レブリエ男爵邸の密談④
「四歳で国を出られた殿下が我々のことを憶えていらっしゃらないのは致し方のないことですが、まさかご自分が何者であるのかまでを忘れてしまったわけではございますまい?」
「ヒュペルオイアス帝国の皇帝となるべき御方が、敵国の軽輩貴族の下僕を務めているなど、あっていいことではありません」
「……君等が何を言っているのか、さっぱりわからないな。私に父はいない。いたのは母だけだ」
「エンドゥーラ様のことは、心からお悔やみ申し上げます」
「心にもないことを」
「――」
アリスは咄嗟に厩舎の扉の陰に身を隠し、息を潜めた。最高速度で情報の整理を始める。
あの商人たちの狙いは新公爵に取り入ることではなく、アンジェイに近付くことだったのか。
そして、彼等の正体はどうやらヒュペルオイアス帝国の旧臣だったらしい。
「エンドゥーラ様への同情は本心からのものです。お美しくお優しい方でしたから」
「その母を不幸にした男の国が滅んだのは、神の采配だったのだろうよ」
アンジェイの声とは思えない冷たい響き。きっとその眼差しも同様に冷えているのだろう。
寒くはないのに、身体が震える。アリスは、厩舎の中にいるアンジェイの姿を窺い見る勇気を持てなかった。
「そうかもしれません。おそらくそうなのでしょう。けれど、だから滅んだままでいいことにはなりません」
「私は滅んだままでいい」
「そうも言っていられません。仇の国の成り上がり伯爵家の使用人の立場に甘んじているあなたに業を煮やした、堪え性のない血気盛んな若い者たちが武装蜂起を企てているのです。我々は彼等の無謀を押しとどめたい」
「彼等の計画は時期尚早なんです。我々は、蜂起は、あちこちに散っている同志たちを可能な限り多くまとめて、組織立って一斉に行ないたい。少ない犠牲で、穏やかに祖国を再興したいのです」
「馬鹿げた妄想だ。犠牲の少ない武装蜂起、穏やかな祖国再興? 不可能だ」
「可能です。アンジェイ様が我等の指揮を執ってくだされば」
「私にその気はない。是が非でもというのなら、皇帝の血縁者は他にいくらでもいるだろう。その中には野心のある者もいるはずだ」
「第一血統親王はアンジェイ様です」
第一血統親王。正妃が後継者を儲けられなかった際に、玉位を受け継ぐ非嫡出の男子。オクシタニス大公国の大公世子が言っていたヒュペルオイアス帝国の皇太子は、やはりアンジェイだったらしい。
扉の陰でアリスが恐れていることも知らず、アンジェイはあっさりとその事実を認めた。
「そう。私は第一血統親王だ。正妃の子ではない。正妃にも男児はいたと聞いている。私は会ったこともないが」
(それは、正妃に皇子がいたのに、アンジェイが皇太子に選ばれたということ? では、ヒュペルオイアスの宮廷には、アンジェイ母子を妬み恨んでいる者が多くいたのでしょうね。ヒュペルオイアスの帝宮で、アンジェイとお母様はつらい思いをされていたのかもしれない……)
「確かに大事なのは皇帝の血です。ヒュペルオイアス帝国は、神寵帝理念の国。皇帝は神によって選ばれ、その恩寵を受ける存在。皇帝の支配権の根底には神の恩寵があり――」
「皇帝陛下に何人の皇子がいようと、天寵を――それも三重天寵を受けた皇子はアンジェイ様一人だけ。アンジェイ様がヒュペルオイアス帝国の皇帝になることは神の意思なのです!」
(アンジェイが……なに? 今、何て?)
滅んだ帝国の妄想家たちは、今、何と言った?
驚くことと疑うことのどちらの作業(むしろ感情?)を優先させればいいのかが、アリスにはわからなかった。
帝国の旧臣たちが口にした言葉は、それほどに、アリスにとっては夢想だにしないことだった。完全に不意打ちの情報だったのだ。
なに? どうして? 三重天寵の皇子? アンジェイが?
お祖父様は知っていたの? 天寵の力は秘匿されるはず。アンジェイの指輪を見て、もしやと思ったの?
だから、お祖父様は、お父様にあんな遺言を残したの?
ああ、考えがまとまらない……!
