義兄エムリーの登場④
「アンジェイ。私、どうしたらいいの。彼は――エムリーは、父の違う私の兄だというの。私とお父様は、彼等から妻と母を奪った極悪人で……なのに、彼は何食わぬ顔で、お父様の視察の案内を務めている――。彼は復讐を望んでいるのかしら。私とお父様は、そんなにたくさんの人を不幸にしたの……」
「兄? あの男がアリスの?」
「私、どうやって罪を償えばいいの。私がお母様に愛されていないだけでは、罪の償いにならないの? お父様は何も知らなかったのに――」
コルヌアイユ侯爵邸の図書館でアンジェイが目を通していたのは、この地方の民俗誌だった。王都では読めない資料だけを選んで目を通していたらしい。
図書室に他に利用者はおらず、そこはアリスがアンジェイに弱音を吐くにはちょうどいい場所だった。
読書用の一人掛け椅子から、ベンチソファーに掛けているアリスの隣りに移動してきたアンジェイは、泣いてしまいそうな目を隠すために俯かせていたアリスの顔を上向かせ、訝るような眼差しをアリスに向けてきた。
「アリス。君らしくない。落ち着いて。まず、彼の言っていることが事実かどうか確認することが先決だろう」
「え……あ」
それはそうである。アンジェイの言う通りだ。
アリスは天寵の力の及ばない状況で、エムリーの告白を聞いた。彼は嘘を言っているかもしれないのだ。
「髪の色、瞳の色、彼にはどこもアリスに似たところがない。あの骨格はむしろ北方の――」
「そう……そうよね。私、お母様のことが絡むとどうしても――」
冷静さを欠き、判断を誤ってしまう。
「エムリーのことは、私が調べよう。調べがつくまで、アリスは……そうだな。この曲を弾けるようになっておくといい」
「曲?」
アンジェイがアリスに示してきたのは、この地方に歌い継がれてきた歌曲について書かれた本の一ページだった。
アリスはリトルフ先生の真面目な生徒ではなかったが、基本的な楽譜の読み方だけは、それなりに習得していた。
アンジェイがアリスに残していった本には、民間歌曲の概要と歌詞も載っていた。
赤ん坊の眠りを邪魔する小人たちを、母親が優しくなだめる子守歌。
一番では、寒さに震える小人に上着を縫ってやって。二番では、おなかをすかせている小人にミルクを飲ませてやって。三番では、寂しがり屋の小人を両手でそっと包んでやり、小人たちは赤ん坊と一緒に眠りに就く。そんな歌。
二日後――それが王都のイース伯爵邸で母が弾いている曲(楽譜がないので苦労しているのだろう)だということに、アリスが気付いた頃、アンジェイが調査結果を携えて、アリスの許に戻ってきた。
「結論から言うと、エムリー・レイリスとアリスの間に血の繋がりはない」
音楽室に入ってきたアンジェイが開口一番に告げた“結論”に安堵していいのかどうか、咄嗟にアリスは判断できなかった。
それでも、ラウル・デシャンの関係者なのだろうエムリーが、アリス親子に苦しめられたことはない――とは限らないのだ。
アンジェイが調べたところによると。
母の恋人ラウル・デシャンは平民の画家だった。
イース伯爵家に送る見合い用の肖像画を描くために、アリスの母エルフィフの実家に雇われ滞在することになり、二人は恋に落ちた。
恋する者の目と手を用いて描かれた肖像画の出来は素晴らしく、両家の婚姻はめでたく成立する。
生涯最高傑作を描き終えると同時に恋も失った若い画家は、腑抜けになって、故郷の町(コルヌアイユ侯爵領の中心の町コルスタ)に戻った。そこで、しばらく自暴自棄な暮らしをしていたらしい。
ちょうど、ヒュペルオイアス帝国の南下侵略が始まり、国境に近いこの付近では、ヒュペルオイアス帝国軍の兵とフランコルム王国の民間人の間でトラブルが頻発していた。
そんな時たまたま、ラウル・デシャンは、口をきけない初老の女性が町の人々に責め立てられている場面に出くわす。
その女性は、薬草の入った籠を右腕に下げ、左手で幼い男の子の手を引いていた。
当時、国境に近い町村には、「見慣れぬ者を見かけたら、警備警察に届け出るように」との通達が出ていた。が、どう見ても、その二人はヒュペルオイアス帝国の兵や間諜ではない。国境の山で薬草採集をしているうちに方角を見失い、隣国の町に下りてきてしまった迷子といったところである。
ラウルはその二人を気の毒に思ったらしい。進む道を見失い、踏み迷っている者同士、同情を覚えたのかもしれない。
彼は、町民に小突き回されている二人の身元引受人を買って出たのである。
「二人は、僕の息子と義母ということで、僕が預かろう。それで警察にも言い訳が立つ」
そう告げて、彼は、ヴェーラ・レイリスとエムリーの二人を、彼の家に引き取ったのである。
ヴェーラ・レイリスが帝国語しか話せないので、口をきけないふりをしていたこと、彼女の孫と思われたエムリーが、彼女に拾われた孤児だったことがわかったのは、かなりの日が経ってからのことだったらしい。
やがて、ヒュペルオイアス帝国とフランコルム王国の戦争が本格化し、二人はこの町での定住を決意する。
