフは、その先を言い淀んだ。言い方によっては、「嬉しい」の意味を曲解されかねないと考えたのだろう。
エルフィフの眼差しは、本当は嬉しくないのに「嬉しい」と言った者のそれではなかった。珍しいアリスの来訪に、少し戸惑っているようではあったが。
「お父様とコルヌアイユ侯爵領に視察に行ってまいりました。あちらで、アンジェイが、お母様が弾いていらっしゃる曲は子守歌だと突きとめてくれたんです。それで、あの……どうしてこの曲なのか、訊いておいでと勧められて……」
多分そういうことなのだろう。アンジェイが私のためにならないことをするはずがない――。
アンジェイの落ち着き払った態度に焦れ、困惑し、激しく心を乱されても、その信頼だけは揺るがない。
その信頼のもと、アリスは母に尋ねたのだった。
なぜ、今、子守歌なのか――と。
エルフィフの答えは、アリスの質問に対して少し齟齬のあるものだった。
彼女は溜め息混じりに、
「……彼は相変わらず、実母の私の何倍も、あなたのために生きているのね」
と呟いた。
「……」
アリスは、否とも応とも答えられなかった。比較の修飾節がなかったら、素直に頷くことはできたのだが。
無言のアリスに、エルフィフが微苦笑を向けてくる。
「あなた方が新領地の視察に出る数日前に、旦那様から意見を求められたの」
「意見? お父様から?」
視察に出る数日前というと、母のクラヴサンの演奏が形になってきた頃だろうか。父は母の奏でるクラヴサンの音に何を感じ、何を考えたのか。
母が語った父の相談内容は、アリスには思いがけないものだった。
「あなたが、愛する人と結ばれることと、身分の釣り合っている者の妻になること。母として、一人の女性として、君はどちらを望むのか――と」
「……それで、お母様は何とお答えになったの」
「質問の意図はすぐにわかったのだけど、あまりに突然尋ねられたものだから、私はすぐには答えられず、迷って、悩んで――そして、私には、母として迷い悩む権利がないことに気付いたの。赤ん坊のあなたを愛し育てたのは、アンジェイと彼のお母様だった。長じてからは、アンジェイとユーグで」
「お母様には非のないことです。私がお母様を避けたんです。ごめんなさい」
「私が、自分でも気付かぬうちに、あなたから避けられるようなことをしてしまったのね?」
「……」
母は、自分が娘の前で、娘より愛している人がいる女の振舞いをしてしまったのだと、考えているらしい。そして、イース伯爵家に嫁いでくる前の母の恋人のことを、娘が誰かから知らされてしまったのだと。
「……」
アリスは確かに、“誰か”からその事実を知らされた。
「そもそも私には自分の意見を言う権利がないと思うの。私は家のために旦那様と結婚し、イース伯爵夫人として何不自由ない暮らしをしてきた。十八年もあなたを放っておいて、今になって後悔して、こんなに長い時間を費やして、やっと旦那様の優しさに気付いて、旦那様を傷付けていたことに気付いて、失った時間を取り戻したい、やり直したいと思っているような愚かな女に、何が言えるというの」
失った時を取り戻したい。やり直したい。母が、邸内にクラヴサンの音を響かせるようになったのは、その願いに気付いてほしかったからなのだろうか。奏でる曲に人に知られていない子守歌を選んだのは、母親としての後悔と、今更そんな虫のいい願いを言葉にはできないと思う臆病と遠慮ゆえか。
「そんなことは……。私は、お母様の――いいえ、あなたの、忌憚のない意見を聞きたいわ。聞かせてください」
「決めるのはあなたよ。でも、私には、アンジェイよりあなたに似合う人は思いつかないわ」
そう告げる母に、どんな顔を見せればいいのかわからない。瞼を伏せて、アリスは母に訊いた。
「あの……お父様とは――」
「旦那様が、最近私の部屋にお話をしにいらしてくれるの。侯爵領視察の際のお話とか。嫁いできて二十数年、一度も生家に帰ったことはないのだけれど、いろいろ変わってしまったようね。町の様子も、人の心も……」
「ええ」
「旦那様が優しい人だということは最初からわかっていたの。でも、だからといって――」
優しい人だから。そんな理由で心変わりできたなら、人は恋に振り回されて不幸になったりはしない。恋のままならなさだけは、アリスにも今なら理解できた。
「でも……あなたには身勝手に思えるでしょうけれど、私も変わろうと思っているの」
今から、夫婦として、母子として、少しずつ新しい時間を築いていきたい――という母。
そんな母を、優しい父は許して受け入れるのだろう。
両親が二十数年の時をかけて、辿り着いた今。
確かに過ぎ去った時を取り戻すことは、母にも父にもできないだろう。
が、それでも、アリスの胸は温かい幸福感でいっぱいになり、その幸福感を一人で抱えていることが、アリスにはできなかった。