「私は、私が生まれた国にどんな幸いももたらさなかった。逆に国を滅ぼした。再興など……」
「それは、アンジェイ様が三重天寵の受者と知った途端、まるで自分が神の恩寵を授けられたように錯覚して、無謀な侵略戦争を始めた先帝が愚かだったのです。アンジェイ様が起たれれば、きっと……!」
食い下がる二人に、アンジェイは、いつも通りの穏やかな声音で、だがきっぱりと言い切った。
「君等の祖国愛と執念には大いに感じ入るが、私は帝国の復興には全く興味がない。ヒュペルオイアス帝国の帝位? そんなもののために、十八年かけて築かれた今の平和を壊し、民の生活を壊すことは、それこそ一国の君主のすることではないだろう」
アンジェイに野心はないらしい。その一事が、混乱を極めていたアリスの心を少し落ち着かせてくれた。
アンジェイにその意思がないのなら、ヒュペルオイアス帝国の旧臣たちも事を起こすことはできないだろう。アンジェイが陣頭の立つのでなければ、彼等は『神寵帝理念』の大義名分を失うのだ。
アンジェイが厩舎を出ようとする気配を感じたので、アリスは急いでその場を立ち去ろうとした。が、アンジェイは外に出てこなかった。二人がアンジェイを引き止めたのだ。
「殿下がそのようなお考えを持つに至ったのは、若い連中が言っているように、あのイース伯爵の娘のせいでしょうか」
「食事会の間中、胡散臭いものを見るような目を我等に向けていて――胸中はどうあれ、あのような席で表面を取り繕うこともできぬとは……」
「取り繕えなかったのは君等の方だろうな。おそらく君等は、アリスに胡散臭さを感じさせるような振舞いをしてしまったんだ。アリスは観察眼が鋭いんだよ」
アンジェイはどうやら微苦笑を浮かべたらしい。アリスには、二人の旧臣が息を呑む音が聞こえた――ような気がした。
「あれが随分とお気に召しておいでのようですが、殿下のお妃はもっと高貴な身分の姫君でなければなりません」
「ヤロスラフの言う通りです。なぜ、よりにもよって敵国の、あんな生意気で、さかしらで、気品のかけらもない――」
ヴァーサリが、続く言葉を喉の奥に押し戻す。
空気を裂く冷たい音。アンジェイは彼の忠臣(?)の喉元に、短剣の切っ先を突きつけたようだった。
「アリスを侮辱する者は、誰であろうと許さん」
アンジェイの剣幕に仰天したヴァーサリが、引きつった声でアンジェイの怒りを静めようとする。
「そ……そこまで、アンジェイ様があの娘を気に入っているのなら、それこそ帝国を復興し皇帝の座に就くべきではありませんか。ヒュペルオイアス帝国の皇帝として、あの娘にアンジェイ様の妻になるよう命じればよろしい」
アンジェイの妻。
アリスは気が遠くなりかけた。
今夜は何という夜だろう。
自分は、そんなものには永遠になれないのだと思っていたのに。
アンジェイが手にしていた剣の切っ先から力が抜けたのか、またヴァーサリが言葉を生み始めた。
「そうですとも。敵国の、たかが伯爵家の娘など、皇帝の威光の前では無力も同然。逆らうことはできますまい」
「黙れ! それで私の母が不幸になったことを知らぬわけではあるまい! そんなやり方でアリスを私のものになど!」
「では、他にどんな方法がありますか! 今のままでは、アンジェイ様は何の力も持たない、ただの平民です。相手は、敵国の、父帝の仇の国の、ただの小娘ではありませんか!」
「アリスは貴様等にそんな言い方をされていい人ではない。私は、アリスほど優しく美しい瞳の持ち主を他に知らない」
「それは、あの娘がアンジェイ様に恋しているから。ただそれだけのことでしょう! アンジェイ様に向けられるあの娘の瞳が優しいのは、あの娘がアンジェイ様を愛しているからで、あの娘の瞳が美しいのは、あの娘がアンジェイ様を恋しているから。それだけのことです!」
「……」
アンジェイは剣を収めたようだった。
アリスの心臓と血は静かになっていた。もう、身体の中で暴れる力も残っていない。
「そんなことを、よもや君等に教示してもらえるとは思ってもいなかった。……が、愛しているのは私の方だ」
アリスは、その夜、それからどうやって部屋に戻ったのかを、全く憶えていなかった。
自分が、その夜、少しでも眠れたのかどうかすら、自分のことなのに、まるでわからなかった。
翌朝、アリスたちがレブリエ男爵邸を発つ時、アンジェイはすっかり、いつもの彼――アリスが特大の失敗をしでかしでもしない限り大きく表情を変えることのない、いつもの彼に戻っていた。