ヴェーラ・レイリスは薬草の知識が豊富な女性で、彼女の知識は多くの人々の健康に寄与した。二人は町に馴染み、エムリーは長ずるにつれ、祖母の知識を元手にした商売を始め、成功した。
生きる意味を見失っていたラウルも、生き抜くことしか考えていない彼等と共に暮らすうちに、少しずつ気力を取り戻していった――ということらしい。
「では、彼は私の兄ではないのね」
「どこも似たところはいないだろう」
「そう……かしら」
「強いて、アリスに似ている点を挙げるなら、情に篤いところかな。血の繋がらない祖母、血の繋がらない父。自分を拾ってくれた人たちに、彼は実の肉親以上の思いを抱いているようだ」
『それはむしろアンジェイに似ている点だろう』とは言わず、アリスは瞼を伏せた。
アリスとその両親は、エムリーがそれほど大切に思っている人を、折れた絵筆のように捨てた者たちなのだ。
「どうすれば、私は、私たちの罪を償えるかしら……」
「アリス。君には――」
『償わなければならない罪はない』と、アンジェイは言おうとしている。それは、アリスにもわかっていた。
だが、わかっていても言われたくないし、わかっていても得心できないことが、この世にはあるのだ。
アリスがアンジェイの言葉を遮ろうとした時、
「神様みたいに綺麗な男が、俺とお祖母ちゃんのことを探ってるって報告を受けて、嫌な予感がして来てみれば――」
アリスの代わりにエムリーが、アンジェイの言葉を遮ってくれた。
いつのまに館に入り込んでいたのか――。
エムリーは、アリスの疑念も声に出させなかった。アリスにできたのはただ、瞳に罪悪感を宿すことばかり。
そんなアリスを見て――むしろ睨んでいたエムリーが、やがて、その肩と全身から力を抜く。それから彼は、張りがあるとは言い難い声音で、
「嘘はほとんどばれた……ってことかな。まったく、町中の人間が、そっちの兄さんの綺麗な顔に圧倒されて、知ってることを全部べらべらと――」
両手を挙げて降参の意を示し、エムリーは苦々しげに笑った。
「言っておくけど、父さんは誰も恨んでいないよ。エルフィフの母親から、アリス嬢が生まれたってことを知らされて、『娘を忘れて幸せになってほしい』と懇願された時には、イース伯爵夫人に『幸せを祈っている』という手紙を出そうとしたくらいだ。まあ、そのせいで余計な波風が立つ可能性を考えて、手紙を出すことはしなかったらしいけど」
「ラウル・デシャンが……」
母の愛を独り占めしている幸福な男だと思っていたラウル・デシャンが、そんな優しい気持ちでいてくれたとは。
アリスは、思わず己の不明を恥じて顔を伏せた。
「でもさ、父さんは人が好すぎると思わないか? 相手は、平民の貧乏絵描きには恋をする権利もないと言わんばかりに、厄介払いしてくれた貴族様だよ? 父さんが許せても、俺は許せない」
エムリーの言葉が、アリスに顔を上げさせる。固定された身分というのは、繊細で大きな問題なのだ。特にエムリーのように有能で上昇志向の持ち主には。
アリス自身、時々ふと、アンジェイはなぜイース伯爵家の使用人でいてくれるのだろうと、不思議に思うことがあった。
「あなたの憤りは至極尤もだと思うわ。でも、お父様……私の父は――」
父の弁護をしようとして、言い淀む。その先をアンジェイが引き継いでくれた。
「私は、君の父君とも会った。彼は、時間はどんな薬草より確実に傷病を癒やしてくれる薬だと言っていた。幼い君との出会いは特効薬だった、とも」
「……」
今度はエムリーの方が言葉に詰まる。彼は、アリスとアンジェイに、開き直ったように笑ってみせた。
「あんた、俺よりそつがないな。まさに鉄壁の防御。さすがだ」
エムリーは心底から嫌そうに、顔を歪めた。
「父さんから恋人を奪って、前途洋々だった父さんを腑抜けにしてくれた悪党のくせに、あいつは、コルヌアイユ侯爵領は自分より薬事組合が治める方がいいから、俺か父さんを貴族に推挙したいとか言い出して」
「お父様が?」
あの父なら言い出すかもしれない。目から鼻に抜けるようなエムリーの機転と要領のよさを、自分にはない才と、父は賞賛していた。
「もちろん俺は貴族になんかなるつもりはないが、お人好しにもほどがあるだろう。その……どっちの父親も」
その子ども世代は、多分どちらもお人好しではない。その自覚があるアリスとしては、エムリーに苦笑を返すことしかできなかったのである。
結局、エムリーの養父がアリスの母の恋人だった事実は、アリスの父には秘すことにした。
エムリーは、アリスの父の提案を断固として断り、代わりに、レイリス薬事管理組合がこれまでに築いた既得権益を保障することを双方で合意して、今回の視察は完了したのである。
かくして、侯爵領視察はつつがなく終わった。
そう思っていたのだが、王都への帰途に就く日、馬車に乗り込む直前、アリスはエムリーからとんでもない秘密を耳打ちされてしまったのである。
「コルヌアイユ侯爵がこんなお人好しだとは思ってなかったから、いつか困らせてやろうと考えて、俺、ヒュペルオイアス帝国の残党に活動資金を援助してたんだ。あれはもうやめることにするよ。ごめんな、アリス」と。




