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レブリエ男爵邸の密談①


 イース伯爵邸の廊下にクラヴサンが奏でる曲が響いていた。

 決して巧みとはいえないが、いかにも初心者の演奏らしいぎこちなさが、なぜか微笑ましく感じられる。もっとも、曲の演奏者は幼い子どもではなく、まもなく四十歳になろうとするアリスの母親だったのだが。

 アリスの母エルフィフの趣味は読書と刺繍。年に数点の絵を描くこと。つまり、音のないものばかりだったのに、最近彼女は楽器を習い始めたのだ。

 父の書斎に向かって廊下を歩いていたアリスは、どうしても聞こえてきてしまう音を無視することもできず、自身の後ろに従うアンジェイに問うた。

「なにかあったのかしら。アンジェイ、どう思う?」

 目的格を口にしなくても、アンジェイはアリスの懐疑の対象を理解してくれた。

「……自分がここにいるということを、誰かに知ってもらいたいと思うようになったのかもしれない」

「だとしたら、誰に?」

 娘や夫に、ではないだろう。まさか新しい恋人ができたということもあるまい。

 もう母のことを気にするのはやめようと思うのに、思い切れない。

 そんなアリスの気を紛らわすために、アンジェイがささやかな情報を提供してくれた。

「リトルフ先生が、やっと巡り会えた熱心な生徒に歓喜しているそうだ。アリスは不真面目すぎる生徒だったから」

 リトルフ先生というのは、今から十年前には既に総白髪になっていたクラヴサンの名手である。アリスの音楽教師としてイース伯爵家にやってきたのだが、当時八歳だったアリスのやる気の無さに負けて、職を辞していった。アリスの母は、そのリトルフ先生を再び、今度は自分の教師としてイース伯爵家に呼び寄せたのだ。

「アンジェイは上手だったから、続けて教えてもらえばよかったのに」

「私も、アリス同様、剣術や馬術の方が好きだったから」

「私、アンジェイの演奏家としての才能の芽を摘んでしまったのかもしれないわね」

「アリスが音楽家気質でなくて助かった」

 アンジェイと話していると、母のクラヴサンの音が遠くなる。おかげで、アリスは、平常心に戻って父の前に立つことができたのである。

 残念ながら、アリスの父の用件は、せっかく凪いだアリスの心を再度ざわつかせるものだったが。

「国王陛下から――王太子殿下の振舞いに気を悪くすることなく、本気で王太子妃になる件を考えてほしいとのお言葉があった」

 というのが、アリスの父の用件だったのだ。

 アリスとしては、

「それは、多分、王太子殿下と私の体裁を保つための巧言です。本気ではありません」

 と応じるしかなかったのである。

 アリスには、「あの求婚もどきは王太子の戯れ事だった」ということで、既にけりのついた話だったのだ。

 父にもそう認識してもらうため、アリスは大急ぎで話題を変えた。


「そんなことより、お父様。近々、コルヌアイユ侯爵領の視察に赴くというお話を伺いました。私も同道させてください」

 もともとアリスは、その件をねだるつもりで、父の呼び出しに応じたのだ。

 案の定、アリスの父が渋い顔になる。

「視察旅行はピクニックではないんだ。しかも、コルヌアイユ侯爵領は王都から馬車で三日はかかる遠方にある。かなり北方だし、のどかな田園でもない。未開の荒れ地だ。若い娘が楽しめるものは何もない」

「だいたい察しはついています。コルヌアイユ侯爵なんて聞いたこともない爵位。その領地も、大きな価値のあるものではないのでしょう。でも、いずれは私が治めることになる土地。私が何も知らないのは問題だわ。王都にいると、毎日縁談ばかりが持ち込まれて、うんざりだし」

「旅行に行きたいなら、もっと手近に、安全に楽しめるところがあるだろう。そもそも、おまえは、三日も馬車の中で大人しくしていられるのか」

「お父様は、私の忍耐強さをご存じないの」

「今回の視察の旅程は、一日目の夜はショードロン男爵邸、二日目の夜はレブリエ男爵の館に泊めてもらうことになっている。おまえは両家で慎ましく淑やかな貴族令嬢でいられるのか」

「私の得意技だわ」

「……それは、よくよく承知しているが」

「――」

 思いがけない父の反撃に、アリスは少なからずたじろいだ。

「お父様でも皮肉をおっしゃることがあるのね。お見それしました」

「慎ましく淑やかな娘を見て、学んだのだ」

 嘆かわしげに、イース伯爵が二度三度、首を横に振る。

 イース伯爵に敗北を促したのは、アリスが沈黙して静かになった部屋に微かに聞こえてきたクラヴサンの演奏――のようだった。

 その音を聞いて無言になり、何事かを考えるような素振りを見せて――結局、イース伯爵はいつものように娘の我儘に折れたのだった。

 それがなぜなのか、アリスにはわからなかったが。



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