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イース伯爵邸の子守歌と恋歌①


 アリスは夕べも眠れなかった。コルヌアイユ侯爵領の視察を終えて王都に戻ってきてから、ずっとこの調子。

 夜、寝台に横になって目をつぶると、レブリエ男爵邸の厩舎で聞いた下劣な声が頭の中に蘇ってきてしまうのだ。

『そこまであの娘を気に入っているのなら、ヒュペルオイアス帝国の皇帝として、あの娘にアンジェイ様の妻になるよう命じればよろしい』

 アンジェイは、ヒュペルオイアス帝国の旧臣のあの提案を実行する気はないのだろうか。ほんのこれっぽちも?

『愛しているのは私の方だ』と、彼は言っていた。それとも、その愛は、生まれた時からいつも一緒だった家族に向けるようなものなのか。

(私は指先がほんのちょっとアンジェイに触れるだけで、心臓が破裂しそうになるのに!)

 なのに、アンジェイは平気なのか。

 アンジェイがイース伯爵家の体面を保つために冷静に振舞ってくれていることはわかっているのだが、以前と変わらぬ彼の端整な横顔を見ていると、つい問い詰めたくなってしまう。そして、わかっているからこそ、アリスの心は千々に乱れてしまうのだ。

(私、子どもの頃は平気でアンジェイにキスだってしてたのに……)

 無邪気だった頃の自分を思い出すと、頬が熱を帯びてきた。

(馬鹿だ、もう……)

 こういう時は外に出て、馬を走らせるか、剣を振り回して身体を動かし、頭を空っぽにするしかない――と思う。

 だが、淑女にあるまじきその手の運動は、アンジェイが一緒でないと、父が許可しない。嵐の元凶が同乗していなければ船出が許されないとは、相剋の極みである。

 アリスは自分を落ち着けるために、窓に向いた肘掛け椅子に深く身を沈めた。アリスの部屋の窓からは、身を乗り出さないと、東の庭のりんごの木は見えない。


 こういう時、いわゆる淑女なら、刺繍や読書や楽器の演奏でもして、心を落ち着けようとするのかもしれない。

 しかし、アリスは、刺繍などしたことはない。楽器は途中で放り出し、読書も、よほど興味を引かれる分野のものでないと没頭できない。

 アリスは、完全に失格淑女だった。

 アップルパイより、生のままのりんごの方が好き。いちごのタルトより摘んだままのいちごの方が好き。東方から輸入された高級な茶葉でいれたお茶より、冷たい湧き水の方が好き。

 常にアンジェイと一緒にいるためには、そういう嗜好の方が、何かと都合がよかったのだ。

 その手の淑女の嗜みを母に教えてもらえなかったのだから仕方がない。もとい、母が教えてくれなかったのではない。アリスが母を避けたのだ。

 母が自身の命以上に大切だと思う人は『ラウル・デシャン』。

 当然自分の名が出てくると信じていた母の唇から、あの名が出てきた時から、アリスは母に近付けなくなった。

 三重天寵の力がなかったなら、アリスは母の引き裂かれた恋人の名を聞くこともなく、母の愛を信じ、母を慕い続けていたのかもしれない。だが、アリスはその力を使ってしまった。

 自分を愛していない人に『愛して』と求めるのは惨めだった。求めることで、更に鬱陶しがられることも恐かった。

 今更、母に「私に刺繍を教えて」と頼めるものだろうか。それ以前に、どんなに頑張っても上手くできるようになる気がしない。

 過去をやり直すことはできない。失われた時間は、もう取り戻すことはできないのだ。

 けれど――。


 りんごの花は散ってしまったが、母のクラヴサンの音は今日も聞こえてくる。随分うまくなったように感じる。

 これまでは母を避けてアンジェイの懐に逃げ込んでいたが、今はアンジェイより母の方が恐くない。

 勇気を出して、母に聞いてみようか――と、アリスは思った。

 どうして、今、子守歌なのか。

 アンジェイがわざわざ調べてくれたのだ。その事実には意味があるに決まっている。


「子守歌というのは、もちろん、赤ん坊を寝かしつけるための歌だ。だが同時に、なかなか眠ってくれない赤ん坊を寝かしつけようとして疲れている母親の気持ちを和らげ、子どものいる幸福を母親に思い起こさせるためのものでもある――と、生前、私の母は言っていた」

 アンジェイにそう言われても、アリスはすぐには腑に落ちなかった。

 アリスの記憶に残っている子守歌は、アンジェイとアンジェイの母が歌ってくれたもので、それはいつもアリスのためだけに歌われていた――ように思う。

 アンジェイの母の優しく囁くような歌声。声変わり前のアンジェイの、歌詞は「眠れ」なのに、「眠らず、僕を見て」と誘うような声。

 安らぎと緊張、眠りと目覚め。幼い頃から、アンジェイは、アリスに相反するものを同時にもたらす存在だった。

『時間はどんな薬草より確実に傷病を癒やしてくれる薬だ』と、ラウル・デシャンは言っていたという。

 母にとっては、この歌こそが、痛みを和らげる薬のようなものなのか。それとも、別の思いがあるのか――。

 せめて外見だけは淑女らしく、間違ってもクラヴサンの演奏を求められることのないよう、パゴダスリーブのドレスを着て、アリスは音楽室に向かった。




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