義兄エムリーの登場③
コルヌアイユ侯爵領の視察は極めて順調かつ効率的に捗っていた。組合人事、薬草採集の現状や奨励策、品質管理、流通量の統制まで、レイリス薬事管理組合では完璧に組織運営されており、それでいて、新規参入を希望する人間や新しい薬草薬品の開発開拓にも寛容で、安全性、流動性、収益性のバランスも取れている――と、アリスの父は至極ご満悦。それは父に同行しているアリスにもよくわかった。
管理組合の代表は、ヴェーラ・レイリスという八十手前の老婦人で、現在は床についているため、会うことは叶わなかったが、彼女は現在の仕組みを二十数年の時をかけて作ったとのこと。その手腕を、孫のエムリーは確実に受け継いでいた。
アリスの父は、有能でそつのないエムリー・レイリスが大いに気に入ったようだった。
夫から妻を遠ざけ、娘から母を奪ったラウル・デシャンと関わりのある男を!
だが、初対面時にあの名前を聞かされていなければ、アリスも父同様、彼を気に入っていたのかもしれない。
アリスは不安でならなかったのだが、視察のスケジュールが過密で、エムリーには通常業務もあったため、アリスが二人きりで――父のいないところで――エムリーと対峙できたのは、彼女があの不吉な名を聞いてから五日後のことだった。
三重天寵の力を使うことに躊躇いはなかった。彼が誰をどれだけ深く愛していようと、それが自分の心を傷付けることはないと、アリスは思っていたから。
「エムリー・レイリス。あなたがあなたの命以上に大切だと思っている人は誰?」
と力を使って問うてから、エムリーの口からラウル・デシャンや母エルフィフの名が出てくる可能性に思い至り、ひやりとする。
幸い、それは杞憂に終わった。
エムリーの答えは、
「祖母と父」
だった。
「祖母というのは、ヴェーラ・レイリスさんね。あなたのお父様の名前は何というの」
『母』という答えが返ってこないところをみると、彼の母親は既に亡いのだろうか。それとも何か確執でもあるのか――。
そんなアリスの思考が、
「父の名はラウル・デシャン」
というエムリーの声で停止する。
想定外の名前だった。
(え? どうして? だって苗字が違う。ラウル・デシャンの息子? この人は、私より二、三歳は年上よね? お母様は子どものいる男性を恋してたの?)
母の恋は、未婚の男女の身分違いではあるが清らかなものだったのだと、アリスは根拠もなく信じていた。
“清らか”だったのは――むしろ“世間知らず”というべきか――自分の方だったのか。アリスは自身の夢見る少女ぶりに呆れ果てることになったのである。
夢から覚め、現実に立ち返った今、アリスには左手の力を使う勇気は持てなかった。
エムリーが自分の命をかけることになっても殺したいほど憎んでいる者の名を問うて、彼の口から父の名や自分の名が出てきたら――それだけでなく母の名前までが出てきたら。
そんなことになったら、エムリーにそんな憎しみを抱かせてしまった状況そのものに、アリスの心は耐えられそうになかったのだ。
「今のやりとりは、すべて忘れて」
エムリーに命じて指輪を元に戻してから、アリスは、自身の意思を取り戻した彼に尋ねたのである。真実より、今は嘘が聞きたいと思いながら、
「エムリー。あなたは何者なの」
と。
「やっと俺に訊いてくれたね、俺はラウル・デシャンの息子。父親の違う、君の兄だよ」
「……!」
真実より嘘が聞きたいと思ったのは事実だが、こんな嘘(?)は望んでいなかった。
「それは、あなたが……私の父と結婚する前に、私の母が産んだ子どもだということ?」
「ああ。つまり、君と侯爵は、俺の父から妻を奪い、俺から母を奪った傲慢で残酷で醜悪な――」
「そう……そうね。あなたの言う通りなのでしょう……」
母が――彼女の夫より娘より愛しているラウル・デシャン。
ラウル・デシャンも同じように母を愛していたのだとしたら、エムリー父子を不幸にしたのは、母に愛されていない自分たち父子ということになる。
エムリーがコルヌアイユ侯爵とその娘を憎むのは自然なことで、彼を責めることは誰にもできない。
「ごめんなさい……。でも、お父様には何も言わないで。お父様は何も知らなかったの。お母様に好きな人がいたことも、お母様が諦めさせられた幸福のことも。だから……」
エムリーが、目を見開いてアリスを見おろし、見詰めている。
自分が図々しい願いを口にしていることは、アリスも自覚していた。
けれど、大切な人を傷付けないでほしいと望むだけなら、悪人にも罪人にも許されるだろう。
アリスは、父には何も知らせたくなかった。家柄の釣り合った美しく気立てのいい令嬢だと実母に薦められ、その物静かな佇まいを好ましく感じて、結婚を決意しただけの父に、どんな罪があるというのか。
そうして。
アリスが頼れるのは、結局アンジェイだけだった。




