義兄エムリーの登場②
元コルヌアイユ子爵邸――今日からはコルヌアイユ侯爵邸になる館は、煙突と尖塔の数が多めで、正面ファサードに列柱のある、少し古い様式の三階建ての建物だった。
先触れに出していた護衛士が下馬して、主人一行の到着を待っている。
その横に、六人の男女。執事と従僕、下男、家政婦と侍女――だろうか。
そして、見るからに使用人ではない――主人然として、上等の服をまとっている二十歳前後の青年。
彼が、館を管理してくれていた“平民の商人(の関係者)”らしい。
金茶色の髪と褐色の瞳。機嫌の良さそうな表情。
新侯爵を歓迎していないようではなかった。少なくとも表面上は友好的に接しようとしてくれている。
アリスは小さく安堵の息を漏らして、馬車を降りた。
いつものように、ちょうどいい場所にアンジェイの手が差しのべられている。いつものように、その上に自分の手を置いたアリスは、次の瞬間、ほとんど反射的に、自身の手を空中に弾いていた。
「アリス?」
「あ……ごめ……」
私の身体は、いったい何を考えているのだろう。アンジェイの手に触れて驚くなんて。
自分でも呆れるほど、体と思考と感情の連携がとれていない。いつも通りに振舞うために、宙に浮いた手を元の場所に戻そうとして、それがうまくいかず、アリスは前方につんのめった。
そのまま倒れそうになったアリスの身体を、アンジェイが抱きとめる。
一瞬凍りついたアリスの心臓は、すぐに、高温の炉に放り込まれた鉄鉱石のように煮えたぎり始めた。
『おまえとアンジェイを正式に結婚させてやることはできないが、二人の間にできた子を養子としてイース家に迎え、イース家を継がせてやることはできると考えているんだ』
『そこまであの娘を気に入っているのなら、ヒュペルオイアス帝国の皇帝として、あの娘にアンジェイ様の妻になるよう命じればよろしい』
(わ……私、何を考えているの! 落ち着け、私! アンジェイがいつも通りなのに、私だけが取り乱して、馬鹿みたい……!)
一度、大きく深呼吸をして、体勢(と表情)を整える。少し上擦った声で、アリスは失態の言い訳をした。
「ごめんなさい、アンジェイ。初めて会う人たちに気品ある淑女の印象を与えようとして、気負いすぎたみたい」
「王女や王太子は愚か、国王陛下の前でも気後れしないアリスが」
からかっているのか、本当に心配しているのか。いつもなら、どちらの気味が強いのか、その表情に変化がなくても直感でわかるのに、今日はわからない。
そんなアリスたちの前に、金茶色の髪の青年が進み出てきた。
「ようこそ、コルヌアイユ侯爵様。私は、この館の維持管理を担ってまいりました、レイリス薬事管理組合代表ヴェーラ・レイリスの孫のエムリー・レイリスと申します」
商人組合でも手工業者組合でもなく、薬事管理組合。この地域の主産業は、父が言っていた通り、薬草らしい。
これは確かに父の管轄だと、アリスは、今回の叙爵に改めて得心した。
「お迎え、ありがとう。コルヌアイユ侯爵に叙されたユーグ・ドゥ・イースだ。まだコルヌアイユ侯爵とは呼ばれ慣れていないので、自分のことと気付かず粗相をしてしまったら許してくれたまえ。こちらが娘の――」
「存じ上げております。アリスタクセンシア様。三重天寵の姫君。噂通り、凜としてお美しい」
『気が強いじゃじゃ馬』も言いようである。アリスは、少々申し訳ない気持ちになった。
「そして、そちらが、名高いイース伯爵令嬢の美貌の侍衛殿。これは何とも、噂以上に……」
使用人と知っていながら、しかも女性ではなくアンジェイと同年代の男性が、アンジェイにまで言及する。
アリスはエムリー・レイリスの言動に引っかかりを覚え、その顔にまじまじと見入ってしまったのである。
彼は楽しそうに笑っていた。一見人好きのする好青年なのに、うっすらと毒が感じられる瞳の奥、唇の端。
その上、言うに事欠いて、
「令嬢は、噂通り、超絶面食いなんですね。悩ましいことだ。僕も容姿にはそれなりに自信があったのに、敵いそうにない」
である。
「平民の分際で」と思ったわけではない。そうではなく――アリスは、“アンジェイではない男の分際で”そんな口をきくエムリーに、カチンときたのだ。
たんぽぽ姫の兄でさえ、アンジェイに対抗しようなどという思い上がりは、最初から放棄しているというのに。
「エムリー・レイリス。あなた――」
ついいつもの自分に戻り、肩を怒らせて、一歩前に出る。
そんなアリスをやりすごして、エムリーは、アリスの父に向かい、好意に満ち満ちた微笑を投げた。
微笑む前に、すれ違いざま、アリスにだけ聞こえるように、「ラウル・デシャンを知っている?」と囁いて。
アリスは、その場に棒立ちになった。
「公爵様。長旅、さぞやお疲れでしょう。今日はごゆっくりお休みください。明日には早速、薬事組合の仕事と、うちで扱っている薬草薬品の種類について説明をさせていただきたく――」
それきりアリスの存在を無視したようなエムリーの言動に困惑したアリスは、自身の振舞いに迷い、結局、アンジェイの腕にすがることになった。
「アリス?」
いつも通りに落ち着いたアンジェイの声。いつも通りでないのはアリスだけだった。
「彼、お母様の……お母様の恋人だった人の名前を知っていたわ。お母様が本当に好きだった人……」
「――大丈夫だ。私が、誰にもアリスを傷付けさせないから」
「……ええ」
アンジェイのその言葉を、この旅行に出る以前なら、疑いもなく信じていた。アンジェイは自分を守ってくれると。それでももし傷付くことがあったなら、それはアンジェイの力不足ではなく、自分が弱すぎるだけのことなのだと。
だが、今、アリスを最も深く傷付けることができるのは、エムリー・レイリスではなく、母の昔の恋人でもなく、母の冷淡や貴族社会の固陋でもなく、アンジェイその人なのかもしれない。
アンジェイの腕にすがりながら、アリスの指は震えていた。




