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レブリエ男爵邸の密談②


 侯爵領視察の出発は初夏の早朝だった。

 馬車は、王宮や王都の名家を訪問する際に使う四頭立て四輪馬車ではなく、二頭立ての箱型四輪。可動性と積載性能重視の人目を引かない地味仕様の馬車に、アリスは父と共に勇んで乗り込んだ。

 二人の護衛とアンジェイが騎馬、御者を合わせて総勢六名。夜には友人邸に宿泊予定なので、できるだけ少人数に抑えた編成である。

 宿泊予定先のショードロン男爵とレブリエ男爵は、どちらも先の戦争でアリスの祖父の副官を務め、戦後アリスの祖父の推挙で男爵位を得たという経緯があり、イース伯爵家には恩義を感じているらしい。

「だからこそ、なるべく負担をかけないよう、私一人で行こうと思っていたのに」

 事ここに至っても文句と溜め息を重ねる父を、アリスは笑顔で無視した。窓を開け、アンジェイを馬車の横に呼び寄せる。

「アンジェイ。私も馬に乗りたい。箱の外に出たいわ」

 馬車はまだ王都ベルズの検問を出ていない。

 アンジェイは無言で、箱内のイース伯爵に視線を投げた。

「今は駄目だ。人目がない街道に出たら、乗せてやってくれ」

「はい」

 アリスが不満顔で父を振り返ったのは、王都のいわゆる四門を出ても、郊外には人家が点在しており、人目がない街道に至るまでには相当の距離があることを知っているからだった。

 結局、アリスは馬車の中で父と向き合い、神妙な顔で、父の説教を拝聴することになってしまったのである。

 アリスはもちろん上の空で、外の風景とアンジェイの馬の様子にばかり気を取られていたが。

 アリスが初めてまともに父の話に耳を傾けることになったのは、アリスたちが向かっているコルヌアイユ侯爵領が、なぜイース伯爵家に与えられることになったのか、その事情をイース伯爵が語り出した時だった。


「コルヌアイユ侯爵領はエルフィフの嫁資だった土地に接しているんだ。コルヌアイユ侯爵領の南西にエルフィフの生家がある」

「お母様の?」

 初めて聞く話だった。娘を見てくれない母の話を、アリスは父の前では極力避けていたのだ。父を傷付けることになるのではないかと、それを恐れて。

「私の母とエルフィフの母――つまり、おまえのお祖母様方は幼馴染みで、姉妹のように育ったんだ。子どもたちを結婚させて親戚になりたいと、ずっと夢見ていたそうだ。で、私とエルフィフが成人した頃、その計画を実行に移そうとした。ところが、ちょうどその頃、エルフィフの家の経済状況が悪化して、持参金の用意が難しくなった。そこで、私の母がエルフィフの母に、自分の嫁資だった土地を譲ったんだ。ほとんど価値のない荒れ地だったが、それを持参金としてエルフィフがイース伯爵家に嫁いでくれば、土地は元の持ち主に戻るわけで、誰も損をしない」

「それって架空取引じゃないですか!」

「二十年以上前のことだ。時効だよ。それに、当時は、ヒュペルオイアスが南下侵略を始めた頃で、フランコルム王国の北側の地権はあってないようなものになっていたんだ」

「そのどさくさに紛れて、お祖母様たちは不正を働いたというわけですね」

「そういうことだ。おまえの祖母の嫁資であり、おまえの母の嫁資であるその土地は、いつかはおまえのものになる。そこで、その周辺の土地をまとめてコルヌアイユ侯爵領とし、イース伯爵家に与えよう――ということになった」

「そんなに価値のない土地なんですか……」

 その上、北側がヒュペルオイアス州に接しているとなれば、どこに厄介事の火種が転がっているかわからない。

 憂鬱な気分になったアリスに、だが、イース伯爵は首を横に振った。

「そんなことはない。あの土地は、あの辺りでしか育たない植物がたくさんあって、ちょっとした産業を興せそうなんだ。食用ではなく薬草なんだが」

「ああ、それでお父様が直接視察に――」

 アリスの父の植物研究のレベルは、趣味の域を超えている。今回の侯爵位の叙爵と父の視察には、アリスの知らない事情があったのだ。

「そう。お母様の生家があるの……」

 久し振りの遠出に浮かれていたアリスの気分が、しゅんとしぼむ。気分は沈んだのに、なぜかアリスの胸の中では不安の波が騒ぎ出していた。


 瞼に翳りが射してきた娘を見やり、イース伯爵は――彼もまた、僅かに顔を伏せた。それから、何かを思いきった様子で、彼は娘に尋ねたのだった。

「アリス。おまえの生きる目的は何だ」と。

「は?」

 突然の、まるで脈絡のない問いかけ。アリスは、ぱたぱたとせわしなく瞬きを繰り返した。

「それは……貴族の家に生まれたのですから、当然、任された領地と領民を守り、繁栄させることでしょう。それが貴族の務めです」

「あ、いや、それはそうなんだが……聞き方がまずかったか。おまえの幸福は何だ」

 その質問には、アリスは戸惑いも躊躇いも覚えなかった。すぐに、

「今、幸福です」

 と答える。

 父の質問の意図がどうあれ、アリスはそう答えるしかなかったのだ。

 が、イース伯爵の質問の意図は、アリスの想定外のところにあったらしい。おそらく御者の耳を気にして声を潜め、彼はアリスに囁くような小声で告げた。

「父は――おまえのお祖父様は、臨終の床で、私に一つの遺言を残したんだ。決してアンジェイ母子を粗略に扱ってはならないと。アンジェイを粗略に扱うと、イース家に災いが降るかもしれないからと。アンジェイを篤く遇していれば、もしかしたら、イース伯爵家は途轍もない僥倖に恵まれるかもしれないと」

「……」

 それは、本当に思いがけないことだった。

 先代イース伯は、アンジェイの母の生まれも、彼女がヒュペルオイアスの帝宮にいた経緯も知らなかったはずである。もし知っていたら、フランコルム王国にとって災いの種になり得るアンジェイを、「初孫が生まれるのに、幼子の命を奪うのは縁起が悪い」などという軽い(?)理由で、拾ってくることはできなかっただろう。

 それとも祖父は知っていたのだろうか。あるいは、アンジェイの血の他に、祖父の心を動かした別の要因があったのか。

 アリスにはわからなかった。

 アリスにとってアンジェイは、自身の命よりもアリスを大切に思ってくれている人、決して失うことのできない唯一無二の存在――でしかなかったのだ。

「お父様。お祖父様はなぜ――」

「アリス。私の望みは、おまえが幸せになることだ。それゆえ、私は――」

「お父様?」

「おまえとアンジェイを正式に結婚させてやることはできないが、二人の間にできた子を養子としてイース家に迎え、イース家を継がせてやることはできると考えているんだ」

「……!」

 父の言葉に、アリスは息が止まるかと思った。

 世の良識や貴族社会のしきたりに逆らうことなど考えたこともなさそうな父が、そんな大胆なことを言い出すことがあろうとは。

 穏やかで心優しい父のために、アリスは、「我儘でも、社会の枠組みからはみ出すようなことはしない“いい子”でいよう」と、いつも自身に言い聞かせていたのに。

「誰でも、本当に好きな人と結ばれるのがいちばんの幸せなのだろうしな」

(お父様……)

 父は、母のことを言っているのだろう。

 父は、アンジェイの母がヒュペルオイアス帝国皇帝の妾妃だったことを知らない。祖父も知らなかったはず。

 娘の幸福を願う父の愛情深さを、アリスは素直に喜んでしまえなかった。



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